気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く2 その22 「平戸館跡です!!」

2014年02月03日 | 大洗巡礼記

 吉田神社の境内地は、中世戦国期の在地武士の城館跡です。水戸市常澄平戸町に所在するので「平戸館跡」と名付けられます。この城館遺跡については、今回の旅の前に水戸市の友人に教えて貰いました。
 2001年秋に初めて大洗へ案内してもらった際に、面白い中世史跡があるということで、近くの武田氏館へも立ち寄ったことがあります。中世期の絵巻物の描写をそのまま再現したような城館の復元建築が楽しかったですが、他にもそういった城館遺跡があったら教えて欲しい、と頼んだのでした。

「そうだなあ、武田氏館ほど有名じゃないけど、常澄の方に似たような城館跡があったはず。水戸から大洗へ行く国道の、ちょっと外れた所にあったかな、確か神社か何かになってたと思う」
「大洗から自転車で行けるぐらいの距離か?」
「うん、水戸から国道51号線を行ってな、塩崎の交差点で側道に入って大洗への道 (県道2号線) に行くんだけど、そのまま行ったら涸沼川を渡って大洗町に入るんだ。その手前ぐらいの平戸町にあったはずや。平戸館っていうからな。涸沼川からそんなに離れてないから、大洗から自転車で行けば楽に行けると思う」
「平地の城館か?」
「ああ、あの辺はずっと平野部だし、田んぼが広がってる」
「他にも似たような遺跡あるのかな?」
「あることはある。和平館っていってな、常澄でも栗崎の方だから大洗からは離れるぞ。むしろ水戸に近いから、自転車ではきついかもしれん」
「じゃあ、近い方だけにしよう。それとウツギ崎砦の二ヶ所を見てみることにする」
「そうか、他の城跡は、次の機会に案内してやるよ」

 このようなわけで、今回の大洗行きにおいては、中世戦国期の城館遺跡を二ヶ所見て回ったわけです。そして一昨日の15日にまずウツギ崎砦へ行ったことは以前の記事にて述べた通りです。きょう17日は、こちらの吉田神社境内地の平戸館跡にやって参りましたわけです。


 この平戸館跡については、事前の下調べにおいてこちらのブログを参考にさせていただきました。その図面をプリントして、現地にて資料として使わせていただきました。
 この図面によれば、先ほど見かけた南側の小さな杜の方が、城館の主郭跡の一部とされているようです。赤い鳥居の標識は八幡社だということですが、祠すら見当たらなかったので、こちらの吉田神社に合祀されているのかもしれないと思いました。


 鳥居前の左側に建つ遺跡の標柱です。この平戸館跡が、水戸市の史跡に指定されていることが分かります。当地の在地武士の居館というか屋敷地の遺構、という認識であるようです。常陸大掾氏の一支流を祖とする平戸氏の屋敷跡と伝えられており、室町期の応永年間には平戸甚五郎、戦国期の天正年間には平戸弾正通国、が居たことが知られます。


 鳥居から拝殿への参道です。地面を掘り込んで造成しているように思われ、吉田神社の鎮座に際して地表の改変が行なわれたことがうかがえます。参考とした図面でも、微高地であったところを削り込んで神社を配置したような経緯が推定出来ます。


 参道脇に並ぶ摂末社の祠群は全て瓦製でした。最近のもののようですが、昔から付近にて祀られていた諸神を新たに合祀したのかもしれません。その場所は細長く盛り上がっていて、一見すると土塁のように見えてしまいますが、その裏手が駐車場になっているので、削り残し部分であろうと考えました。


 参道横に残る一段高い地表面が、本来の微高地のそれであるようです。低い所では参道面より約50センチほどですが、場所によっては1メートル近い段差が見られるので、微高地そのものがフラットな地形ではなかったようです。


 吉田神社の本殿です。周知のように、常陸国の三之宮が吉田神社であり、その本社は水戸市宮内町に鎮座しています。その公式サイトはこちら
 こちらの吉田神社も、その系列末社として旧常澄村域の鎮守としての機能を果たしたものでしょうか。祭神も、本社と同じ日本武尊(ヤマトタケルノミコト)です。江戸期には水戸藩の保護を受けて本社の整備が図られ、その系列社も保護を受けたといいますから、こちらの吉田神社も同様であったかもしれません。


 本殿の背後に回ってみました。振り返ると本殿および拝殿が高い位置にあるのが分かりました。微高地の一番高い場所に鎮座しており、かつての武家屋敷の中心部の位置にあたると推定されます。
 上画像手前に土管がありますが、この辺りで落ち込んで堀状になっているため、土管を置いて橋代わりにしています。


 土管の橋を渡ると、奥には「鴨川稲荷大明神」の社標をともなう朱鳥居と祠があります。吉田神社の奥社のような位置を占めており、ともに水戸藩政下における宗教施策にて保護を受けたことが察せられます。


