牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

中学時代の印象が聞く人全部いっしょだった

2006-08-28 06:46:31 | Weblog
今回の種子島行きは、種子島新生キリスト教会と西之表基督教会で話をするためでした。同時に、「天の虫けら」のビデオ(DV)化の撮影隊〔4名〕も同行してくれました。7月のアフリカ宣教では10日間カメラに映されながら・・・。今回は23日と24日の2日間、カメラにさらされながらの故郷でした。

 中学時代の担任お二人(社会・国語、体育・音楽・美術)、同級生五人(男2・女3)、教会の牧師夫妻八名にインタビューしてもらいました。

 私が中学時代どんな少年だったかという単純な取材。それぞれことなる場所での取材でしたが、担任も同級生も牧師も全員全く同じ答えだったので、取材陣も何よりも本人が驚きました。

 皆さんの記憶に残る50年前の印象は、「物を言わない静かでおとなしかった」でした。本位も歌も歌わず、ものも言わず、運動もせずと書きましたが、大げさではなくそのままの自分がみんなの記憶に刻まれていました。

 教会の牧師たちは別としてなぜ記憶に残っていたのか。それは西之表市から中種子町之星原中学へ越境入学したので、山から下りてくる新顔(しかもたった一人の侵入者)だったからです。ひとりの女性は通学路の側に家があり、2回だけさようならと小さな声で言われたので覚えていると電話で話してくれました。

 極端に物言わぬ中学生だったに牧師になっているということが、教会にまで会いにきてくれた一因だと、取材に答える姿を見ながら思いました。

 昨日の礼拝では、「荒野の恵み」と題して話しました。人生にも様々な荒野や砂漠のような状態の試練の中を通ることがあります。今日も荒野だ!と思っている方もあると思います。しかし、その辛いときこそ最高の恵みの場となるのです。通り過ぎたときに分かりかもしれません。当座は苦しいだけと感じると思います。

 聖書をシッカリ読むと、真実の約束がいっぱいあり、それにアーメンと答えるとき、人格が磨かれ品性が輝くのです。荒野を恐れないですばらしい幸せへの通過点であることを確信できればいいですね。祝福を祈ります。

ローマ書

  5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。