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車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

メンタル強い?弱い?

2025年06月21日 21時23分58秒 | 日記
よく耳にするのが「メンタルが弱い」という一言。

以前は僕も自分をそう思っていたし、自分のことをそう表現していた。

でも、専門家によれば「メンタルは『強い』『弱い』で評価出来るものではない」という。

それを聞いて、合点がいって、それ以降僕はそういう表現はしないようにしている。



そもそも、よく耳にする「メンタルが強い」と言われるような人。

その「強いメンタル」は言葉を変えると「自己中」とも言えるのでは?と思うのだ。

実は以前からずっと(笑)

他を気にしない、自分を貫ける、決して譲らない。

だからメンタルが強い。

であれば、僕は単純にそういうことなんじゃないの?と思っていた。

もし何かを決断しなきゃならない瞬間に、迷うことなく強い意志で即決できるのが「強いメンタル」だとした場合、その背景には何があるのだろう?



仮にその人の中にそれ以外の選択肢が無かっただけだとしたら?

その良し悪し関係なく、ただ自分がやりたいからという理由で選択しただけだとしたら?

リスク・マネジメント?そんなの考えてられねぇよ!ノリでいこうよノリで!ということだったら?

言われたことをただがむしゃらにやっているだけ(自分で考えていない)ということもあるかもしれない。

場合によっては「脳筋」というのも「強いメンタル」かもしれない。



じゃぁ逆に弱いメンタルの背景を考えてみたい。

即決できないのはなぜ?

優柔不断だから?

じゃぁなぜ優柔不断(と評価されるほど悩むのか)を考えてみても良いのではないだろうか?

それは逆にそれだけの選択肢を持っている表れだし、その瞬間にその判断をしようとする思考能力を有していることになる。

無意識に反射的行動を取るのではなく、自分の意識化で行動をしようとしていることの現れ。

それは自分自身を客観的にコントロールしようとしていることと取れる。

その思考の時間(数秒、あるいはコンマ何秒)がマクロでみると空白の時間になっているだけであり、その時間が本人の中で、あるいは周囲の評価として「即決できていない」となり、それを悔やむ、そして落ち込むなんてすると「メンタルが弱い」なんてことになるのではないだろうか?

でもそれは悪いこと?

その決断を悩む理由に選択肢の多さがあるとして、その選択肢にもし自分以外の要因(チーム、チームメイト、スポンサー、応援してくれている家族など)もあるかもしれない。

その人たちのことを考えて、その人たちのプラスになること、マイナスにならないように考えてということもあるはず。

それは「プレーに集中できていない」と言える。

けれど、見方を変えればそれは「自分以外の人のことを考える優しさ、思いやり」と捉えることも出来る。

そんな人を「メンタル弱い」という?



卓球のような個人競技であれば自己責任として結論付け出来るけれど、これがサッカーやバスケなどチーム競技になった場合は全然違ってくると思う。

「自己中」に動く選手はメンタルが強いかもしれないけど、チームとしてはどうなんだろう?

他の選手のことも考えた、理解出来た言動が出来なければチームとしてまとまらないだろうし、プレーだって良くならない、良いチームが構築出来ないのではないかと思う。



だから、自分を貫き通せる力を「強いメンタル」とするならば、それは必ずしも高評価に値するとは限らない。



それに、スポーツ選手は生涯現役で過ごす訳ではない。

引退もあるしその後の別のキャリアでの生活もある訳だ。

それなのに、ただ「強いメンタル」と評される自己中的な「人材」をチームの一員として迎えたがる組織が果たしてどれくらいあるのだろう?

むしろ逆に「扱いにくい」と評されることの方が多いように思える。

そういう人材が求められるとしたら、それはその強いメンタルを評価してのことではなくきっと何か別の要素であり、仮にもしその別の要素は欲しいけれどチームの一員としては迎えがたいという場合は一時的な客員扱いというのがオチのように思う。



それでいいの?



だから、「メンタルが弱い」というがそれが必ずしもダメな訳ではなく、なぜそうなのかを理解することでそれはプラスの評価にもなり得ると思うのだ。

そして、それが判断のスピードの問題であればそれをもっと早くするトレーニングを行えばいいし、より的確な判断が出来るだけの選択肢を持てるようトレーニングしていけばいい。

そう、トレーニングで磨いていくことは出来る、それも「メンタル」なのだ(と専門家が言っていたw)。



「技術が下手なんです」

という人は練習をして向上させていく。

「フィジカルが弱いんです」

という人はトレーニングをして身体能力を高めていく。

「メンタルが弱い(自信がない)んです」

という人は、同じようにトレーニングすればいい。

ただ、技術やフィジカルは効果を目(見た目)で確認できるけど、メンタルはそうはいかない。

そこが難しいところだし、トレーニングの難しさでもあるという。



じゃぁそのトレーニングの方法は?

それは、専門家にお世話になるに越した事はないけれど、その専門家は技術やフィジカルのコーチと同じように簡単に出会えるものではないかもしれない。

人口比率は格段に低いだろうから。

じゃぁどうする?

