Kyoko AIHARA's Diary (Writer&Photographer) 相原恭子(作家&写真家)のブログ 

ヨーロッパ紀行、京都花街と着物、ビールとグルメなどをテーマに執筆、撮影、国内・海外での写真展や講演等。今日も良い日!

2011年1月31日(月) 国境を東へ ワクワクしたトルコ 

2011-01-31 | ギリシャ・トルコ
写真整理から、忘れていた写真発見が続く。どれも、旅心を(自分が!)そそられる。

ドイツからトルコへ何度も、チャーター便で旅した。
ドイツからのチャーター便の話は12月19日に書いたように、手軽にヨーロッパ各地を旅できる。
エーゲ海に沿ってマルマリスやクサダシからパムッカレあたりをバスでふらりと旅したり、イスタンブールだけに一週間とか、その他何度かトルコへも飛んで行った。
この写真は、トルコ大使館広報参事官室に当時勤務していた菅より子さんと牧野悦子さん、ご尽力くださって、日本からイスタンブールへトルコ航空で飛び、東方トルコの取材をした時のものだ。


午前1時にホテルを出て、強風、極寒の中、ネムルート山に登り、日の出を眺め、白々と夜が明けた後だ。寒かった。(今、ここはもっと整備されているらしい)

下山して、バスで戻る途中、コンゲマネ王国があった地域を通った。
(あいにく、この写真、今出てこない)

この王国を支配したのは、かのアレキサンダー大王の係累という。
民家や人の気配が全く無い荒涼とした大地をバスは走るので、川や山の大きさがどのくらいなのか想像が付かない。
河原の幅が何キロもあるような物凄い大河の跡や、月面のような岩山。
ダイナミックな大地である。

夜の峠を越えて、世界史の教科書に出てきたアンティオキア到着。そこから、シリアとの国境を車で東へ突き進む風景は、この写真どころではない。
ああ、思い出すだけで何だか興奮し、気分がハイになる。


2011年1月30日(日) 世界遺産のホロケーとタイの奥地の鶏料理

2011-01-30 | オーストリア・ハンガリーと中欧
1月25日のブログにハンガリーの旅を書いた。
すると、今、京都の写真の整理をしているのだが、なぜかこのハンガリーの写真が出てきた。

2003年の旅で立ち寄った小さな村 ホロケー だ。
人里はなれ、林が続く丘陵地帯をかなり走った。
行き止まりではないか・・・と思った頃、この村に到着したのだ。


初めて見た村の家々なのに、なぜか郷愁を感じた。

マジャル民族に属するパローツ人が独自の文化を守りながら暮らす。
百数十軒の家々が続き、その一軒(レストラン)で昼食。

石窯で焼いた鶏肉とスープは、ひどく素朴な食器で出てきたのだが、何と味わいは抜群。
素材を盛り立てる塩・胡椒のオーソドックスでシンプルな味付け。美味しくて忘れがたい。パーリンカも味わいを引き立てた。
それまでに食した鶏料理で一・二を争った。

→(一・二を争うというは、タイでバンコクからゴールデントライアングルに向う途中、20年ちょっと前のこと、バスを下車し、名前も知らない河の河原を歩いていると、破れたようなテントを張った食べ物屋?が在った。その辺に落ちている薪で大きな鍋を炊いている。その若い夫婦の幸せそうな明るい笑顔に魅かれて、スープでも飲もうと思ったのだ。良い人が作るものは美味しい場合が多い。(普通、引いてしまうか。というのは、一緒だった友達はもちろん食さず、あきれて私を見た)ところがそれが、頭にガーンと響くほど超美味。まさに天然の地鶏のダシ。日本の美しい店で薀蓄つきで出てくる地鶏料理とは比較にならない。筋金入りのホンモノだ。グルメブームだが、味わいのみを追求し、鋭く評価したら、食材に行き着くか・・・。そうそう、ドイツの知人で20年近くも星付きを維持していたレストランのオーナーが、昨年、店を人に渡して食材研究とスローフードにのめりこんだ。===ところで、タイの鶏、鶏でなくて、まさか鳳凰だったなんて・・・ね!)

