曇り時々雪のち晴れ。最低気温1.4℃、最高気温8.1℃。
季節が後戻りしたかのように、日中、霰がばらばらと降ってきました。夕方からは晴れ間が広がり、夜のとばりに包まれる頃には星が一つ、二つと見え始めました。
故郷の網走では、除雪車も出動したようです。
霰が残る庭
曇り時々雪のち晴れ。最低気温1.4℃、最高気温8.1℃。
季節が後戻りしたかのように、日中、霰がばらばらと降ってきました。夕方からは晴れ間が広がり、夜のとばりに包まれる頃には星が一つ、二つと見え始めました。
故郷の網走では、除雪車も出動したようです。
霰が残る庭
雨。最低気温2.9℃、最高気温6.1℃。
終日雨となった今日は、義弟の命日でもあります。若くして急逝してから、まる三年が経ちました。
突然の訃報を受けたのは、一人旅で青森駅に着いてからほぼ2時間後の午前7時頃でした。できるだけ早く戻れる列車の切符を手にし、青森駅から再び同じ行程で我が家へ戻りました。身支度を整え、生田原を目指しました。石北線で、午後9時過ぎに生田原駅に着き、義弟宅へ。泣き崩れる家族の皆さんに、かける言葉もなかったことを思い出します。
命のはかなさを強烈に感じたこの時を機に、できるだけ、今逢いたい人には逢おう、今やりたいことは後にのばさないようにしようと意識するようになった気がします。
百年記念塔を望む ふれあいコース 2016年4月27日撮
曇り。最低気温-0.3℃、最高気温13.3℃。
今日は、曇り空の一日となりました。
午後から、エゾユズリハコースを歩きました。薄い緑色のレースがかけられ始めた森の中。ニリンソウやエゾエンゴサク、ミズバショウの他に、フッキソウ、白花のエンレイソウも咲き始めていました。
明日からの北海道はところによって、雪の予報が出ています。連休中に雪の降ることはよくあることなのですが・・・・・。
ふれあいコースのこぶしの花です。
大沢口
ニリンソウ
白花のエンレイソウ
フッキソウ
ネコノメソウ
ヒヨドリ
晴れ。最低気温1.4℃、最高気温13.3℃。
どうなるのかとドキドキし、可笑しくて、少し胸がきゅんとなったりもしながら、一気に読み終えました。
この絵本はファイターズの選手会会長大野翔太選手を中心に作られたもので、作中の「ふぁいたーず」の動物たちは、現役のファイターズ選手をイメージしたものだそうです。
また、主人公「びーくん」に語り掛けるシーンがあるのですが、そのセリフは栗山監督自らが考えたとのことです。
堀川真さんの絵はユーモラスでほのぼのとした味わいがありました。
野球だけではなく、こうした面でも才能を発揮されているファイターズの皆さんに、尊敬と感謝を込めて心からエールを送りたいと思います。
曇りのち晴れ。最低気温1.9℃、最高気温14.3℃。
ふれあいコースのコブシの花に注目しています。なんだか定点観測状態になってきました。
つまり、気になるコブシの花が咲く木なのです。他にもコブシの木はたくさんあるのですが、この木から目をそらすわけにいかなくなってきてしまいました。まるで、『星の王子さま』のバラですね。
それはそうと、こぶし大の白い花は、野山が緑になる前のこの時期に遠くからでもよく目立ち、この花が咲くのを目安に種まきを始めるところもあるそうです。
他にもコブシの蕾は鼻炎、鼻づまりなどに効果があり、漢方薬としても重宝されているらしいのです。
生薬名は「辛夷(しんい)」とのこと。『広辞苑』によると辛夷(しんい)とは、「モクレン・タムシバまたは同属植物のつぼみを乾燥した生薬。漢方で、鼻炎・蓄膿症・鼻疾患に基づく頭痛に用いる。味は辛く、やや苦い。」とありました。
コブシの花にばかり目が留まっていたのですが、蕾にも注目です。
晴れ。最低気温-0.2℃、最高気温17.1℃。
大沢口付近の大きな水たまり(池)に、マガモのカップルが泳いだり、もぐったりとそれは元気に過ごしておりました。
オスのマガモの頭部はビロードのように艶やかな緑色。羽は白地にブルーのライン入りと本当におしゃれなデザインです。こういう色合いのジャージを見たような気もしますが、原点はマガモ?