そもそもメンタル・トレーニングに絶対はないと思う。

算数のように答えはひとつではないと思うから。

十人十色であれば、同じ人でもケース・バイ・ケースで答えは変わると思うし。

だから、勉強方法も人それぞれ。

そして、選手とトレーナーの相性もまたそれぞれ。

であるからこそ、まずは自分なりの勉強方法でも良いのでは?と考える。

まずは1冊本を読んでみる。

あるいは話(講義)を聞いてみる。

そこからスタートさせればいい。

恐らくその一歩を踏み出す人の方が世の中少ないだろうから、それだけでライバルに差をつけることが出来る。

そこからアップデートを重ねていけばいい。

必要あれば専門家を探すのもありだし、現代にはネットというツールもあるので相性はともかく出会うことは出来ると思う。



先述した通り、メンタルは強弱で評価するものではない。

であるからこそ、良し悪しのボーダーラインを設けることも出来ないし、人それぞれ違えばその時々で変化もするので評価だって見方や解釈によって変化して当然。

だからこそ、自身をどう評価するかだと思う。

自分を「弱い」と思えばそうなるし、いや、「強い!」、あるいは「弱くはない」と思えばそれが正解なんじゃないだろうか(強弱ではないんだけどw)



先述した「選択肢がたくさんあって、自分以外の人のことも含め考えることが出来る」という人が、迷わず瞬時に的確な判断をし行動に移していけるとした場合、そういう人を周囲は「メンタルの強い人」と評価するだろうか?

いや、その前に「頭の良い人」と評価されるように思う。

であれば、先述した僕の考える「メンタルの弱い人」は、「頭の良い人」になれるポテンシャルを有しているということになる。

それは現時点では原石であることを意味し、磨けば強い輝きを放てるということになる。

であればこそ、成長の為に学ぶ、自身を磨いていく必要がある。



今、磨く方向に進むか?それとも諦めるか?

今は同じ地点にいるけれど、それぞれの方向に進んだ明日は立ち位置が違っていて、その先の未来はさらに違っているはず。

それが1か月、1年、5年とそれぞれの方向へ進み続けた場合、その差はどれくらい開いているだろう?

それが持論の「分度器の理論」(笑)

自分が見定める方向へ足を進めていくのが人生であれば、その時の思いつくままに足を運んでいけるのもまた人生。

ただし、思いつくままに進んだ先で「なんでこんなところにいるんだろう?」と思っても、時間をさかのぼることは出来ないし、引き返すことは出来ないのが人生のリアル。

その人生は引退してからも続く訳だから、現役で活動している時の財産はそのまま引き継いでいくのも然り。

引退したから、就職したから、転職したから、人間がガラッと変わるなんてことはない。

現代のスポーツ選手のスタンダードは「セカンド・キャリア」ではなく「デュアル・キャリア」だというから、様々な面で学びは尽きないし、今学んでいることが未来の自分の財産になる。

だから、自分を卑下することなく常に胸を張って頑張っていればいい。

その頑張りが未来の自分を作る。



そうやって頑張り続ける人は、頑張り続けるからこそ胸を張れる。

でも、判断を誤ることもある。

それはメンタルの問題ではなく、ただシンプルに間違っただけ。

それは戦術とか理論的な判断ミス。

もしそこでその誤りを引きずってしまうとしたらそこにメンタルの問題が生じる。

それがなければ、その誤りを「反省材料」という「糧」として前に向かっていける、進んでいけると思う(少なくとも後悔の念はない)。

それが経験値。

上手くいった場合が成功体験。

そうでない場合は「失敗」ではなく「経験」。

そう考えることが出来ればそれはメンタルがすごく健康な状態にあることだと思う。



と言うのは簡単なんだけどなぁ(笑)

中々自分事として捉えられないのが僕という人間。

いつか日の目を見るその時が来ると信じて、胸張って頑張り続けるしかない。



本当は先週末の試合の結果を報告すべきなのだけれど、この週末にも試合が控えていて、更には来週から2大会連続で控えているのもあるので、それらはまとめてアップ出来ればと思っている。

暑い日が続いている。

体調管理もよりシビアになってきた。

まずはコンディショニング。

頭と心を健全な状態で維持できるよう、まずは身体に不安のない状態の維持が不可欠。

うなぎ食べなきゃ(笑)

続・「強さ」と「上手さ」

2025年06月06日 23時05分11秒 | 日記
「続く」と公言した以上タイトルはそう書いているけど、内容はちょっと違っている旨をまずはお伝えしておく。

敢えて正式なタイトルをつけるなら、「その為に『学ぶ』についての持論」とでも言おうか。

カッコいいなぁ(笑)



では本題に入る。



「上手くなる」為に技術を教しえてくれる人は多くいる。

けれど、その「教える」の中身(教え方)は様々なので、多くいる人の中で「自分に合った指導者」という自分が分かるよう細かく合わせて教えてくれる人に出会うのは意外と難しいように思う。

上司、部下、先生、恋人だって同じで、人間関係の難しさであり人類の永遠のテーマの一つ。

であれば、そのドンピシャを探し求めるよりもまずは相手がどのような指導者であるかを問わず真摯に教えてもらい(謙虚な姿勢、相手に合わせることも必要か)、その教えてもらったことを「理解(消化吸収)できるように努める」方が効率的だと思うし、成長していく為にもその「スキル」を身につける方がより効率的ではないかと考える。

更に言うと、無料で教えてもらうなんていうのは都合の良い話で、クオリティに比例して価格が上がっていくのは世の常であり、相手が素人であればまだしも、プロフェッショナル(とまでいかなくてもそれで収入を得ている人)であれば信頼関係を築く上でもお互いにビジネスな関係も前提とすべきだし、プロと言っても様々だから、そこは自分のニーズに合致するのかどうかの判断も必要。