美しい風景とホンマに美味しい食べ物、まさに私の望むモノ。

2011年1月27日(木) ルーマニアの幸せな人々

2011-01-27 | オーストリア・ハンガリーと中欧
ミレーの「晩鐘」、「落穂ひろい」は、真摯な農作業と日常に感謝する祈りの美しさが描かれていて、ふと思い出す懐かしい絵だ。
これは、人が生きてゆくことの根源的風景ではないだろうか。

そんな風景に、ルーマニアのマラムレシュとブコヴィナで出会った。



夕陽に照らされて、小さな子供とおじいさん、若夫婦が馬車に乗り、畑から家路を急ぐ姿。鍬を背負って昼食に家へ帰る夫婦。
みなの顔に、労働の後の喜びが輝く。
(この国、なぜか美人が多い。心の在り様によるのだろうか)



豪華なアクセサリーも、星付きレストランも、ブランド物もなくても、
心が満たされ、衣食住が間に合い、美しい自然の中で生きてゆける…。
『生きるとは、どういうことか』、時々、根源に戻って考えてみたいなと思う。





***都合上、画像解析度を落としたら、落とし過ぎになり荒れてしまいました。再度調整する時間がなく、このママ、イキ。ごめんなさい。(*^_^*)


2011年1月26日(水) 職業インタビュー 

2011-01-26 | ich 私
先日、ご近所の奥さんが訪ねていらした。
中学一年生のお嬢さんが学校のレポートで、職業についてインタビューをしたいという。

海外に興味があるそうで、「作家の仕事」、ということで私に聞いてみよう、となったらしい。

中学生は、子供と言えば子供だが、全くの子供でもない。

かの光源氏は、十二歳で美豆良(みずら)の結い髪から、髪を髷に結い、冠を被り、元服の儀式に臨み、その晩に左大臣の姫君で十六歳の葵上と結婚するのである。(次の本で、芸舞妓の髪型について執筆中。光源氏の例を取り上げた)
男女とも、80代、90代まで元気な現代、そんなに若い頃から事がすすんだのでは、孫、ひ孫、玄孫どころか、どこまで続くのか・・・。

とはいえ、13~14歳ともなれば、いわば、若い人だ。

その頃、私もある大人から、たてまえではなく、感じたこと、思うことについて、率直な人生観をたまたま聞く機会があった。
それは、非常に鮮烈な印象となり、その後の自分に影響があったことは確かだった。


ノルウェーのフィヨルドにて。透明な空気の中、大空を舞う。

若い人に、夢や希望(この歳になっても! 夢にまみれ、希望に突き動かされ?)、日頃思うことを語るのも、もしかして意味があるかもしれないし、若い人が何を考え、何を思うのか知ることは、私も勉強になると思う。

5~6年ほど前にも、親しい友人のお嬢さんが同じ宿題を抱え、やはり、私に話を聞きたいと訪れた。
確か私は、絵画やドイツ語に興味を持ったことや、異文化の中で生活したことや、20代前半の頃一人でふらりとヨーロッパ各国を40日以上も、気の赴くままに、写真を撮りメモをしながら旅した(奇しくも、それは今の仕事だ)ことなどを話したと思う。本人はどう受け取ったかわからないが、その後、海外や英語に興味を持ち、某有名大学に合格し、今年秋から米国へ一年留学して、経営学を学ぶという。意欲と展望を連絡してくれた。
素晴らしいの一言!

若い人が、やりがいをもって、活き活きと将来を語ってくれるのは、本当に嬉しいものだ。こちらも、一緒になって気分が高揚してしまう。

今や入試の真っ只中。その重圧にめげず、
思いのままに、好きなことに没頭し、興味のある勉強をして、楽しく、大きく羽ばたいてね!




2011年1月25日(火) 美しい国 ハンガリーと心の交流

2011-01-25 | オーストリア・ハンガリーと中欧
ハンガリーは、ワインは美味、料理も美味、ブダペストの重厚な町並みは古典的なヨーロッパの美しさを感じさせる。プスタなどの大陸を思わせる大自然も本当に素晴らしい。

「美味しいものと、美しいものが好き」な私には、魅力の国だ。

もう13年も前になるかしら。
当時のハンガリー大使夫人シュディ・エリカさんと、当時のベルギー大使ノートン男爵(「ベルギー美味しい旅」(小学館)に、縁の古城を案内していただき、ご登場いただいている)のフェアウエルパーティーで知り合った。

