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けいおん!の聖地をゆく10 その8 豊郷小学校旧校舎の細やかな配慮

2017年07月30日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 今回の訪問の主目的であったねんどろいど撮影が大成功に終わったので、満足感に浸りつつ、しばらく旧校舎群を眺めていました。そのうちに、酬徳記念館で見たパンフレットの内容を思い出しました。


 帰るにはまだ時間もあるし、もう少し色々見学してゆこう、と思い立ちました。


 まずは、お馴染みの中央階段です。窓からの光に、兎と亀のオブジェが照らされて輝いていました。


 国登録有形文化財に登録された旧校舎内部には、他には見られない建築細部の細やかな配慮が幾つかみられます。上図の壁と床の間にはめこまれた部材に注目して下さい。これは幅木といい、畳を使用する和風建築ではあまり見られない部材です。洋風建築ではたいてい見られるもので、壁と床の間の隙間を埋める役目を果たします。
 この幅木に、丸みがつけられています。これは埃がたまりにくいようにする配慮です。


 円柱の周縁部にも幅木が回されています。埃をたまりにくくすることで、生徒たちが清掃をしやすくしています。こういう細かいところにも配慮が行き届いているのが素晴らしいです。


 出っ張った所にも丁寧に幅木がはめこまれています。腕の良い大工による丁寧な仕事ぶりがうかがえます。日本の同時期の洋風建築にもなかなか見られませんので、一見の価値があります。


 教室の扉は全て外開きであるため、その軌跡が廊下に黄線で描かれています。これは私が居た小学校の木造校舎部分にもありましたので懐かしいです。この黄色の半円の中には入らないこと、と教わった記憶があります。ここでも同じ意味で描かれており、扉が開かれた際にぶつかるのを防ぐための配慮です。


 教室の廊下側の窓も、細やかな配慮のもとで作られています。窓は三段に分けられて上一段が外開き、下二段がうち開きになっています。これは換気の際に空気の流れを二つ作るようになっており、外開きの窓からは風が抜け、うち開きの窓には風が入りやすくなっています。
 同時に、下二段を内開きにすることで、廊下を行き来する生徒たちが窓枠にぶつかったりしないように配慮しています。ヴォーリズが建築家としていかに優れていたかが、これらの細やかな配慮からも伺えます。


 とにかく外観も内装も、竣工当時は超一級品でした。国登録有形文化財への登録は、当然の結論であります。かつてこれを解体撤去しようと目論んだ豊郷町当局の姿勢と見識に対する、痛烈な皮肉でもありましょう。

 太平洋戦争中、近くに軍需施設が点在したために白亜の校舎は格好の攻撃目標になると懸念され、校舎外壁にタールを塗って黒く偽装した時期がありました。しかし米軍は航空偵察で全てを把握しており、同地域に進撃するB29や護衛戦闘機の全てに地図と写真を配布していましたので、豊郷小学校の建物に関しては完全に周知されていたそうです。
 それどころか、自国の建築家ヴォーリズの設計であることを理由に、爆撃目標から外していたのでした。他の学校がみんな爆撃や銃撃を受けていたなかにあって、豊郷小学校だけが無傷で残ったのもそのためでした。

 こうした歴史的背景も文化財登録の考察基準の一角を成しています。それだけの辛苦を経てなんとか生き残ってきた貴重な建築遺構が、下らない汚職関連の事業で壊されようとしたのですから、文化庁や滋賀県が文化財登録にあたっては豊郷町レベルでは駄目だ、任せておけない、と考えたとしても無理はありません。町指定で文化財登録をスタートさせて、県指定、国指定へとランクアップするのが普通なのですが、豊郷町の文化財行政は有って無きに等しく、見かねた文化庁が国登録で策定案をまとめた、という流れであったようです。

 豊郷町の文化行政の実態は、現在もなお芳しくありません。文化財の基本台帳や紹介パンフレットすら未だに刊行されておらず、豊郷小学校の文化財指定関連の基本報告書すら町立図書館に置いていません。驚くべきことに、自治体の基本的記録である町史すら、編纂も計画もなされていません。
 ところが隣の彦根市は、国宝彦根城を擁することもあってか、文化財行政の充実度は滋賀県内でもトップクラスです。市町村合併の動きが盛んだった頃に、豊郷町が彦根市に合流しようとして彦根市住民の猛反対にあって挫折したそうですが、豊郷町の文化行政の実態をおもえば、それも仕方のない成り行きだったのかもしれません。


 けいおんファンにとっては最高の聖地としてもてはやされていますが、豊郷町の置かれた状況はなかなかに厳しいものがあります。豊郷小学校旧校舎群も、国の支援が無ければどうなっていたか分かりません。下手すれば解体撤去されてこの世に無かったかもしれません。
 そのことに、一時でも思いをこらして建物が現存することに感謝したファンは、果たして何人居るでしょうか。


 帰る前に、食事処「三羽鶴」の店先に新設されたという中野梓の飛び出し看板を見ました。


 裏面は「こげにゃん」仕様になっていました。さすがにこだわっておられます。


 内側の建物の玄関先にはけいおん関連のポスターが沢山貼られています。建物自体はいつも閉まっていますので、何のお店なのかも知りません。食事処「三羽鶴」の関連施設なのかは分かりませんが、おそらくけいおんブームの全盛期に営業していたところだろうな、と推測しました。

 以上で、「けいおん!の聖地をゆく10」のレポートを終わります。
コメント (4)
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