また、金銭を生じさせず善意で指導いただけるのであれば、合う合わないではなくまずは感謝の気持ちをもって教えてもらうべきだと僕は考える。

その為にも、まずは自分で勉強し自分を高めていこうという気持ちが大切で、その「学びの意識」が重要になってくると思う。



例えば「〇〇教室」みたいなところに参加しても「学びの意識」の有無、あるいはその強弱で授業の効果、そこから得られるものの大きさは異なってくるはず。

「自分とは合わないな」と思った内容あるいは人であったとしても、そこから何かしらを得る、学ぶことは出来ると思うので、その為にも「学びの意識」が不可欠。

なので、まずはそれをもってして指導を受ける。

繰り返すが、同じ指導を受けるにしてもその違いが結果的に差を生むことになるのだと思うから。

また、コーチや指導者も人間だから感情は当然有している。

「教えがいがある」と思う生徒に気持ちが向くのは当然なこと(でなければ損得感情かw)。

そうしたところでも差が生じかねないようにするために自分がどうするのか?となる。



じゃぁ具体的な学びの意識とは?どうやるのがいい?

ここで言うのは気持ちの部分ではなく、行動という物理的なことについて。

でも残念ながらその答えは1つではないと僕は思っている。

個人差があると思うのだ。

「ノートを取る」というのは分かりやすい手法だし僕も肯定する。

でも現代ではもっと効率の良い記録の留め方も複数ある。

大切なことはその情報を「頭の中」に記憶することであり(ただデータとして物理的に記録すればいいという場合を除く)、その為に「どの方法が自分に合っているか?」を考え判断すること。

まずそれを見出し、それをもってして「学びの意識」を行動に移していく。

これが重要だと思う。

だから、「人に言われたとおりにやる」ではダメ(そこでも差が生じる)。

せっかく記録を取ってもその方法が自分に合っていなければ効果は半減されるから。

そのノートの取り方に関して、オリンピック元卓球代表の言葉が印象的だった。

「私が子供たちに言ってるのは、私の言ったことをそのままノートに書くなということ。ちゃんと自分の言葉で書きなさいって」

これも重要なポイントだと思う。

どの単語で表現するかで印象はガラッと変わると思う(その重要性を実感しているからこそそうしたよりリアルな指導を技術以外の部分でも行えるという高いレベルのコーチングの現れ)。

そういう風に「自分に合ったやり方」でなければ、どれだけ真面目に頑張っても、極論を言えば努力の空回りとなりかねない。

じゃぁ自分に合ったやり方とは?

それをどうやって見つける?



ここからは100%僕の推論、個人的な考えになり科学的な根拠は一切なく、あくまでも一つの考え方に過ぎないのでその点を理解いただいたうえで読んでいただきたい。



まず、人の感覚はそれぞれ違っている。

大小強弱もある。

音感の良い人、目の良い人、読解力の高い人、計算の速い人、運動神経の良い人、色彩感覚の優れた人などなど。

みんな違っている。

それは何故か?

多分、脳の構造の違いだと思う(脳科学者の話を聞いて勝手にそう考えている)。

例えば音を聞く。

それは耳から入り信号として脳細胞を伝わってしかるべき脳のどこかで認知される(記憶であれば海馬など)。

その脳細胞を伝達していくルートには個人差があるのでは?ということ。

耳の良い人、音感の良い人はそのルートがより短く効率の良いものなのでは?となる。

例えるなら、普通の人は脳細胞10個をパスしてたどり着くところを、5個で到着できるとか。

そうした個人差があるのではなかろうか(個人の勝手な妄想)。

だって外見は皆違っているのだから、中身も違っていて当然。

視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。

五感の感度は人それぞれ違っていて、だからこそ得手不得手があるのだと思う。

作家や芸術家、音楽家、数学者・科学者とか、あるいはトップアスリートもそうだし、優秀な料理人やソムリエなどその道を究めている人はそれが天性のものなのか、あるいは幼いころから培った結果得られたものなのかは分からないけれど、そうした「優れた感覚」を有しているのは間違いない。

で、大切なのはここから。

じゃぁ自分はどこが優れているの?を理解すること。

「私にそんなものはない」

と最初からあきらめる人には、僕は敢えて反論はせず「そうですか」と優しく相槌を打とう(笑)

でもここで僕が言うのは人と比べて評価しようというものではない。

自分の中で、自分自身の感覚の中で何が最も優れているかを自分自身で探るということ。

それをするとしないでは、「これ」と思える答えを見出すと見出さないでは、その先の人生は全然違ってくると思う。

これが持論である分度器の理論(笑)

で、その答えを見出すために、僕はまず自身の過去を振り返ることを提案する。

子供の頃、あるいは学生時代の、またはがむしゃらに頑張った若い頃の「勉強の仕方」「運動の仕方」「仕事の仕方」等を思い出すと、そこにヒントがあるのでは?と思うから。

ポイントはその時の「成功したやり方」だ。

見て覚える、読んで覚える、書いて覚える、何度も繰り返し身体で覚えるなどなど。

子供の頃、あるいは若い頃に一生懸命頑張った時のことを思い出して、または楽しかった経験でも良いだろうし、達成感を得られた経験、成功体験など、結果を含めその経験から自分自身の正解(またはそのヒント)を見いだせるのではないかと思う。

話を戻せば、「見る」は視覚からの情報、「聞く」は聴覚から、「書く」は動作に視覚も伴うし、「読む(音読)」は視覚プラス聴覚となる。

五感のどの感覚からの情報が一番効率よく脳に届いて吸収できるか、どれとどれを組み合わせると効果が高いのか、それらで自分には何が最も効率が良いのかを自分で見出すということ。

