寓居人の独言

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私が子供だった頃の思い出話「食べ物」、「国民服」と防火隊」

2014年12月30日 07時50分16秒 | 寓居人の思い
 このブログの読者から記事に書かれた事項についての質問が寄せられることがあります。
特に「その日から 子どもの戦争・戦後体験記」(小説)に書いた内容に関することが多いようです。質問には出来るだけ書いた当時の資料を引っ張り出してお答えしようと思います。
 私の子供の頃(昭和20年4月に国民学校初等科3年生になった)は戦時下で食料が非常に困窮していました。どんなものを食べていたかというと、通常はサツマイモが多かったと思います。しかしそのサツマイモはオイランイモと呼ばれた中の白い水っぽく栄養分の少ないものでした。現在売っているような甘く美味しいものはアルコール原料として供出させられ国民の口には入りませんでした。次に多かったのは大豆から油を絞った残りでした。当時大豆油をどうやって絞っていたか不明ですがひどい臭いのものでいわゆる大豆カスというものでした。私は食べたくありませんでしたが、他に食べるものが無いのでこれに食べることが出来ると人伝に聞いた雑草を入れてに粥状にして食べるしかなかったので食べました。
 服装は大人は国民服を着ていました。国民服をWikipediaで検索すると詳しく掲載されていますが、記事の中の写真を借用します。

 国民服はこれを着なければならないというものでは無く、衣類が食料と同じく統制販売に指定されこの衣服しか買えなかったようです。帽子を被ると軍人のように見えますが、一般国民用ということです。もちろんそのまま軍人用にもなったようです。私のような子供は学校ごとに制服があったかもしれませんが、記憶が忘却の彼方に逃げていってしまい詳細を思い出せません。Wikipediaを参照して下さい。
 日本の家屋の建築材が研究され空襲時には焼夷弾が多用されるようになった頃、いわゆる隣組が組織され全家庭の主婦、女子、高齢者が防火隊に入ったようです。防火隊の服装は女子はもんぺに和服を短く切ったものでした。しかし防火用の道具は手製の火叩き棒とバケツくらいしか無かったようです。火叩き棒というのは手で握ることが出来るほどの太さの木の棒の先に古着を裂いて縛り付けたようなものでした。布の部分に水を付けて火を叩くといったものでした。これでは小火(ぼや)しか消すことができませんでした。あの高性能焼夷弾の火力の前には全く役に立たなかったと思います。現在の家屋は少なくとも外壁は耐火材を使用することが義務になっており、よほどのことが無い限り類焼することはありません。