牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

神の愛を体験する

2005-10-02 07:22:12 | Weblog
どうすれば神の愛を体験できるか

 聖書はこのように分厚い本ですが、聖書の中心を要約すると、「神は私たちを愛しておられる」ということです。私たち人間の側から言うと聖書の主題は、「どうすればこの神の愛を自分のものとして体験できるか」ということです。
 聖書は、神の愛を自分のものとして経験するために,私たちが知らなければならない大切なことが三つあると教えています。その三つのこととは何か、今日いっしょに聖書から見てみましょう。

1. すべての人は罪を犯した
 まず第一は、この点です。ここを声に出して読んでくださいませんか。「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉をうけることができず」(ローマ3:23)
 ここに、「すべての人は罪を犯した」とあります。
罪とは?
 ところで、聖書の言う「罪」とは「犯罪」のことではありません。「犯罪」というのは、泥棒をしたり、詐欺をしたり、人を殺したりする、いわゆる刑法上の罪です。聖書で言う「罪」とは「神」自身の完全な正しさ、清さの標準から外れることを言うのです。この世の中に神と同じ正しさをもった完全無欠な人はいないですね。
 たとえば、一つの身近な例として嘘をつくことを考えて見ましょう。嘘は罪ですね。それでは、嘘を何回つけば嘘つきになりますか。一回ですね。同じように、多くの罪を犯さなくても、一回でも罪を犯すと神の前には罪人なのです。
 一生の間、一度も嘘を言ったことのない人がいると思いますか。いないでしょうね。ですから、私も罪人です。あなたがたも神の前には罪人ですか?

2. 罪の罰は死
 第二番目に、罪には罰があると教えています。この箇所を読んでくださいませんか。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)
ここに、「罪から来る報酬は死です」とあります。つまり、私たちは神の前に罪を犯したからその結果、「死」という罰を受けると聖書は教えているのです。
 ところで、「死」には二つの意味があります。一つは「肉体の死」です。肉体の死というのは、葬式をしてもらう、あの死です。もう一つは「霊の死」です。
 霊の死とは、死んだ後、私たちの魂が神から離れて地獄で永遠を過ごすことです。これを「永遠の滅び」とも言いますが、それはこの私たちがこの地上で経験しうるどんな災難や苦しみとも比較にならないほど恐ろしい苦しみであると、聖書は教えています。
 「罪からくる報酬は死です」というのは、聖書の中でくり返し教えられている神の鉄則です。神は矛盾されないお方ですから、その鉄則を変えたり、変更したりすることはありません。それは守らなければならないのです。その「死」という報酬を私たちが受けるか、もしくは、だれか別の方が代わって受けてくださるか、どちらかなのです。
 ところが、神様は私たちを愛してくださっています。私たちが永遠の滅びに行かないために、私たちの罪の身代わりをしてくださった方がいるのです。

3. 身代わりの十字架
 聖書を読んでください。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」ローマ5:8
ここに「キリストが私たちにために死んでくださった」と書いてあります。それも私たちが神に喜ばれるような生活をしていたときにではなく、「私たちがまだ罪人であったとき」にです。
 つまり、私たちが「神など居ても居なくても自分には関係がない」と考えて神を無視し、神に対して反抗的な態度で生きていたときに、神のほうから私たちを愛し、あわれみ顧みてくださったのです。
 そしてキリストは、永遠の地獄での滅びに向かって進んでいた私たちのために、自分から進んで、ご自分のいのちを捨ててくださったのです。この十字架の神の愛の最大の現われがあるのです。

むごい拷問
 拷問され、歩くこともできないほど弱りきったキリストは、無理やり重い十字架を背負わされました。ゴルゴダという処刑の場所に着くと、キリストの両手と両足に釘が打たれて、十字架刑につけられました。十字架刑というのは、人間が考え出した死刑の中で最も一番むごいものだといわれています。丈夫な人は釘付けになったまま、数日間も虫の息で生きていたそうです。
 なぜキリストはそのようなむごい死に方をされたのでしょうか。それは、ほんとうは私たちひとりひとりが受けなければならなかった神の刑罰を、キリストが代わりに受けてくださったからです。