 土管の橋から西側を見ました。吉田神社本殿と「鴨川稲荷大明神」の間には、上画像のような堀状の痕跡が見られ、参考ブログの本文では「堀」とされていますが、堀というより区画溝のような感じでした。居館屋敷とその付属地とを分ける溝、という見方です。現地はかつて湿地帯であったといい、水はけのためにこうした溝を掘ったことも考えられます。


 この堀状地形は、東側ではやや屈曲しつつ微高地の北側へ回る形ですが、微高地の北端には接していません。この堀状地形の南限は、現在の地表に消えて旧状が定かではありません。現地の東西を流れている川や水路とも繋がらないようなので、水を入れていたとしても、微高地の武家屋敷内における水はけのための施設、といった範囲にて捉えておくのが良いかもしれません。地表面観察だけでは、むしろ分からない事の方が多いと思います。


 現状では微高地の北を回って駐車場の脇に繋がっていますので、駐車場の方から入って行くと、上画像のように道のような雰囲気も感じられます。なので、「屋敷地を区画する堀または溝」の他に「屋敷内の連絡路」という可能性も考えられます。なお、微高地の北端へは出ていないので、微高地の中にこうした堀状地形が巡っているという形がイメージ出来ます。


 駐車場から鳥居の方向を見ました。この辺りは広く削平されているので、神社参拝駐車場として大きく地形を改変していると思います。このスペースの北西隅から、前述の堀状地形へと入っていくことが出来ます。そのまま進むと「鴨川稲荷大明神」の前に行きますので、参道のようにも見えてしまいますが、参考ブログの本文では「前日に雨が降ったためか水堀となっていて」とあり、「屋敷地を区画する堀または溝」の可能性がより強く感じられてきます。


 吉田神社の東側の景色です。鳥居前の農道に沿って水路が流れていますが、これは西側を流れている川から分かれているので、付近の農地化および圃場整備に伴ってつけられた水路かもしれません。当初は湿地帯であったため、水路があちこちに巡らされていたとみられ、その一部が城館遺跡の周囲にも及んでいるわけです。


 微高地の北辺は、御覧のように切岸状になっています。おまけに周囲の畑がやや低いので、ここに池または水溜りがあった可能性が考えられます。この低い地形が微高地の周りにまわっているのであれば、堀の存在を推定することも出来ますが、現状では北辺の一部のみであるので、何とも言えません。
 ただ、微高地北辺の突き出たような場所が、ちょっと気になります。このような形の場所は、奈良県の平地城館や環濠集落では環濠とセットになって連絡路の近くに見られ、横矢のポイントとして意図的に設けられた場として解釈されることが多いからです。


 ちょっと角度を北にずらして、微高地北辺の低い地形全体を撮影しました。一見して堀跡のように見えてしまいますね。でも向こうの畑が一段高くなっているので、堀跡ではなくて池または水溜りの痕跡かもしれません。


 微高地の南限は、上画像のような状態になっています。南の農地との段差が余り無いので、微高地が南まで伸びていた状況がある程度推定出来ます。南側に民家があるので、その宅地造成によって地形がかなり変わっているようです。


 吉田神社の鳥居前の農道を南へ行って、突き当りを東に進むと、正面に大きな老木が見えました。


 傍らに、錆びついた看板が外れて落ち込んでおり、「保存樹」の文字が読めましたので、天然記念物的な扱いを受けて保存が図られている古木のようでした。幹周りの大きさから、相当の樹齢を経ていることがうかがえます。古くからの街道筋においては格好の目印になったと思われます。
 近世期においては、こうした大木や老樹をもって一里塚に準じた標識にすることが行われていた例が散見されますので、こちらの老木も同様であったのかもしれません。看板を撮り忘れましたので、何の木かは分かりませんが銀杏のように見えます。水戸市常澄地区には、計6本の「保存樹」があるそうですので、そのうちの1本にあたります。


 やっぱり銀杏かなあ・・・。風格のある幹と枝の張りが見応えありました。


 「保存樹」の前の道から、吉田神社の平戸館跡を見ました。神社の鳥居が東に向いていますので、この辺りでは「保存樹」の前の道がかつての街道筋にあたるようです。


 もと来た道を引き返して、涸沼川まで戻りました。徒歩では絶対に回れない距離ですので、レンタサイクルは本当に便利だと改めて思いました。


 涸沼川です。対岸が大洗町です。


 涸沼橋の北側から川をしばらく眺めていたら、鹿島臨海鉄道の高架線上を列車が通り過ぎて行きました。一両のみで、めんたいパークの広告デザインを施したラッピング車でした。ガルパンラッピング車は二両編成であることが多いと聞きましたので、一両だけのガルパンラッピング車の走行を見かけるのは稀なようです。 (続く)

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