エリカさんは、「ぜひハンガリーへ!」とご尽力くださり、
2000年にハンガリー各地の取材をアレンジしてくださった。ブダペスト、ヴィラニー、バラトン湖、ショプロン、プスタ・・・とても書ききれないほどの村や町を巡った。

その模様は、共同通信から各地方新聞、産経新聞、その他の日刊紙、お酒の雑誌「醸界春秋」、サベナベルギー航空の機内誌「カリヨン」(6~7年続けて、ヨーロッパ各地について文と写真で連載していた)などに記事を書き、その一部は、「ヨーロッパお菓子紀行」(NHK出版)となった。

今日、エリカさんからメールがきて、エストニアで写真展・講演会の後、ハンガリーでも同様の催ししてはとご連絡くださった。

不思議なことに、私はハンガリーとも縁が深く、気が付けば、英語の本「Geisha」は、ハンガリー語版も出ており、2003年にハンガリーのTV(チャンネル2)のブダペストのスタジオで、生番組に出演した。(朝5時前にスタジオ入り。日頃朝寝坊の私はただ眠くて、頭痛がして、大変だった。)
番組は「日本特集」で、ハンガリーの若い人たちも多数出演した。
日本語と漢字の研究者や、太鼓の演奏団体など、日本に熱心な方々が多く出演なさり、びっくりした。

このハンガリーへの旅は、エリカさんと私で、高知県の「いの混声合唱団」とエリカさんの故郷ミスコルツの「ミシュコルツ・バルトーク合唱団」との親善コンサートを企画遂行し、私がブダペストに戻った日に、出版社の社長たちがホテルに現われ、TVとラジオ(ラジオカフェなど、5局に出演した)で日本と著書について語ってほしいという出演依頼があったのだ。

さて、今年のブダペストの写真展と講演会は、スポンサーでも付かないと無理だが、実現したら、日本ファンのハンガリーの方々や、「Geisha」の読者にも会えるだろうし、素敵だなと思う。

エリカさんも私も、仕事ではなく、日本とハンガリーの交流をしたいという心からの計画だ。自分自身、得るものは多いと想うし、商業ベースに乗らない人と人との出会いは、貴重なものだ。微力でも、ハンガリーの熱心な方々に直接日本を知らせることができたら嬉しいなと思う。


2011年1月24日(月) ここにも小さな誕生の跡が

2011-01-24 | 隠れ家・庭仕事


お掃除をしていると、あれっ、変な格好の枯れ葉、と思ってよく見ると、蛹だった。
(玄関常備の簡単カメラを取って来て、はい、パチリ。)

生ま出でて、どんな姿になったのかしら。
枯れ葉の吹き寄せの中に、まぎれていた抜けがらさん。

我々はこうして生きて、今日も満員電車に乗ったり、PCの前で頭を悩ませたり、
議員の皆さんは政権争いに日夜お取り込み(政策よりも人間関係が大切なのか?この不思議!)、それぞれの日々。

「虫には虫の世界」がある。
人間世界以外に、鳥さんの世界、植物の世界、魚の世界・・・様々な世界があって、
皆がそれなりに生きているのね。

焦茶色い抜け殻、生命誕生のシュプール。
自然に任せて、風化し、土に帰ってゆく。
有機的な、あまりに有機的な。

2011年1月23日(日) 星の夜 多良間島の夢幻の星空を想う

2011-01-23 | 日本の旅
昨夜、戸を閉めようとしたら星空。

チカチカと光る星に、
沖縄の多良間島で見た、漆黒の夜空を、
モザイクのように尽くす程の
物凄い星空を思い出した


芭蕉布のおばさん、Hさんの家の一室に泊まっていた「八月踊り」の夏の夜だった。

突然目が醒め、目の前の窓を見ると、一幅の絵の様に、
漆黒をバックに、物凄い光が所狭しと無数にまたたいている。
一体、これは何? 


それは星空だった。
星って、一体、こんなにたくさんあるものなのか?

