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けいおん!の聖地をゆく9 その9 京都修学旅行編 移転した絵馬掛所

2017年07月11日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 北野天満宮の拝殿です。奥の本殿と一つ屋根にまとめられて奥行きの深い社殿建築の重厚さをみせています。京都市内に僅か三棟しか存在しない国宝の社殿建築です。あとの二棟は上賀茂神社と下鴨神社の本殿です。


 劇中ではこんな感じで出ていました。前庭の地面をなぜかカットした構図になっています。


 このシーンですね。以前に紹介した今宮神社があまり似ていなかったのに対し、こちらは細部まで忠実に再現描写されています。


 西側廻廊です。このアングルも劇中に出ていました。


 続いて境内の絵馬掛所へ行ってみました。受付で位置を尋ね、教えられた方角と道順をたどってゆくと、上図の朱鳥居の列がありました。絵馬掛所の正面に位置しています。

 ですが、私の記憶では、絵馬掛所は境内地の南に位置する絵馬所の建物の西側にあったはずです。再び受付に行って、以前の絵馬掛所は絵馬所の建物の西側ではなかったか、と訊ねると、はいそうです、以前は絵馬所の西にありましたが、移転しまして現在の北西の隅になっております、という答えが返ってきました。


 劇中に登場する絵馬掛所は、やはり絵馬所の建物の西側に位置していた頃の姿でした。鳥居が東を向いているのが特徴で、現在の絵馬掛所の鳥居が南向きであるのとは違います。北野天満宮も少しずつ変わってきているようです。


 かつての絵馬掛所の場所に行ってみました。見覚えのある受付小屋がまだ残されていました。一度、ここで自分の書いた絵馬を奉納すべく手続きを取ったことがあります。その頃にずらりと並んでいた絵馬奉納掛台も、全て北西隅の現在地へ移されています。
 絵馬掛所の移転にともない、劇中に登場した案内板や位置表示板も、いまは本殿前庭と東門付近に移されていました。看板そのものも新たに書き直されていたので、写真を撮っても意味がないと思い、撮影しないままに退出しました。


 東門からは、上七軒の古い町並みを散策するのが一般的な観光コースですが、私は東へ直進しました。いつも通っている道であり、上図のような古民家が点在して上七軒に劣らぬ風情を楽しめます。


 400メートルほど歩くと、千本釈迦堂の寺名標が目立つ参道入口に着きます。


 参道を北へ進んで、千本釈迦堂こと大報恩寺の山門をくぐりました。近年の再建にて規模は小さいですが、格調ある構えです。


 私が個人的に大好きな京都の中世仏堂建築遺構である、大報恩寺本堂です。安貞元年(1227)の上棟になる真言密教系の常行堂形式の仏殿です。京都市内に残る遺構としては最古の例で、いまは国宝に指定されています。洛中一面が焼野原となった応仁文明の乱にて、唯一焼け残った建物として知られます。


 なので、応仁文明の乱の史跡巡りにおいても必ず立ち寄っていました。本来の専攻である仏教美術史学の面でも、この寺の貞応三年(1224)に慶派仏師の肥後定慶が作った六観音菩薩像に関心と憧憬を抱いて何度も通っていました。学生時代以来、20回ぐらいは訪れているはずです。懐かしい思い出の沢山ある古刹の一つです。


 境内の一角にある、北野経王堂の名残の小堂です。かつて北野天満宮の門前にあった北野三十三間堂の古材を寄せて建てられたとの伝承があります。その北野三十三間堂は、東山に現存する妙法院の三十三間堂の倍半という、大きな建物であったそうです。山名氏清をはじめとする明徳の乱の戦没者を供養すべく足利義満が建立したものですが、明治初年の神仏分離によって破却されました。

 かつての京都には、現存する各地の建築遺構よりももっと凄い建物、素晴らしい建築がいくつもありました。現在において最大とか最高とか言われて国宝などに指定されている建物を見慣れている身が、驚愕し茫然としてしまうような規模と結構を有した建物が、室町時代には幾つか建設されています。

 そのなかで、最も有名だったのが、足利義満が北山御所の一角に建てた北山七重大塔です。いまの鹿苑寺の境内地に遺構がほぼ確定しており、日本史上最も高い110メートルの木造塔であったことが文献史料から知られます。現存最高の東寺五重塔の高さが約55メートルですから、その倍であったわけです。
 そして日本史上最も長い建物が、前述の北野三十三間堂です。室町時代とはなんと凄い時代なんだ、調べて見たらもっと面白い発見が楽しめるかもしれない、と感動してまずは足利氏の歴史から学び始めたのが、私の畿内中世戦国史研究の発端でありました。応仁文明の乱に関する歴史なども、その過程で色々勉強しました。

 いま改めて考えてみても、いまの京都の古社寺の構えや文化財の数々、洛中洛外の地理は、ほとんどが室町時代に形成されています。平安時代からずっと続いてきたように多くの人々は錯覚していますが、そういう古いものは全て応仁文明の乱で根こそぎ失われています。
 平安京の街区も戦国期の再編を経て大半は失われ、豊臣政権期に御土居に囲まれた城塞都市としての姿に生まれ変わり、これを基盤として現在の京都市の街区が発展拡大してきているわけです。いまの京都は室町の都の子孫だ、といわれるのは、正しいと思います。

 なので、室町時代の歴史を知っておくと、京都はもっともっと面白くなります。けいおんの聖地巡礼コースがそれに重なってさらに楽しさを加えてくれるのは、けいおんファンにとっては素晴らしい現象です。これを存分に満喫してみるのも、良いんじゃないかと思います。

 以上で、「けいおん!の聖地をゆく9」のレポートを終わります。

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