『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

うそじゃありません⑬

2016年10月29日 | 学ぶ

すっぽん・パワー(続)
 今週のスナップは今までのOB諸君のイメージを入れてあります。
 先週は「稲刈り」の行程でスッポンを見つけ、そのハプニングが「学習や『頭のはたらき』とどうかかわりをもつか」について考えてみました。「スッポン・パワー」です。

 「スッポンの発見」は、よくある「お化け大会」のように、しつらえられた「予想通り、期待通り(!)」のイベントではありません。「楽しかったね!」の「一夜限り」イベントでもありません。
 子どもたちが(ぼくも)「想像もしていない体験」です。自然のなかでは「予想だにしないこと」が待っていることに気づきます。ワクワク感のリフレインです。こうした「思いがけないこと」ほどおもしろく、子どもたちには強烈な印象として残ります。立体授業で子どもたちは度々めぐり合えるハプニングに対峙し「考えを進める機会」に出会います
 

予想もしないできごとでは咄嗟の判断や行動力が要求されます。自らの責任や能力が問われます。今回であれば、飼うことを前提としたスッポンの棲む世界や餌という問題です。「何もない! どうすればいい」や「思ったこととちがう!ほかの方法を考えなければ」・・・等々。イレギュラーな状況にも対処できる頭のはたらき(想像力や創造力)です。子どもたちはこれらの問題に答えを提出し、実践を重ね、一つ一つの経験を自信として吸収していきます。その自信が学習や体験を次のステップに誘います

 もちろん機会はスッポンの捕獲や飼育に限りません。「米作り」ひとつ、「稲刈り」の作業ひとつとっても、ぬかるんでいる田んぼの歩行や稲刈り用の鎌、刈り方、刈った束の置き方、束ね方、干し方など、自らが行っている体験と行動の意味やチェック(メタ認知)、効率的で正しい方法の実践など、「問いかけ」と「応答」は限りなく続きます。そして、それらの実践により自らの行動がもっていた意味や大切さなどを、やがてできあがったおいしいお米やミカンの収穫で「確認」することができるのです。

 こうした実践の積み重ねと、ルーティーンイベントを比較すると、「いかに学習経験に大きな差が生まれるか」が推察できるのではないでしょうか。立体授業では、一連の成長が、「季節の彩のなかで」数年間続くことになります
 以前紹介した「うちの子は、米作りなんかいいから、勉強を教えてほしい」という一言の「絶望的な(!)学習観・子育て観」の錯誤を理解していただけるでしょうか。それにつけても、子どもたちの様々な企画行事の根底に共通して流れているものが「米作りなんか!」という認識ではないことを祈らずにはいられません。

 もうひとつ。一般のルーティーン企画や実践で抜け落ちている(踏み込みが浅い)ことが多いのは、「自分たちの周囲には自然がある」という、ごく当たり前の感覚です。自分たちが『自然内存在』であるという認識の欠落です。原因は企画する方の経験の足りなさだと思います。そして、まずそれが緊急に克服すべき課題です。
 端的に言えば、本や教科書優先で「現実」に目が届かないまま、やれ双子葉植物だ、主根・側根だ、葉緑体だ、光合成・・・それらの「知識」を知っていることが学習だという認識(誤解)になってしまっていることです。
 そんなことだけ知っていても『クソおもしろくもない』という、「自らの経験にもある『学習感(!)』の克服にまで思いが至らない」。その現況が、自らの学習経験から脱出できない、脱出させようとしない悲劇を招いています。「我慢比べの受験学習の混乱」です。