その答えはお金を払って専門家のカウンセリングを受けるよりも、過去の自分の経験から探る方がもっとシンプルで効率的だと思う。

また、一度で覚える人もいれば、何度も繰り返して覚える人もいる。

それも同じこと。

その優劣を決めるのではなく、自分は果たしてどうなのか、自分にとってどうするのが良いのかを見つけること。

そこで大切なのは「人と同じじゃなくていい」「これが自分なんだ」という自己肯定感。

繰り返すが、ここで人と比べる必要は無い。

自分自身の正解を、そう思えるものを見つければそれで良い。

感覚的に、あるいは経験からそれを既に掴んでいる人は何も気にせず自分のやり方を貫き通せばいいし、それが出来ている人なのだと思う。そういう人はきっと勉強すること(本を読む、話を聞くなど学ぶ・情報を得ること)に前向きでそれを面倒だと思わずに、恐らくどのような職業であれ頑張って取り組むことの出来る、いわゆる仕事の出来る人だと思う。

でもその答えは誰かに教えてもらえるものではなく自分で見つけるしかないものであり、さらには明確にひとつが形を成して存在しているとも限らない訳だから、それを「これだ!」と断定するのは中々に難しい。

成長とともに変化もするだろうから一生同じとも限らないし。

最早それは哲学の領域といえる。

だからこそ、それに向き合い答えを見出そうとする努力そのものに価値があるし、もしその答えにたどり着くことが出来ればそれは、先述した通りその先の人生を大きく変えるもになると思う。

だからまだの人は今からでも遅くない、これから自分で見つければいい。

そして自信をつければいい。

自分の中に答えはあるので、どこに行かずとも考えるだけで見いだせる物凄くコスパの良い成長方法だ。



余談になるけど、だからこそ「若いうちの苦労は買ってでもしろ」なのだと思う。

結果ではなく、一生懸命に頑張った経験が未来の自分にとってのガイドラインになるといえるから。

「頑張った(努力した)」経験は記憶にもより深く残れば、それがより多くある方が過去を振り返った時に華やかだと思えるだろうし(いばらの道は通り過ぎると良い思い出w)、そんな自分をより誇らしく思えるだろうから。

そして、努力というのは必ずしも結果を生むものではないけれど、経験という名で100%自身の財産として残る。

「あの時ちゃんとやっとけばよかったな」

という大人の言葉ほど虚しいものは無い。

ここでもまさに後悔先に立たず、だ。

将来そうならないようにする為に、大人の僕らが子供たちに伝えていかなきゃならないとも思う。

これもまたコーチングか。

とにかく、そうして過去を振り返ると、自分にとって最も効率の良いやり方が見えてくるのではと思う。

ノートを取るにしても、手書きと、携帯にメモする、あるいは写真や動画に収めるなどそれぞれでその効果は全然違うし、そもそも「ノートを取った」という記憶の大きさにも違いが生じるはず。



「急がば回れ」という言葉があるけど、効率の良いものが必ずしも最大の効果を生むとは限らないということ。

敢えて効率の悪い選択をする、それは「努力」という言葉に変換できるものなのかもしれない。

そうやって自分に相応しいやり方を見出し、学ぶことの効率を上げていけば、成長は速度を上げていけるものだと思う。

そうやって上手くなっていく。



まとめると、まず学びの意識を持ち自らを磨く。その為の効率の良い具体的な手段を自己分析し見出し実行する。トライ&エラーの繰り返しでも構わない、自分で考えトライすることに意義がある。そして上手く指導を受けて磨いていき、磨いてもらった結果上手くなっていき、さらにそこから自分自身でも磨き続けていって強くなっていくというのが現時点での自身の結論。



ようやくここにたどり着いた(笑)

このゴール、見方を変えれば、正しくはそこへ「導く」のが「コーチング」。

でも人間対人間の付き合いになるから相性が深く関係。

プレースタイル云々だけでなく、その何倍も大きく双方のパーソナリティが絡んでくるから、選手側のニーズ、コーチ側のスキル、そこにギャップが生じて然り。

クライアントになる選手だって、後ろから押してもらう方が良い、前から引っ張ってもらう方が良い、遠くから見守ってもらうくらいが良いなど様々だろうし、同じ選手でもその時々のタイミングで変化もするものだと思う。

良いコーチは選手のそうしたニーズを敏感に察し、それに合わせ答える能力のある人だと思う。

そんなコーチはきっと・・・高額になる(笑)

でも、ビジネスの現場で上に立つ人、指導する立場にある人というのはそういうスキルが非常に高いレベルにあると実感するし、僕はそういう人に憧れる。



最後に余談をもう一つ。

じゃぁもし現時点で僕が技術的指導を求められた場合、お金を取るのか?いくらぐらいになるのか?

はい、お金を取るつもりは全くございません(笑)

だって僕は指導をするような資格はおろか肩書も、そして実力ももっていないし、さらに僕は尊敬すべき華々しい経歴を持つコーチや指導者をたくさん知っていて、そういう方々と同じ土俵に上がるなんていうのは全くもって恐れ多く申し訳ない気持ちのさらに二乗くらいに申し訳ないから。

それに僕よりも優れた指導者は数えきれないくらいいる。

もちろん聞かれれば知りうる範囲で答えることは出来るし、求められれば可能な範囲でそれに応じることはする。

でもそれは僕の言葉ではないことが大半。

その時は「〇〇選手がこう言っていた」「〇〇(本)にこう書いてあった」といった引用元を名言するようにしているし、それを失念している場合でも「何かで読んだ(見た)」と自分の言葉ではない旨を伝えるようにしている(その方が説得力があるw)。