それはそうと、メスは地味めで少し気の毒にも思えるのですが、自然の為せること、きっと何かあるのでしょう。
私の1メートルほどのところにやって来てくつろぎ始めたのには驚きました。
晴れ。最低気温3.0℃、最高気温15.4℃。
午後から野幌森林公園を散歩。
大沢口に立つと、ほのかにエゾエンゴサクの甘い香りがたちこめていました。
雪解け水の流れのそばでニリンソウが清楚な花を咲かせていました。やっぱり!
芽吹き始めた木々を揺らして、透き通ったさわやかな風が吹き渡っていきます。優しい春、美しい春、今はこれを記憶に刻んでおきたいなと思います。
自然は時に激しいエネルギーで厳しい条件を付きつけてもくるのですから・・・・・。
雨のち晴れ。最低気温5.0℃、最高気温9.9℃。
「イーハトーブセンターだより第122号」が届きました。合わせて宮沢賢治生誕120年記念事業「黄瀛展」(賢治研究の先駆者たち)のチラシが同封されていました。
学会関係者の皆さま、この度もお忙しいところありがとうございます。
今年は賢治生誕120年の節目の年となり、記念事業として第4回国際研究大会が開催予定となっています。その研究発表者を募集するそうで、応募内容が詳しく記載されていました。
第3回国際研究大会は賢治生誕110年記念事業として、2006年の開催でした。次々と発表される研究発表を聴いて、分からないながら好奇心をそそられたことなどが思い出されました。
晴れ。最低気温5.8℃、最高気温21.0℃。
今日も初夏の陽気となり、ふれあいコースのこぶしの花がほころび始めました。
野幌森林公園大沢コースではエゾエンゴサクのかたわらで二輪草が蕾をふくらませ、明日にも花が咲きそうです。
道端のツクシが頭をもたげていたことに、今日気がつきました。
春の舞台の緞帳があがりました。次々に主役が交代する舞台に注目です。
晴れ。最低気温7.1℃、最高気温21.0℃。
最高気温が一気に20℃を超えて、初夏の陽気になりました。
ふれあいコースのこぶしは蕾がふっくらしてきました。見上げると芽吹き始めた木々の緑が青空に映えています。
エゾエンゴサクが満開の時期を迎え、道の両側や森の中は青く煙っているようでした。
さらに歩を進めた先には、咲き始めたエンレイソウがありました。
北海道にもまちがいなく春が訪れたようです。
九州の被災地には無情の雨風が追い打ちをかけるように襲いかかっています。
発生から一週間。地震による揺れは収まらず、避難者10万人。中学生たちが、自主的にトイレにプールの水を運ぶなど、知恵と力を発揮している姿は希望の光。支援の輪も広がっています。その輪に私もと・・・・・・・。
晴れ。最低気温2.1℃、最高気温14.8℃。
久しぶりに朝から晴れの日となりました。庭の餌台には主にスズメ、ヒヨドリがやってきます。鳥たちの様子を見ていると、おおむね朝食、昼食、夕食の時間帯にやってくるようです。そして、お腹が満たされれば飛び去ります。そこにある餌をすべて食べ尽くすわけではないようで・・・。
案外つつましやかなのです、この鳥たちは。
それでは、改めて本日の食客をご紹介します。
曇り時々雨時々晴れ。最低気温2.0℃、最高気温7.8℃。
今日は桂コースを歩きました。大沢園池のミズバショウ群落が点描からその姿をしっかり現してきました。日ごとに輪郭がしっかりしてくるミズバショウです。
これからの美しい時を経て、やがて大きな葉のみになっても、ミズバショウは永遠にミズバショウです。
ところで、『新宮澤賢治語彙辞典』でミズバショウを引いてみると、「牛の舌」(ベゴのした)の箇所を矢印で示していました。以下、全文を引用しました。
「牛の舌」【植】【方】水芭蕉の東北地方での方言別名。水芭蕉はサトイモ科の多年草。山地の湿原に生える。春、白い花を咲かせるが、花の形を牛の舌に見立てた名。べごは牛の方言。童〔タネリはたしかにいちにち嚙んでゐたやうだった〕に「そのあちこちには青じろい水ばせう、牛の舌の花がぼんやりならんで咲いてゐました」とある。
「べごのした」とは見た目をうまくとらえて名付けたものです。賢治さんはこうした魅力的で味のある方言を用いて、独自の世界を創り出すのに成功しているなと思います。
曇り時々雨。最低気温5.1℃、最高気温10.2℃。
『ぼくたちに翼があったころ』ーコルチャック先生と107人のこどもたち
《タミ・シェム=トヴ作、樋口範子訳、岡本よしろう画 2015年9月20日初版発行、福音館書店》
この物語は、今から約80年前、1934年から39年までのポーランドが舞台です。
ワルシャワの街の一角に建つ〈孤児たちの家〉には、7歳から14歳までの男女合わせて107人の子どもたちが、コルチャック先生の願う教育理念のもとで暮らしていました。
主人公ヤネクは、走るのが早く、これが彼の自慢でした。その脚を使って、盗みを数回繰り返していたある日、ただ一人の身内の姉に手放され「かけこみ所」と呼ばれる孤児院に入ります。が、そこで、自慢の脚を指導員と上級生にはめられる形で集中的に痛めつけられ、失神してしまうのです。彼はこれが元でその後、片足を引きずるようにしてしか歩けなくなってしまいました。姉にも貧困などのどうしようもない理由があるのですが・・・。
その姉が再び見つけてきたのは〈孤児たちの家〉という養護施設で、ヤヌクが入所できたのは欠員が一人できたためだったようです。ここでの生活は清潔で食事も豊かでした。また、子どもたちの自治をはじめ、それまでの施設では考えられないような実践がいくつも行われていて、その一つに子どもの法廷という場がありました。法廷といっても、訴えを申し出た者や周りの者たちが〈ゆるす〉こと、また、訴えられた者は〈謝罪〉して二度とあやまちを犯さないことこそがねらいであり、まちがいを犯したものを裁いて罰することが重要ではなかったのです。
ヤネクは姉に手放されて以来、姉への思慕と恨みとの間を揺れ動きつつ、この環境になじんでいくのですが、せっかく培った親友との友情がくずれたり、図らずも再び盗みをしたり、そのたびに深く悩み傷つくのでした。
しかし、ドクトルと呼ばれるコルチャック先生が、ヤネクの才能、記者魂のような性質を見抜き、その都度手を差し伸べます。一方で、仲間の支えも受けつつ、自信を取り戻し、自分の居場所を見つけて立ち直っていくのです。
ドクトルは、その独特の間をもった最小限の語り掛けでヤノクをはじめとする子どもたちが自分のあやまちに気付くように導いていくのです。養護施設に入所する子どもたちは多かれ少なかれ心に傷を負っています。その子どもたちが立ち直りたいと願っても、簡単にはいかないことが多いことでしょう。それでも、願いをあきらめずに試練を超えていく過程を、ドクトルは子どもの心を尊重しつつ、寛大なまなざしで見守り続けていたのです。
*** この物語は、1939年5月で終わります。そして、この4か月後、ドイツがポーランドに進行して、第二次大戦が勃発し、さらに1940年11月、コルチャック先生と子どもたちは、ワルシャワゲットーという、外部から遮断された狭い居住区に強制移住させられることになるのです。
厳しい寒さと飢餓、伝染病の蔓延、テロ、ユダヤ人同士の密告が横行する絶望的な環境の中でも、〈家〉では学習会、音楽会、演劇上演などの文化活動が行われたそうです。
1942年8月、移送命令が下り、コルチャック先生とステファ先生、指導員を含むスタッフは、ゲットーに移住してから200名にふえた子どもたちとともに、移送されることになりました。子どもたちにはピクニックに行くと伝え、ゲットーからワルシャワ・ダンツィヒ駅までの2.5キロを、緑の旗を先頭に4列で行進したそうです。