 しかしその意識さえクリアすれば、そして少し工夫を重ねてみるという、ちょっとした努力がありさえすれば、子どもの学習感や学力が劇的に変わるはず、という手ごたえを僕は感じています。
 ガリレイやニュートン・ファインマンやマクスウエル・エジソンやファーブルなどが、自然や森の中でお父さんやお母さん、あるいは一人で観察をすすめ(珍しいものを拾い集め)、その推移や変化のおもしろさに夢中になり、深く考察をすすめ、それぞれの大きな発見や発明・業績に至った過程を、子どもたち(特に小学生など、小さい子)を指導する人たちは、もっともっと重要視するべきでしょう。そして、それらが逆に「必要かつ十分以上の学習意欲」をおのずから引き出していた現実に注意を払うべきでしょう。   
 

いくら優秀な子たち(あるいは過去の子たち)でも、「天才に育つきっかけ」がなくては天才にはなれません。天才までは至らずとも、対象のおもしろさの認識に至り、比類なき業績をあげるほど「夢中になれる」ような人生にも縁遠くなってしまうでしょう。
 自らの環境や周囲の対象にきちんと目を向け「見守る」、できれば問いかけ、興味を引き出したり、観察・考察を続ける機会の増大が、子どもたちの将来にとっても、科学の発展にとってもすこぶる大切です。想いを同じくする先生方(お父さん・お母さん)、いつでもご一報ください。道半ばですが方法を一緒に考えてみませんか。

体験不足がもたらす弊害
 さて、米作りなど課外学習を共にすると、子どもたちの行動様式や作業のようすで、頭のはたらき(賢さ)がはっきり判断できる場合があります。多少の性格差もありますが、それよりも小さいころからの日常生活での行動やお手伝いなどでの指導やしつけを反映していることが多いのではないか。そう考えています。

 頭のはたらきや使い方は、学生時代はもちろん、成人後も行動面や仕事面で大きな影響を与えることになります。もっと深く、多面的に考える必要があるのではないでしょうか。
 問題点はいずれも、「自らの行為や行動に対して、その方法や結果を自ら評価する=メタ認知」能力に欠けると思われるパターンです。小さいころから何を教え、何をさせることが、本人のためになるのか。「させない過保護」が成長にどう影響を与えてしまうのか。下記の例を参考にしてください。

 また以前学習指導の時期の大切さでもふれたように、これらも5年生以降の入団ではなかなか治らなかった例です。学習指導も含めて、やはり脳のはたらきには4年生から5年生くらいの間に「大きな転換点があるのではないか」と感じています。指導にはその「期限」を心にとめておくこともたいせつでしょう。
作業や仕事の意味を考えない(考えられない)―メタ認知が機能しない過保護
 自分で自分のことをさせない(たとえばお母さんがすべてを用意する)環境、今は共稼ぎ等で忙しい、またおじいちゃんやおばあちゃんとの同居も少なく、子どもたちが自ら身のまわりのことやお手伝いをする機会もほとんどなくなりました。

 団では、立体授業で、カブトムシの飼育や、種やドングリから育てた樹木の世話、教室の本や作業の跡片付け、整理整頓などの手伝いをさせます。その過程で子どもたちの様々な「面」が浮き彫りになります
 今までの「稲刈り」でもこんなことがありました。

 稲は刈り取った後、「脱穀」まで束にして干さなければなりません。「稲を一定の大きさの束にし、稲わらを使ってクルクルと束ね、端を押し込み留める」という作業です。単純な作業ですが、この作業を二年・三年と続けているのに、6年生になっても未だスムーズにできない子がいました
 からだは大きく、荷物運びなどは「大人顔負け」の力が出るのですから、「力がないからできない」わけではありません。なかなかうまくいかないので、最後は新聞紙やチラシを束ねるように「結ぼうとする」始末。そういう束ね方でハザカケをするとすぐ崩れてしまいます。こういう場合は大抵、過保護で何事にも経験不足、作業やお手伝いをする経験も極端に乏しい、という原因が考えられます。