じゃなきゃそれって人の褌で相撲を取るってやつで、それを僕はしたくない。

自分の言葉で技術を語れないのに、それでお金を取るつもりはない。

少なくとも、現時点でそれはしたくない。

だから、誰かにアドバイスをすることには積極的ではないし、するとしてもその時の練習相手くらい。

それもよほどの思いが無ければ自分からすることはない。

そんな僕が技術的な指導を求められた時?その時はもちろんボランティアです(笑)



とまぁ、今回は些細なきっかけから持論をまとめてみたけどものすごく長いものになった(笑)

正直、まとめるのにも苦労した(笑)

最後までお読みいただいたあなた、よく頑張りました(笑)

まさに素晴らしい努力です(笑)

こうして思考を整理することで、結局のところは自分で考えるっていうのがベースかなと振り返ることが出来ました。

与えてもらう、してもらうのではなく、自分なりだとしても自分で考えて行動すること自体に価値があるのではないかと。

それが技術の向上だけでなく人生そのものをより豊かにしていく一つの要素になるのでは?と思います。

だからこれからも、自分で考え懸命に取り組み己を磨いていきたいと思います。

まずは暑さに負けず活動を続けていけるコンディショニングを。

「強さ」と「上手さ」

2025年05月23日 22時07分37秒 | 日記
先日、練習場で時々お会いする方のプレーを見ていて、「そのやり方は変えた方が良いんじゃないかな」と気になって、でもだからといって自論を押し付けるのは失礼な話だし、だけど自分の練習中も目に入るたびにそのことが気になって、言うべきか言わざるべきか、to Say or not to Say の葛藤に苛まれた(笑)

もしその方がどなたかに教わっていてその打ち方をしているのであれば、それを僕が否定するのはそのどなたかに対しても角が立つし(一蹴されるということも当然あるw)、万が一聞き入れてもらえた場合、お二人の信頼関係をも損ねることになりかねないので無下に言うことは失礼にあたると思うし、それこそマナーに反する行為になりかねないとも考える。

そこで、その方のバックグラウンドを確認した上で判断しようと思い、隙間の時間に「普段どなたからか技術的な指導は受けてるんですか?」と尋ねてみた。

すると答えは「No」だった。

であればと僕の気になった点を「こうした方が良いと思いますよ」とお伝えした。

より明確に詳細を伝えたいという思いから長話になってしまうのだけれど(笑)

すると「やっぱり強くなるためにはコーチに教えてもらうのがいいんですかね」と言われる。

そこにまた自論を展開させさらに話を長くする(笑)



まず前提として、その方の言う「コーチ」と僕のそれとはニュアンスが異なっているから。

そもそも、「コーチ」という認識は日本では正しく理解されていないと度々耳にする。

グローバルな解釈と日本のそれとではギャップがあるというのだ。

一般的にスポーツにおいては「コーチ=技術を教えてくれる人」という認識だけど、ワールドワイドに見るとそうではないらしい(教える=ティーチング(Teaching))。

僕が指導してもらっている方々も現場で「それは単なるティーチングじゃん」というシーンを目の当たりにするらしい。

今のスポーツ界において「コーチ」というのはそういう認識となっており、そういう水準でスキルが求められるようだ。

最近の卓球専門誌のコラムでもその点に触れられていた。

僕自身その点については「日本的解釈」のど真ん中をいっていたのだけれど、数年前にそのことを知り、逆にそれを知りたい、理解したいという思いが芽生え、そのことについて少し前から学んでいる。



「やっぱり強くなるためにはコーチに教えてもらうのがいいんですかね?」の問いに対し僕は、

いや、それは「上手くなる為」と考えた方が良いですよ、「強くなる」とはまた別だと思います、と答えた。



全く、的を得ない難しい回答をするものだと我ながら思う(笑)



いくら技術が身についても必ず勝てる、強くなるというものではないのがゲームスポーツ。

記録を競う、採点を競うという競技ではないので、そこが卓球(ゲームスポーツ)の難しいところ。

テニスやバドミントンもそうだし、サッカーや野球、バスケといったチーム競技であればその難しさは更に異なると思う。



その内容がどうあれ技術を教えてくれる人はたくさんいるし、そういう方と出会うのはそう難しいことではない。

だから、技術を教わっていくということに関してハードルは決して高くはないと僕は思う。

けれど、技術を身につけるのはあくまでも強くなるための一部分にすぎない。

もちろんすごく重要なポイントではあるのだけれど、それだけでもダメなのがリアル。

腕のいい料理人の店が必ずしも繁盛するとは限らないのと同じ。

その為には皿の上の料理だけでなく様々なものが必要不可欠な要素として求められる。

それと同じなのだ。

突き詰めれば、技術を身につけるのだって教わったからすぐできるってものでもないし、そこにはフィジカルの必要性もあれば、身長体重筋肉量に関節の可動範囲を含む身体能力の個人差もあれば、更にパラの場合は障害による個人差もあるので、一概なことは決して言えない。

だから、技術を教えることだってその人の物理的なパーソナリティを考慮した伝え方が求められるし、そこに教えてもらう側の人間性というパーソナリティも加わるから、ただ「技術を教える」ということだけでもいろいろ考えて行わなければ伝わり様がない。



そこまでのレベルをボランティアで教えてくれる方に求める?

それは都合がよすぎる(笑)

じゃぁお金を払ってお願いする?

どれくらいの金額が相応しい?

逆にどれくらいだったら支払える?