そこから、家畜用貨車に乗り込む直前、「あなただけは乗らなくていい」と、ドイツ警察を介した釈放許可証が届けられたのですが、コルチャック先生はその申し出を断り、子どもたちとともにトレブリンカ強制収容所へ送られたのでした。
コルチャック先生が、孤児の救済に立ち上がるきっかけの一つとなったのは、日露戦争の際、26歳でロシアに医師として派遣された中国の東北部(満州)で、またその後の第一次大戦の際、ウクライナ・キエフで目にした、貧困と飢餓に苦しむ戦災孤児の姿だったと言われています。
重いテーマなのにも拘わらず、一人の少年が希望を失わずに立ち直り、自分の能力を開花させていく過程が明るいのが救いであり、謎でした。
それは、物語の屋台骨である、崇高な精神の持ち主であるコルチャック先生がどんな時も希望を失わずにいられる稀有な方だったからなのかと思うのです。
また、作者が意図したように、コルチャック先生の理念の下に繰り広げられた〈孤児たちの家〉での輝かしい日々がリアルに描き出されていたからなのでしょう。
*** 以上、作者と訳者の「あとがき」を参考にさせていただきました。
雨時々曇り。最低気温4.9℃、最高気温11.5℃。
少し前になりますが、散歩の途中に見かけた鳥です。木をつついているかと思えば、下に降りて動き回ってもいたのです。
5枚ほど写真に撮ったのを、今日になって引き伸ばしてみると、私には分からない鳥でした。
新幹線の車体のような流線型の頭部と精悍な顔つきをしています。一体、あなたは誰でしょう?
晴れ時々曇り。最低気温1.3℃、最高気温11.6℃。
先日の松永俊之氏による「人生七転び八起き」のお話を伺って、なるほどと思ったことがたくさんありました。
今日はその中のいくつかを、自分に引きよせるために、ここに記しておこうと思います。
今、日本の人口は約1億2千5百万人で、65歳以上は3千万人以上。その中の5.5人に一人が認知症とのことです。
自分がなりたくてなるわけではないのが病なのですが、認知症の悲しさの一つは自覚できないまま少しずつ記憶や行動に支障が出てくることなのではないでしょうか。
年を重ねても元気な高齢者の方を見ていると、自分もそうでありたいと願いたくなります。
そのコツのようなものを数パターン教えていただきました。
〈その1〉
一読・読むこと。例えば新聞のコラムなどを。
十笑・笑うこと。そうすることで会話が生まれることも含めて。
百吸・百回呼吸するという意味で、脈拍を整える。運動をすることだそう。
千字・文字を書く・物を書く
万歩・一日に1万歩歩くこと。今は6000歩でも可と。
〈その2〉
カ・感動すること。
キ・興味を示す。
ク・工夫をする。
ケ・健康を気遣う。
コ・好奇心を忘れない。恋心を忘れない。
〈その3〉
1・手帳を持つこと。
2・名刺を持つこと。肩書は何でもよいとか。手作りでとも。
3・腹六分目。
4・歩くこと。
そして、〈その4〉は二代目市川左団次さんの「今できないことは十年たってもできまい。思いついたことはすぐやろうじゃないか(むずかしい演技を実行にうつすときに) 」という言葉です。とても印象に残りました。
二代目市川左団次さんは明治13年に生まれ、昭和15年に亡くなっています。歌舞伎役者として活動するだけではなく、小山内薫と自由演劇を創立したり、ソ連で史上初の歌舞伎海外公演をしたりと破格な方だったようです。
以上、書いてきましたが、これも普通の生活ができることが前提となることかと思っています。
九州では今日も地震が頻発し、被害が拡大しているようです。被災地の皆様に一日も早く心休まる時がもどることを願っております。