 ひとつめの問題点は、この稲わらでの結び方に見られるように、とにかく経験が少ないので自らの動作―手の動きや力の入れ方、使い方―に対するメタ認知がはたらかない、要領がわからない、というパターンです。
 同時によくみられる問題点がもうひとつあります。今行っている作業や行動の役割や意味をあまり考えない。「目標が見えない」という事例です。
 たとえば、バーベキューで使用した網を洗うとします。来年も使うので焼け焦げや油がこびりついているのをそのままにしておくことはできません。きれいに洗って干して翌年すぐ使えるようにしておくことが目的であり目標です。

 その網を洗剤やクレンザーを使って束子やスポンジで洗うのですが、「満足に網の汚れの確認もせず、ただ機械的に手を動かしているだけ」。「いやいやながら」とか「サボっている」というわけでは決してありません。「頭が悪いから」でもありません。勉強はそこそこできるのですから。
 つまり、「きれいにする」というイメージや「できあがり」に対する「目標意識」や「目的意識」が希薄で、「自分が何のために何をしているか」もあまり考えない。「さまざまな経験を積んだり、指導をされた機会がないから、イメージが乏しく、そうした感覚が育っていない」のです。過保護による経験不足は、時としてこうしたメタ認知の能力不足を招きます。

 さらにこういうことにもつながります。水槽に入れるレンガを洗うように指示すると、小さなレンガの同じ面を何度も洗って、次の面に進みません。この作業は当然、「レンガについている砂や泥をきれいにしないと水槽の水が濁るから、それを防ぐ」という目的です。その目的に対して今の作業がどういう進捗状況であるかを判断できない(確認しない)のです。
 彼は「網の件」を思い出し、「よりきれいに」と考えたのでしょう。泥や砂が落ちて「レンガを削るだけになる」のも気づかず洗い続けたということでしょう。「今何のために何をしているか、どうしなければいけないか」といった行動の目標や経過が見えていません。
 これらの結果は本来の能力不足が原因というより、「小さいころからのさまざまな体験や活動が不足しているので、『着地点(!)』がわからず、『メタ認知』がはたらかないから」と考えられます。「自らの行動の目的や意味をとらえきれない」のです。当然、こうした影響は学習面にも出てきます。

 ありがちなのは、日ごろの課題(宿題)の実施でも、機械的にこなして「反復による質的深化」が機能しないということです。つまり、漢字にしろ計算にしろ、回数を重ねて熟達するという段階までにはなかなか至らない。くりかえしの効果があまり現れないという結果になることもよくあります。
 これらの報告をみなさんはどう考えますか?
 「勉強ができる、できない」が、決して「抽象学習や机上学習の繰り返し」だけではなく、「子どもたちの日常生活・行動・躾やお手伝い等による心身共の成長にも大きく影響されている」ということなのです。これらの指導の大切さは、子どもたちのゼロからの成長を考えてみると当たり前のことですが、往々にして見逃されがちです。その大切さを再認識していただければ報告した甲斐があり、とてもうれしいのですが…。
 残念なことに、頭は悪くなくても、例に挙げたような行動パターンのまま大きくなり社会に出れば、そうは受け取られません。「あったま、わるっ!」というわけです。
 ぼくたちは「何をするときも一つの頭」でやっています。こと学習に限らず「さまざまな行動に目を留め子どもを指導しておくことが、成長・能力の発達に大きな意味をもっている。それが学習にもフィードバックされる」。指導の中ではっきりしてきた事実です。ぜひ、子育ての参考にしていただければ、と思います。

レベッカ
 ここんとこ、映画DVDの話をしなかったのは、ブックオフや近くの古本屋で手に入れた安売りDVDが、すべて10分も見ないうちに嫌になる、駄作・絶望作ばっかりだったからです。「こういうときは古い作品を」と、ヒッチコックの「レベッカ」を見ました。やっと少し腹の虫がおさまったところです。
 ところで、スッポンの「学ちゃん」(命名しました)は新しい環境にも慣れ、飛鳥でとってきたカワニナやタニシをバリバリ齧るようになりました。時々「ビス千代(近くのスーパー)」のシジミも殻を器用に開いて食べています。


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