おばさんのサンダルをつっかけて、無意識に外へ出た。

どこを歩いたか覚えていない。

サトウキビ畑が星明りに照らされて、茶色がかって不思議な色に見えた。
私が畑の間を散歩したのは、一分だったのか、一時間だったのか、
思い出せない。


<注意>→これは私が夢遊病なのではない。
翌朝、近所の人たちが、五十年来、いや、八十年来の物凄い星空だと言った。
つまり、50歳の人も80歳の人も、その時までに見た中で、もっとも豪華な星空と思ったのだ。




2011年1月22日(土) 十日町と雪祭り

2011-01-22 | 着物
着物、きもの、キモノが着たい!と思っていた2002年~2003年にかけての冬、
奇しくも、十日町の着物関係の人と知り合った。

お友達のお友達なので、二人で訪ねて行った。
お茶屋さんで一度教えてもらって、付け帯で着物は着られたが、
袋帯など、自分でまだ結べなかった。

何としても早急に結べるようになりたいと、その方に特訓してもらって、一晩熱心に練習をした。
すると、一気に、袋帯も名古屋帯も、締められるようになった。
まさに一夜漬けであった。
教えてくださった、Tさんのおかげだ。「嬉しい!」

物凄く集中すると、理屈を超えて、覚えられるような気がする。
ありがたい出会いであった。

「十日町雪祭り」のパンフレットをTさんが送ってくださった。
訪ねて行きたいな。
銀世界を想像して、私の気分はつかの間、雪の様に舞う。

こういう風に、嬉しいことも数え切れないほどあるけれど、
辛いことや悲しいことが、さらにたくさんあるのが、
生きてるってことかも・・・。

2011年1月21日(金) お茶室の小宇宙

2011-01-21 | 静寂
静まり返った世界が好きだ
夜のしじまの中、月を眺め、星を眺めると、生きている事の喜びを感じるのだ。

静かで、造形的な空間の美しさにも魅かれる。
その際たるものが茶室だと思う。

三年ほど前、急に茶室が見たくなった。
そして、京都で、無我夢中であちこちの茶室を巡った。

建仁寺の塔中にある再現された「如庵」(現在、オリジナルは犬山市にある)、「待庵」、「密庵」も拝見した。
大徳寺でも、あちこちの茶室を見せていただき、何人かのご住職さんとお話することができた。掛軸にも、墨跡にも、魅了された。
その気になると、たくさんのチャンスが訪れ、数々の茶室を見学することができた。

・・・路地は、次元を異にする空間への入口のような気がした。
茶室に座っていると、一瞬が永遠にも感じられた。
時の流れが止まるのか、それとも、物凄い速さで流れ去るのか、わからなくなるような空間のように思えた。

狭い広いという物理的な尺度は消えてなくなり、時空を超えた所に私の存在さえも漂い出るかのようだった。

その一瞬が、忘れがたい。

2011年1月20日(木) ドイツへ ご冥福 シチリア島の思い出

2011-01-20 | ドイツ・ベルギー
今朝、郵便ポストを開けると、黒枠の封筒を発見。

ドイツのケルンでボールペン会社を経営する
Meutgens(モイトゲンス)夫人の訃報だった。86歳とある。
現地時間、20日(木)正午12:00から告別式という連絡だ。
驚き、哀しい。
「心より ご冥福をお祈りします。そして、日本であなたの事を思い出しています。」

彼女とは、シチリア島で知り合った。
私が30歳になったばかりの時に、シチリア島のタオルミーナの丘に建つ「Bristol Park Hotel」に滞在中、Meutgens夫妻とカトリックの枢機卿も、同じホテルに滞在していたのが縁だった。

夫婦でカトリックの熱心な信者で、ご主人の名前をとって、「Ludolf Meutgens 基金」を設立し、天文学的数字と思われるほどの私財をアフリカや各地へ寄付し、世のためになろうと一生懸命だった。


赤いブラウスが、モイトゲンス夫人。その左隣は、ご主人で、映画スターのような二枚目・モイトゲンス氏。

皆、私の親より歳が上だったが、お友達みたいに一緒にレストランへ行ったり、散歩したり、ホテルにあった骨董品のようなピアノを弾いて楽しんだりした。



あぁ、モイトゲンス夫妻の思い出と共に、シチリア島が思い浮かぶ。

あの時は、4月のうららかな日が続き、天国のような気候と風景だった。
私はドイツの仕事の後の「イタリア逃避(?)」であったので、
一人で、ショートパンツの下にビキニを着て、ナクソスの海岸へ出かけたり、タオルミーナのみやげ物屋を見て回ったり、ビーチサンダルで町なかを走り回り、エトナ山の写真を撮ったり、教会へ行ったり、バルでワインを飲んだりした。背中に羽が生えたように、物凄く幸せだった。