コリント人への手紙第二・5章23節

 今までに説明したことの総まとめが、この聖句に書かれています。
 「神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって神の義となるためです」
 ここで「罪を知らない方」とは、キリストのことです。「義となる」というのは聖書の中の特別な用語で、「罪が赦されて完全に正しい者とされる」ことです。
 この聖書の箇所を手まねで説明しますから良く見てくださいね。
1. この手(左)を私やあなたとします。
2. 私たちの上には多くの罪(病・呪い・貧乏・死)があります。いま仮にこれが罪を表すものとします。人を憎むこと、嘘を言うこと、ねたむこと、人のものを取ること、貪欲になること、高慢になること、悪いことを考えること。あなたにはそんなに多くはないかもしれませんが、私たちには数え切れないほどの罪があります。
3. 神は私たちをお造りになった方ですから、私たちを愛しておられます。
4. しかし、この罪を嫌われます。
5. なぜなら、罪が私たちを神から離しているからです。
6. もし私たちが神から離れたまま死ぬなら、永遠の地獄での滅びです。その滅び殻私たちを救うために、イエス・キリストをこの地上に遣わされたのです。
7. この手(右手)をキリストとします。キリストには罪は全くありませんでした。
8. ところがキリストは私たちの罪をご自分で受けてくださいました。
9. それでは、今のこの説明によると、私たちの罪の罰は今どこにありますか。私たちの上にありますか。ないですね。キリストのうえですね。キリストが私たちに代わって罪の罰を受けてくださったからです。
10. こんなすばらしい立場に私たちはすでに置かれているのです。

実感はしなくてもよい
 「キリストが身代わりに死なれた」ということを急に聞いても、実感がしないと思います。実は、実感がしなくても当たり前なのです。十字架の場所にいなかったのですから。
 もし私たちがキリストの時代に生きていて、キリストの十字架の苦しみを目撃したとしましょう。イエス様の釘付けの苦しみは、私の罪を赦してくださるためなのだということを、自分の目で見たならば、実感がするでしょう。実感がするどころか、声を上げて泣いたでしょう。
 しかし、私たちは、そこにいませんでした。ですから、実感がわかなくても不思議ではないのです。市内にもかかわらず、これはあなたのためになされた事実だと、聖書は教えているのです。
感謝して祈りませんか。
キリストの身代わりによって、神のほうからはすでに私たちの罪を解決済みにしてくださったと聖書は教えています。そのことに感謝して短くいっしょに今、祈りませんか。それではいっしょに目を閉じて祈りましょう。
 「神様。私はあなたの前では、自分が罪人であることを知っています。イエス・キリストが十字架で死なれたのは私の身代わりであり、私の罪を赦すためであったことを聖書から知りました。私は今、イエス・キリストを、私の主、救い主として信じ受け入れます。アーメン」

ヨハネの福音書1章12節
 それでは聖書を1箇所読んでみましょう。
 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」
 ここで「この方」とは、イエス・キリストのことです。先ほど、いっしょにこう祈りましたね。「イエス・キリストを私の主、救い主として受け入れます」それがキリストを受け入れるということなのです。
 ここはキリストを受け入れた人々、すなわち信じた人々には、どんな特権が与えられると書いてありますか。「神のことされる」
 そうですね。ここで神は嘘を言っておられると思いますか。「いいえ」
 それでは、この聖書のことばによるとあなたは今、神の子どもとしての特権が与えられていますか。「はい」そうです。ここにあるとおり、キリストを救い主として受け入れたので、あなたは神様の子どもになったのです。今日はあなたが神様の子どもとして生まれた誕生日です。

感じに頼ってはならない

 ある人たちは、自分が神の子どもになっているがどうかを、自分の感じで判断しようとします。それは大きな間違いです。気分の良いときは「ああすばらしい気分だ。神の子どもになっているからだ」と感じるかもしれません。別の時には、「ああ気分が重い。もう神の子どもではなくなったにちがいない」と感じるかもしれません。しかし、またしばらくたつと、神の子どもであるような気分がし、また別の時には、ないような気分になりかもしれません。人間の「感じ」は変動しますのであてになりません。この世界で絶対に変わらないものがあります。それは聖書の神の約束です。自分が神の子どもであることをハッキリ知る方法はただ一つ、聖書のことばによるのです。
 それでは最後に一言、神様に感謝して祈りましょう。自分のことばで、「神様。今日あなたの子どもにされたことを感謝します。アーメン」と祈りましょう。