透明な気圏の中から

日々の生活の中で感じたこと、好きな作家についての思いなどを書いてみたいと思います。

南幌町と栗山町へ 

2024-06-14 20:24:11 | 日記

曇り。最低気温15.2℃、最高気温23.3℃。

南幌町の「高橋」というラーメン店へ。

豚骨と鰹出汁のスープが独特で個性的な味わいで、後を引く感じです。

とろみがあるスープは塩加減が良く、スプーンで5~6杯も頂くことに。

お店はお昼時とあってか、満席状態でした。

 

記念館ではガイドさんのお話を伺うことができました。栗山という地名が栗の木の多いところからというアイヌ語から取られたというのは後付けのようだとのこと。もともと、栗 の木が多かった山を栗山と住民が呼んでいたので、それが地名になったようです。

仙台藩の角田支藩領主・石川家の家臣添田家の4男として生まれた麟太郎他は戊辰戦争後の明治3年、44戸51名で室蘭へ入植します。

彼らは18年間、開墾に精をだしたものの、開墾した室蘭の輪西付近を後続の屯田兵に明け渡さざるを得なくなり、明治21年、角田に入植することにします。

ガイドさんのお話によると、2年後には集落が形作られ、角田村として公に称されるようになったとのこと。周到な準備による、移住だったと思われます。

泉記念館は栗山町開拓の父、泉麟太郎が明治21年(1888年)に入植し、その10年後の明治31年(1898年)に建築された建物とのことです。本州の武家屋敷の様式ですが、上げ下げ窓が取り入れてあるなど和洋折衷となっています。

当時としては珍しかったと頂いた資料にありました。

 

往復の車窓からは美しい水田が広がっています。近年、北海道は米どころとして確固たる位置を占めるようになってきています。

思えば、明治6年、赤毛種で寒冷地の稲作を成功させた中山久蔵。彼のこの功績の後にも、たくさんの品種改良が重ねられて、今のお米があることを思わずにいられません。

今日訪ねた記念館の主、泉麟太郎も明治26年、稲作に成功したそうです。彼は水田作りのために夕張川から水を引く灌漑用水路の建設に尽力するなどして、稲作の発展を支えたのだそうです。

開拓の地を掘り下げていくと、必ずと言っていいほど、その地に身を尽くした人格者に行き着くような気がします。

かつて、日本には他の人のために身を捨てる覚悟の方々が各地に居たということを、忘れないでおこうと思いました。

 

それでは今日はこの辺で。

明日が皆様にとって良い一日となりますように・・・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする