Kyoko AIHARA's Diary (Writer&Photographer) 相原恭子(作家&写真家)のブログ 

ヨーロッパ紀行、京都花街と着物、ビールとグルメなどをテーマに執筆、撮影、国内・海外での写真展や講演等。今日も良い日!

2011年6月10日(金) 近頃の若者は・・・穿きたての白足袋

2011-06-10 | 文学
印象に残ったので、メモしておいたのだが、
泉鏡花の、確か「白い下地」だったと思う。

近来は穿きたて(はきたて)の白足袋が硬く(こわく)見える女がある。女の足が硬く見えるようでは、其の女は到底美人ではない。白い足袋に調和するほどの女は少ないのである。美人は少ないからだ。”

いつの世にも、
“近来は、近頃は・・・XXXである”
という思い&言い回しがあるのものだ。


英語の本を書く時、最初の花街の本だったから、
一気に物凄い量の資料を一気に集めた。
幸い、地元新聞社や資料館の方々の協力で、
膨大な量の昔の新聞をコピーしてくださった。
(当時、出会ったばかりの方なのに、親身に協力してくださって、
本当にありがたかった。今も、お付き合いさせていただいている)

昭和20年前半の新聞によれば、既に、
「近頃の若い芸妓や舞妓は・・・」という
明治生まれの人のご意見があり、
あらら、当時の若い芸妓や舞妓って、大正末/昭和初期の人?

ということは、今の20代の人たちも、50年後は、
「今の若い人たちときたら・・・。私たちの時は、ねぇ、・・・」なんて
言うのかもしれません。


歴史は繰り返す、のは本当なのね。

2011年5月31日(火) 君の脱ぎたる舞ごろも・・・

2011-05-31 | 文学

次の間に君の脱ぎたる舞ごろも
  ありてなまめく夜半なりしかな -吉井勇 「黒髪集」より





黒髪が錨綱より強きこと
  君に教へてかへりけるかな -吉井勇 「酒ほがひ」より


こういう余韻・・・よろしおすねぇ。

吉井勇さんという人、
各地に出没。

京都はもちろん、
雲仙を歩いていたら 「吉井勇歌碑」
高知へ行ったら 「吉井勇記念館」
北海道でも・・・
北陸でも・・・
山陰でも・・・
どこへ行っても、というくらい、吉井勇さんの足跡に出会う。

本当に旅が好きだったのでしょうね。

  と言う私も、あちこち歩き回ったということになりますが・・・

2011年5月25日(水) 蛍 ホタル ほたる ・・・来い

2011-05-25 | 文学
今頃の季節
雨がしょぼしょぼ降ると、
蛍はまだかな~ と思う。

そんな時に思い出すのは、
泉鏡花の詩。
筆で書いてみた。


柔らかく優しく
点滅する蛍の光

蛍がいうた
やみの夜の
しょぼしょぼ雨の
紺蛇目傘(こんじゃのめ)
そっととまって
覗いたら
青い手柄が
見えたぞえ
  泉鏡花


初めて蛍が飛び交うのを見た時、
青い手柄の女人は現われなかったが、
水の流れ、冷たい空気、うっすら見える葉陰に
こんなに美しい情景があるだろうかと
夜通し眺めたものだった。





2011年5月8日(日) 水上勉とシュニッツラー

2011-05-08 | 文学
今日は某所で、
「わが 女ひとの日記」 (水上 勉) を読んだ。

その中で、印象に残った「遊郭の女」。
千鶴子さんの心田に、著者と同じような随想を持った。
ギリギリのところで生きている人のインノセントとも言える心映え、「今」に一生懸命な、刹那的な美を感じさせられた。

そこに、著者がシュニッツラーの「盲目のジェロニモとその兄」を引き合いに出していることにも、共感を覚えた。
アルトゥール・シュニッツラーは、私が大好きな作家だ。
学生のころは「女の一生」、「賢者の妻」、「緑の鸚鵡」、「輪舞」、「恋愛三昧」など彼の小説をたくさん読んだものだった。

情緒的、だけれども、現実をキラリと刺し通すような繊細で鋭いリアリズム。
その作風に魅力があると思うのだ。
「賢者の妻」は、ドイツ語の教科書だった。私は当時、ドイツ語の予習復習に熱心ではなかったのだが、小説の主人公の教授の妻への生真面目な淡い恋心の描写に興味を持った。
博士になってから、北の海で幼い子供を連れた彼女と再会した時の様子。
保養地の楽団がメランコリーなデンマークの曲を奏でている・・・というところや、島へ漕ぎ出そうと誘うところ・・・など、その地の情景をありありと思い浮かべながら呼んだものだった。
後に、ドイツやスカンジナビアを旅した時、自分の想像通りの小説の風景に出会い、感動したものだった。

「ひとは温泉芸妓とよぶけれど」Hさんにも、魅かれた。
真正面で生きる年増芸妓。「遊郭の女」の千鶴子さんにも通じる、
ギリギリのところで生きている人のインノセントとも言える心映えや行動に、読後感は爽やかであった。

人間性とは、ア・プリオリなものもあるに違いないが、当人の置かれている状況により、培われるのではないだろうか。そして、肩書きや地位、世間の評価とは別個に存在することができる。
哀しくもあり、美しくもあり、嬉しくもあるな・・・。

2011年2月2日(水) 「まる髷」 泉鏡花

2011-02-02 | 文学
絵画的、情緒的、日本らしい“洒落心”と“遊び心”がある唄。

色彩や形が、その周辺の情景と共に生き生きとした余韻となって、
カメラで撮影したかのように、私の頭のスクリーンにパシッと写ります。
とても好きな唄・・・。
(二つとも、泉鏡花の唄)

「まる髷」
蛍がいうた。
 やみの夜の
しょぼしょぼ雨の 
 紺蛇目傘。
そっととまって覗いたら 
 青い手柄が見えたぞえ。


「やたい」
頬紅の
鮪、赤貝、穴子もいらぬ
露の青笹すっきりと
ぬれたがままの
  てつか巻


・・・「鏡花全集」(岩波書店)より
注意:表記の漢字、カナは、PCで出てこないのと、横書きのため、残念ながら正確でない部分あります。

去年の2月、金沢近代文学館の学芸員・奥田さんが、あちこちをご紹介くださって、さらにお休みの日にご案内下さった時のこと。
確か、泉鏡花記念館で出会った唄「まる髷」。
非常に印象に残り、パンフレットに眉墨でメモした。
今になって、正しく知りたかったので、「泉鏡花記念館」へ問い合わせあところ、丁寧に教えてくださったのだ。



2010年12月23日(木・祝) 川端康成の京都 友禅作家 田畑喜八さん

2010-12-23 | 文学
京都に親しんでから、改めて、水上勉、谷崎潤一郎、瀬戸内寂聴、川端康成などのの作品を改めて読んだ。

してみると、特に、川端康成の小説に登場する場所にとても共感を持った。
小説には現実の地名で書いていなくても、「ああ、ここだ!」、という情景が次から次へと出て来て、行間の意味というか、作家の奥底にある情景への思い入れが見て取れるような気がする。

その場所は、観光ルートとは程遠かったり、逆に観光客でざわめく通りをほんの少し入っただけの場所だったり、山奥だったり、いわゆる何もない(店も名所旧跡もない)場所だったりするのだが、「そんなところどうやって行かはった?」、「どうして見つけはったん?」と京都の友達に聞かれるような場所だ。

わざわざ探して出かけた場所ではない。
抽象的な表現になるが、中心に居ないで、端へ、奥へ、隅へ行ってみて、そこから中心を眺めたいとか、隠れた場所から本質が見えるのではと思いつくままに出かけたとか、たまたま散歩して行き着いた場所なのだ。

土地、というのは、訪れる時間帯や季節によって様々な様相をみせ、毎回受ける印象が異なるものだから、まさに風景との一期一会だ。
不思議に、小説に出てくる場所が、その季節や時間帯も同じ場合が多い。

「古都」の双子の姉妹が二人で雷雨をしのぐ杉林や、隠れた庵、細い路地・・・。

先月、染色家で「都をどり」の総踊りの衣裳も担当している田畑喜八さんを訪ねた。
京都を離れてみようと早稲田大学を卒業し、<京都の江戸っ子>を自称する田畑さんは、チャキチャキとして、ユニークで、何事にも詳しく、魅力的な人だった。

本論の友禅のお話も終わったので、さあ、失礼しようと立ち上がると、
田畑さんが、川端康成のお話を始めた。
学生の頃、川端康成の鎌倉の邸宅に招かれ、
川端康成も、何度もお父様(人間国宝)を京都に訪ねて、長話しをしていたという。
そして、「私が書きますよ」と小説(「古都」と思われる)の構想をそれとなく語り、
お父様を登場人物にしたいとおっしゃったそうだ。

「あなたが、今、座っているところに、川端先生がいつも座られ、父と話してましたわ」と田畑さんは昔を思い出したようだった。

偶然に、川端先生と同じ場所に座るとは、ありがたく、晴れがましく、おそれおおいことどす。