これも難しくデリケートなポイントで、ある意味個人差もすごく大きい。

「パーソナル(個人)」と名がつくものは高額になるのが常だし、効率の良さは分かるけどそこには手を出さないという人も少なくないと思う。



であれば、指導・アドバイスを受けるのは自分に合ったものではなく、金銭的負担の無い、あるいは少ないアドバイス(敢えて指導とは言わない)をたくさん受けてその中から自分に合ったものを取捨選択すれば良い。

動画を見るとか本を読むのもその一つ。

でもその為には取捨選択するだけのスキルがまた必要になる。

だからこそ、その為にまずは自分で学ばなければならない。

「自分で学ぶ」ことをおざなりにする人ほど、逆に人から教わるとそれを情報として客観的に捉えることをせず、絶対的なものとして信者的に妄信する傾向が強いのではないかと思ってしまう。

「分からない」を理由に人に任せっきりとか人の判断に頼ると概ね良い結果を生まないことは人類の歴史から学ぶことが出来る(そこに付け入るズルいやつがいることも分かるはずw)。

それってネットとオールドメディアの情報云々だったり、投資とか選挙、経済や政治にも同じことが言えるのかも(笑)

「あの人が言ってたからこうした」「あの人に言われたからこうした」といってもそれを選択し実行したのは自分であり、もしそれが上手くいかなかったとしてもまさに後悔先に立たずで、それを言った人との信頼関係にもダメージとなり得る。



結論として、「コーチ」に限らず誰からか「技術」を教わるというのは方法論として間違いではないしむしろ近道だと思う。

何のための近道?

それは「上手くなる為」と「強くなる為」。

技術レベルを上げることが出来るから。

でも、それが上がったからと言って必ずしも「強くなる」とは限らないのは先述した通り。

逆に技術力はそう高くなくても強い選手も少なからずいるものだから。



そして、教えてもらう場合、よくありがちなのが「言ってることが人それぞれ違う」ということ。

確かに人によって違うことはよくある(笑)

同じ人なのに言うことが「前と違ってるじゃん」ということだってある(それが何故なのかを考えるのは違う意味で楽しいw)

でも「違う」と思う前に一度考える時間も必要だと思う。

それは本当に違うのか?

ただ伝えるために使用する「言葉(単語)」が違っている(表現が違っている)だけでは?

言葉が違うだけで伝えたい意味は同じっていうこともあると思う。

感覚を言語化するからこそ、その表現方法には個人差があっても不思議はない。

「持つ」「掴む」「くっつける」「グッと」「ギュゥっと」「グイっと」などなど。

特に日本語は擬音が多いから尚の事だ。

その表現方法を統一するなんてのは世界の言語を統一しなさいっていうのと同じようなこと(笑)

ではなく、聞き手が相手の真意を理解すること、読み取ること、いわば「国語力」を駆使する、磨いていく必要もあると思う。

といっても専門的レベルでってことではなくて、中学校の国語の授業で先生が言っていたことを今一度思い出すくらいで十分。

でも、それもまた「強くなる為」と言えるのではなかろうか。



なんて偉そうに(笑)

でも、会話をしていて「この人は頭が良いな」と思う人がいるけど、僕は頭の良さは何となく「理系」と「文系」に二分できるように思う。

あぁこの人の思考は理系なんだなとか考えるけど、それはかつての飲食時代に人事採用を担っていた際に磨かれたものだと思う。

今回の場合は文系ど真ん中の話。

ちなみに僕は数学はおろか算数から大嫌いだったから文系に進んだ(笑)

あるユーチューバー曰く、「理系は勉強すれば成績を伸ばせるけど、現代文とか国語力は勉強しても成績が伸びない教科」だという。

じゃぁその違いが先天的なものなのか、それとも幼少期の経験によるものなのかは分からない。

でも意識次第で磨いていけるものだと僕は思っている。

恐らく、そういう人は恋愛も強い(笑)



なんて余談はともかく、「強くなる」為には上手くなるだけでなくそれ以外のことも学び積み重ねる必要があり、またその為のスキルも磨いていく必要があると自分を戒める(笑)

今回このことを言語化し頭の中を整理しようとしたら文章がこの2倍くらいになった(笑)

で、なかなかまとまらずにとりあえず2分割することにし、今回ようやくその半分をまとめることが出来たのだ。

なので、今回は前編とし、後編はまた後日アップするつもり。

思考の整理は大切。

僕自身、強くなるためにどうするか、どうあるべきかを考え、学んでいく。

学んでいくということはその先に道が伸びているということでもあり、それは人生というスパンで見ると楽しみなものでもある。

ということで、備忘録前編はこの辺で(笑)

久々の海外遠征、からの合宿

2025年04月23日 21時23分57秒 | 日記
久しぶりとなる国際大会、フィンランド・オープンに出場してきました。

結果はシングルス予選敗退、男子ダブルスMD8クラス3位でした。

シングルスの予選敗退はすごく悔しいし、大会期間中もその悔しさをずっと引きずっていました。

去年の全日本で代表選考基準をクリアしてからずっとイメージし、今年の国際大会の予定が発表されてからもそれを維持して取り組んでいたことなのに、いざその時を迎えるとめちゃくちゃに硬くなってる自分がいて、身体だけでなく思考も固まった状態、そんな自分を客観的に「中学生の頃みたい」と分析できている冷静さはあったのだけれど(この部分は成長を実感w)、それでも現地だからこそ生じるストレスなどもあり、「いつもどおり」とはいかなかった、出来なかったのがまず一番の深い反省点。