当時78歳の枢機卿は、私を見ながら、しみじみと 
「Goethe sagte, Jugend heisst betrunken ohne Wein. (ゲーテは言った。青春、それはワインなしで酔っていることだ)」
とつぶやいた。

ご主人のモイトゲンス氏は既に亡くなったが、夫人を訪ねて、ボン近郊の邸宅を訪ねたことが何度かあった。庭に小さなプールがあって、日当たりが良い家だった。
大富豪としては、遠慮がちな家だと近所の人が言ったが、確かにそうだった。
寄付はしても、贅沢はしない人たちだった。

「一人暮らしだから、ぜひ泊まっていって」と言われて一泊した。
その時、バチカンから、別の枢機卿がお茶を飲みに訪れ、皆で居間に座った。
「この人です。旅が好きなのは」とモイトゲンス夫人は、枢機卿に私を紹介した。

すると、「旅をしたあなたの独自の経験、それは誰も盗むことはできない。それを大事にして、これからも旅しなさい」とおっしゃった。

そして、以来、さらに私の旅は各地へと続いている。
・・・モイトゲンスさん宅の居間が目に浮かぶ。


2011年1月19日(水) 春爛漫のお座敷

2011-01-19 | 京都花街
もう10年くらいになるかしら、
毎年4月に大学のお友達、その人たちのお友達を中心に、
知人、友人、講演会の聴講に来てくださった方などに声を掛け、
皆で京都最古の花街「上七軒の北野をどり」を観て、お茶屋さんへ遊びに(=見聞を広めに)行くのが行事化した。

年末になると、
「来年はいつ?」
という常連さんの連絡で、早急に日程を決めて、お茶屋のおかあさんに連絡。

今年は次のようなタイトルを、私の独断と偏見で付けました。

毎年の嘉例の如く「春爛漫 上七軒 お座敷の愉しみ」
~ 美しいもの 美味しいものを求めて “美しき人生” 続行中の方々へ ~


毎年の嘉例の如く 鶴亀に舞わせられ 
その後 月宮殿にて 舞楽を 
奏せらりょうずるにて候 <鶴亀より>

気分はこれですね!

去年ははどうなるかと、日程についてかなり迷った末、
4月X日にしたところ、ドンピシャリ。

龍宮城みたいなお座敷の後、春の夜桜、爛漫に、妖しげに、夢のような雅な世界でした!


写真は、「おまわりヨイヤサ」で勝ち抜く、MR.Takada。

2011年1月18日(火) 「ヨーロッパお菓子紀行」

2011-01-18 | 講演/写真展 日本国内にて &相原恭子同行ツアー
美しいもの、美味しいものが好きな私。
甘党、辛党、両方OK。

「ヨーロッパお菓子紀行」(NHK出版)をお読みになった
江東区亀戸文化センター(カメリアホール)の稲村さんが打ち合わせに、訪ねてくださった。
この本、再版にはならなかったが、熱心に読んでくださる方は多かった。NHK出版のHPにインタビュー記事が載り、EU大使館の当時の大使と大使夫人、広報の方が興味を持ってくださって、EUの広報誌にインタビューと著書紹介を出してくださった。

本が出てまもなく、某チェーン店(有名なベーカリー)の広報の方がHPから私に連絡を下さり、訪ねていらした。
「バニッツァを焼きましたので、試食してください。これで正しいでしょうか?」
・・・ビックリした。歯ざわり、甘さ加減など、本場のものより工夫されており、美味だった。その後、そのバニッツァは店頭で見ないと思っていたら、去年秋、湘南某所のその店で、山の様に積まれて売っていた!早速買ってみた。味は前と同じだったが、食感はソフトになっていた。近年、フワフワ、モチモチが好まれているみたい。
さて、店員さんは、当時の広報の人の尽力を、たぶん知らないでしょうねぇ。




そして、今回もお菓子紀行の講座をすることになった。
東京に居ながらにして「お菓子を切り口に巡るヨーロッパの旅」へご案内し、
EUが拡大する中、ヨーロッパの歴史、風土、メンタリティーなどを、下記の三回シリーズでお話することになった。
私が感動しながら撮った、たくさんの写真をご覧に入れます!

