東日本巨大地震が発生してから2週間が過ぎた。被災者の方々のご苦労を考えて、筆者の経験を少しだけ書いてみます。この話は地震とは関係ありませんが、避難生活を送ったことには変わりありません。
昭和20年3月10日午前0時過ぎに前夜の警戒警報解除後しばらくして、いきなり空襲警報が鳴り響いた。当時筆者は国民学校(今の小学校)2年生であった。そして家族7人で水天宮の近くの日本橋蛎殻町に住んでいた。警戒警報が発令されたとき明治座付近の居住者のうち、子供と老人は明治座へ避難するように指導されていた。筆者も母と一緒に急いで明治座へ避難するべく背嚢(リックサック)を背負い、家を出て明治座に向かった。 しかし、浜町のあたりは既に激しい火花をまき散らして燃えていた。そのため筆者らは明治座へはいくことができなかった。それで有馬国民学校へ避難することにした。家族の約束でいざというときには有馬国民学校へ行くことに決めてあったからである。もしそこがだめなときは日本橋本町の筆者の従兄弟の家へ行くことになっていた。
吹雪のように吹き荒れる火の粉の中を筆者らは有馬国民学校へ急いだ。学校へ着いてみると沢山の被災者がいた。学校では、毛布と缶詰などの食料をもらった。その日の空襲で筆者の家も焼失してしまった。そのときは、初めは少し強い風が吹いていたが、火災が激しくなるに従って風は強くなり、隅田川の東岸の火災は渦を巻いているように見えた。火の粉は吹雪の時の雪のようであった。隅田川西側つまり明治座や浜町の民家はいわゆる類焼したものかもしれない。
こうして筆者は、避難生活に入っていった。初めは有馬国民学校で数日間、その後従兄弟の家で約一ヶ月間、その後に、柴又へ家を借りて引っ越した。
当時の避難生活は、今のように周辺に物資があってそれを待っていれば手に入るということはなかった。周辺どころか空襲に次ぐ空襲ですべてが焼き尽くされてしまい、日本中に物資がない状態であった。従って備蓄されている物品だけで生きていかなければならなかった。そのときの一杯の白湯の振る舞いががどんなに美味しかったことだろう。
このような状況で、何もかも失った被災者にとって、今何が不足していますかとか、何をしてほしいですかと聞くことは、ある意味で被災者にとって迷惑な質問なのではないだろうか。一目見て被災者は何もかも失った状態であり、現在の悲しみを超えて、将来どうやって生活を立て直すかという考えで心の中は一杯になっているはずである。もちろんそうした被災者に援助の手を差し伸べて支えていくことは重要なことである。援助の手を差し伸べるにやぶさかではない。出来る範囲のことをして差し上げたいと思う。とりあえずは義援金の寄付であるが。
最も大事なことは被災者が自ら立ち上がることです。がんばってください。
被災者の方々に心からがんばっていただきたいと激励の言葉を贈ります。そして亡くなった方々に衷心よりお悔やみ申し上げます(合掌)。そして行方不明になっている方々が一時も早くその所在が明らかになりますようにお祈りします。
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