でもだからこそ、より多く得られた課題もあり、この大会に出場できたことで自分自身今までにない学び、手ごたえを得られた喜びもあります。

プレー中は「全然ダメダメ」と自責の念に支配されるような心境だったけれど、自分のプレーを見直すとポジティブに評価できる点もあり、自己評価がいかに主観のみで客観視出来ていなかったのかということから、そもそもそうした思考が自身のパフォーマンスにリミッターをかけていたとも解釈出来、そうありがちなのが僕の個性、性格なのだから、そんな自分と向き合って上手く付き合っていくことがまず重要になるなとあらためて反省。

「全然ダメダメ」と思っても「いや、その中に拾えるものもあったのでは?」というのはトレーナーのアドバイス。

でも今回はそう言われたから気づくのではなく(今まではそうだった)、まず自分でそう気づけた、思えたことに一番の手ごたえを実感出来たのは良かった点。

結果だけにフォーカスすると「全然ダメダメ」、でもそれを細分化し評価することで思う以上の収穫も得られる。


そういうのが成長のガイドビーコンになると思えたのもまた収穫。



そしてダブルスはフランス人選手と初めてのペアで。

大会エントリー直後にフランスチームからのオファーがあり即決。

僕は初見の選手だったけど、なんと17歳の高校生だった!

開場で挨拶をし、試合当日に少し練習。

でもこの時の練習が最も心地よくボールを打てた時間だった。

それまで自分の中にあったモヤモヤが消え去っていくような感覚というか、不思議と「いつもどおり」の感覚を思い出させてくれるような時間になった。それに救われた。

だからシングルスの時とは身体の動きが違う印象を覚えた。

あくまでも自分の感覚的にだけど。

その違いがなぜ生じるのか?

それも今後の大きな課題。

そして彼とのペアを組むことで、フランスチームに加わっての練習が出来たことが凄くプラスになった。

今までにない練習パターンだったり、複数のコーチの仕事ぶりに直接触れることでプロの「コーチング」を目の当たりに出来たのもすごく嬉しかったし有難かった。



フィンランド大会は2回目だったけど、予想通り寒かった。

でも建物の中はすごく快適で常にストレスを感じないレベル。

そして僕は食事が気に入っている。

日本人の僕からすれば、ナチュラルな印象でどれも馴染みやすく、素材そのものを味わうような分かりやすい料理が並ぶ。

だから美味しいし肩肘張らずに食べられる。

長時間のフライトも問題なく過ごせたので良かった。

海外遠征、実はこれが一番の不安だったりもする。



そして帰国した3日後からは合宿だった。

コンディションを含め問題なく参加出来たので良かったし、「いつもどおり」に動くことが出来た。

ただ、合宿前にフィジカル・トレーナーにチェックしてもらうと「いつもに比べるとかなり動いていない」ということだった。

自覚はなかったけど、言われてみると確かに。

これは遠征疲れ(特に長時間のフライトの影響)だと思われるとのこと。

それで修正してもらい、4日間の合宿を満喫し、帰宅すると疲労感が一気に湧いてきた(笑)

ここまでの疲労感は久々と思えるレベル。

でもそれだけ身体を動かせていたということ。

どの個所にそれを感じるかでどこを「動かせた」「使えた」となるので、それも評価できるし場合によってはケガを未然に防ぐことにも繋がる。



ちょっとハードなスケジュールだったけど、無事に終えることが出来て良かった。

試合の結果は良くない。

けれど様々な点で学ぶことが出来たし、今後のステップアップに向けたヒントも今まで以上に得られたので、ターニングポイントとなる大会だったと思える。

具体的な練習メニューやトレーニングといったものではなく、考え方とか自分自身の内面における大義とか哲学のレベルで大きな収穫を得たこのスケジュールだった。

それは突然現れたものではなく、これまで自分の中に潜在的にあったもの。

それを肯定できたこのタイミングは良かったと思う。

今年はすでにハードなスケジュールが予定されている。

まずは体調管理、コンディションの維持に徹底し成長していきたい。

血が騒ぐ(笑)

2025年03月04日 21時38分24秒 | 日記
トレーニングの一環から農業を営む方のお話を伺う機会を得た。

これはあくまでも自身のスポーツ活動として設けた時間の中で、トレーナーがその方の農業とスポーツ活動(主に指導者の立場)には共通するもの、学べるものがあると判断した結果から僕もその恩恵を得られたという機会だった。

その方はある意味農家としての「日本代表」レベルで活動されている方で、お話を伺っていてその「意識の高さ」に感銘を受けた。

農家としてどこを見ているのか?が明確であり、でもその見据える先は明確ではない世界でもあり、決して楽ではないその方向へ歩みを進めていこうという「大義」を持って農業という活動をされている「熱い」方。

まさにアスリート・マインドだと思ったけれど、そうした「熱い人」に接するとその熱は人に伝導するから僕も興奮を覚えるし、だからこうしてブログを綴るわけなのだ。



すごく良い時間だったし良い学びを得た。

農業とスポーツ。

一見すると全くの畑違いに思われるだろうし、そこに共通項を見出すというのは注意深く探らないと見つけられないかもしれないし、実際参加者からもそのような声は上がっていた。