第一回 4月28日(木)14:00~
第二回 5月12日(木) 同上
第三回 5月19日(木) 同上 

場所:亀戸駅北口歩2分「亀戸文化センター」
電話 03-5626-2121 
そうそう、まだご案内書などできてませんが、先行予約(そんなのあるかしら?)。
おいでやす!

ルーマニアのマラムレシュの農家のケーキ、ブカレストへの夜行列車を待つ夜の駅、ブルガリアのバニッツァ・・・土地に根ざし、素朴に受け継がれてきた、数え切れないほどの伝統のお菓子。

たくさんの人々との出会いとともに、温かく、美味しい。





 


2011年1月17日(月) 竹生島 と 玉菊燈篭

2011-01-17 | 邦楽・お稽古
TV番組 録画して ランチタイムに 邦楽鑑賞
そして、観た後も、思い出す言葉:
月 海上に浮かんでは 卯も浪を奔るか 面白の 島の景色や <竹生島>・・・月夜の鏡のような湖面に吸い込まれそう。
亡き玉菊の来る夜かな親孝行の花魁を 親不孝めが買いに来る <玉菊燈篭>・・・25歳で亡くなった美人。売れに売れて、お酒好きで、教養あふれた玉菊さん。どんな人だったのかしらね。
***「菊」といえば、昨日のブログに登場の黄色い名残の菊、まだ若々しいままに咲いております。

2011年1月16日(日) 小さきものへ 一日でも 一時間でも長く生きていて!

2011-01-16 | 隠れ家・庭仕事
庭の一隅に、黄色い小さな名残の菊。
親指の先ほどの小さな花。

年末のある日、「土の上に、花が落ちている・・・」と思って見ていたのだが、
なんと、今も咲いている。
あら不思議とよく見ると、2~3cmほどの茎があって、根が付いている。
ツツジと万両の木の下で、寒風をそのぎ、淡々と咲いている。



ロゼットで冬を越す植物みたい。
一日でも、一時間でも長く生きていてね。


2011年1月15日(土) 蝶 ・・・これほどドキドキするものは他にない

2011-01-15 | 


あの「ずかん」と同じ棚に、この三冊があった。
これらは、小学校に入った頃に買って貰った。
「蛾」の本に挟んであるのは、昆虫に関する当時の新聞記事
私が昆虫採集に夢中になったのがきっかけで、父も書道、登山、写真から、さらに昆虫採集へと趣味が広がり、この記事は父が切り取ったものだ。
当時、「子供新聞」だか「小学生新聞」というのがあって、「私も読みたい」と言ったら、普通の(大人の)新聞をとっているのだから、「それを読めばよい」と両親が言った。(これも倹約(?)と思われる)
で、私もこの記事を読まされたが、もちろん読めない漢字がたくさんあって、あまりわからない。
だが、自分のように昆虫が好きな“おじいさん”もいるのだ、ということはよくわかった。

<チョウに魅せられた彫刻家古賀忠雄さんの余技> 讀賣新聞 昭和42年6月4日(日)
小見出しに~少年時代からの愛着~、~無心になる楽しみ~ とある。
まさに私にとっては、~少女時代からの愛着~・・・である。
ああ、シンパシーを持つなぁ。


クスサン、ヤママユ、シンジュサン、オオミズアオという、大物の蛾は迫力があって、好きだ。
これを見つけると、ぞっとするほど、ドキドキしたものだ。
ヘルマン・ヘッセも、四十歳そこそこの頃、蝶(Schmetterling)を見るほどドキドキすることはないと、エッセイに書いている。
私もまさに同じ気持ちだ。

ドイツ語で「蛾」は Nachtfalter という言葉もあるが、蝶も蛾も Schmetterling ということが多い。

小学校一年の夏、津久井渓谷で、朝五時ごろ、ひんやりした空気の中、ヒマラヤスギの下の方に、
ひっそりと息を潜めるようにとまっていたオオミズアオが、今も目に浮かぶ。
その涼しげで微妙な色彩と、美しいフォルムを思い出すと、今もゾクゾクする。

小学校の頃は、家じゅうの壁は蝶と蛾、カブトムシなど甲虫類も含めて、昆虫の標本だらけだった。