でも実はそうじゃない。

何事も高い意識をもって取り組んでいれば、共通するものって意外と何にでもあると思う。

思考とか意識レベルをより高くすればそれだけ他から学べる事が多くなると思うし、そもそも「人は何からでも学ぶことが出来る」と僕は学生の頃に学んだ。



農業の「どこを見ているのか?」と先述したけれど、ずっと先の方を見据えずにただ目先の農作物だけにフォーカスして作業をしていると、翌年や5年後10年後にその種が、あるいは木が、あるいは畑が、環境がどうなっているかをマネージメント出来ないと思うし、何かしらのアクシデントや想定外の状況が生じた場合に対応出来なかったり、辿り着いた先で「こんなつもりじゃなかったのに・・・」となりかねない。



「自分は農家でありその作物を作るのが仕事、だからそのことにだけ集中する」

というスタンスで農作業に取り組む、それはある意味ストイックで職人気質と評価されるものに思える。

でも、僕が知る優れた生産者はそこに留まらない。

もっとマクロな視点で捉えていて、もっと先まで見据えている。

ビジネス(損得勘定)だけに捉われず、時間という縦軸を持つと同時に、横軸という人間社会における繋がり、それこそ「文化」のレベルでも範疇に捉えていて、結果的にそれらを立体的に捉えているのだと思う。

それは農業だけでなく料理人にせよソムリエにせよ、飲食だけでなく様々なジャンルのプロフェッショナルは皆そうじゃないかと僕は考える。

だからそれはスポーツ界にも共通するものであり、恐らくその意識で取り組んでいる人たちは自分の活動がどう利益を生むのかではなく、縦軸と横軸に対しどう広がっていくのか、どう影響を与えるのかを考えることが出来、それを主軸として活動していけるのだと思う。

それが名誉欲など自分の為であれば評価は全然変わってくるけど、人の為、社会の為という意識であれば、それは「歴史に名を遺す」ということに繋がるのではないだろうか?

なんて偉そうに(笑)



でも今回お話を聞かせていただいたその方はまさにそう思える方だったし、そもそもだけど、それだけマクロに多角的に捉えることが出来る「頭脳」を持っている方だった。

頭脳明晰、まさにそれ。

「すごいなぁ!」と思う方はまずそう思える方だし、情報量も情報処理能力もすごく高い。

そこに物事を主観だけでなく客観とそして俯瞰を含めより多角的に捉えるからこそ理系的思考だけでなく文系的思考も兼ね備え、論理的なだけでなく感情的な理解力もより高いレベルで合わせ持てるのだと思う。

だから効率的要素だけでなく感情的部分も理解した上での判断決断が出来るのだろうし、そういう人だからこそ集団を導いていけるのだと思えば、「リーダーだから人がついてくる」のではなく「人がついてくるからリーダー」なのだというリーダーシップの根幹が見て取れるというか、そんな感覚を思い知らされた。



ではその時間で僕は何を学んだ?

本来は自身のスポーツ活動の糧とする為の時間だったのに、僕の気持ちは完全に農業にフォーカスしてしまっていた(笑)

美味しい作物を作るためにどう取り組んでいるのか?

だからどういう作物が育つのか?

純粋にそこに意識がいってしまい、スポーツのことを忘れていた(笑)

そして、後日親しいパティシエとその話に触れ、イチゴ農家の話から野菜や果物の生産者の話に花が咲き1時間近く農業談義をしてしまうほどだった(笑)

でも、それくらいに刺激を受ける方だったし、ものすごく勉強になる話だった。



あくまでも僕個人の印象だけど、スポーツ活動と農業に関しては「身体づくり」と「ドーピング」が直感的に重なると思えた。

視点を変えると環境づくりやチームマネージメントとしても直接的な参考を学べるとも思えたけれど、僕の既存の知識と重ね合わせると先の方が印象深い。

すると、逆に自分がこれまで意識してきたことは農業的視点からすると正解だったなと思えたのはプラスになったし、これからもそれを頑張っていこうと胸を張れる思いだった。

ローマは一日にして成らず。

農業も、身体づくりも、スポーツ活動も、一日にして成らず。

「時間をかけずに美味しいものを作ろうとしても、時間がそれを許さない」

のと同じで、何事もパッと直ぐに出来るものではない。

僕らの身体づくりもそう。

野菜も育つのに時間がかかれば、鳥や動物、魚だって育つのに時間はかかる。

自然の流れでは直ぐにどうこう出来るものではない。

それをどうにかしようっていうのは自然の摂理に反する行為なのでは?

それは不可能?

いや、可能だとすればそれは「ドーピング」に類するものなのかもしれない。

農薬?

添加物?

それはドーピングと同じことだと思えた。

いや、それを全否定するつもりはない。

人類の今日の発展はまず食糧安定による結果だと思うから。

(逆に狩猟採集から農耕に移転し食物の安定化が進んだことで人間同士の争いが生じたという人類史の見方もあるのだけれど)

自然の流れに逆らった動きをすれば、どこかにひずみが生じるのもまた自然なこと。

強い木に育つためにはどうすればいい?

その為に何をすればいい?

強い木に育って何をする?

なぜ強い木に育ちたい?

ホント、いろいろ学ばせてもらった。

血が騒いだ(笑)

Why を考え、How も考え、しっかり行動していく。

根をしっかりはって、ブルゴーニュの水はけの良い南東向きの斜面に深く根を張るピノ・ノワールのように、静かに落ち着いた佇まいで、でも力強く腰を据えて深く構え、それこそ雨にも負けず風にも負けず、凛とし威風堂々とした姿でありたい。



ちなみに、僕はブルゴーニュのピノ・ノワールがワインの王様だと思っています(笑)

牛肉に合わせるならカベルネ・ソーヴィニョンではなく断然ピノ・ノワールです。

白はブルゴーニュのシャルドネですね。

ムルソーよりもピュリニーです(笑)