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菊池寛『恩讐の彼方に』(新潮文庫)

2018-02-06 | 書評「き」の国内著者
菊池寛『恩讐の彼方に』(新潮文庫)

元禄期の名優坂田藤十郎の偽りの恋を描いた『藤十郎の恋』、耶馬渓にまつわる伝説を素材に、仇討ちをその非人間性のゆえに否定した『恩讐の彼方に』、ほか『忠直卿行状記』『入れ札』『俊寛』など、初期の作品中、歴史物の佳作10編を収める。著者は創作によって封建性の打破に努めたが、博覧多読の収穫である題材の広さと異色あるテーマはその作風の大きな特色をなしている。(「BOOK」データベースより)

◎罪を背負って

 菊地寛『藤十郎の恋/恩讐の彼方に』(新潮文庫)には、ほかに「入れ札」「俊寛」など10短篇が所収されています。そのなかで私のいちばんのお気に入り、「恩讐の彼方に」をとりあげることにしました。

市九郎は旗本家の奉公人です。主君・中川三郎兵衛の愛妾・お弓との姦通が露見してしまいます。市九郎は成敗しようとする主人を、逆に切り殺します。市九郎はお弓を連れて、江戸からの脱出をはかります。
 
 2人は悪行をくり返しながら、やがて木曾の鳥居峠で茶店をかまえます。表向きはまともな客商売をし、裏では強盗をはたらきます。市九郎は主君殺しの罪に、たえず良心の呵責をおぼえています。

――けんぺき茶の女中上りの、莫連者お弓は、市九郎が少しでも沈んだ様子を見せると、「どうせ凶状持ちになったからには、いくらくよくよしても仕様がないじゃないか。度胸を据えて世の中を面白く暮らすのが上分別さ」と、市九郎の心に、明け暮れ悪の拍車をかけた。(本文より)

 隠遁生活から3年目のある日、若夫婦が茶店に立ち寄りました。市九郎は間道で待ち伏せ、2人を切り捨てて金品を巻き上げます。ところが茶屋に戻った市九郎を、お弓は口汚くののしります。市九郎がかんざしを奪い忘れて、戻ったからでした。お弓は自ら、2人の亡骸のある場所へと向かいます。
 
 あさましいその行状に嫌気がさして、市九郎はお弓を捨てて出家しようときめます。市九郎は仏道に帰依し、了海と名乗ります。厳しい修行を続け、やがて市九郎(了海)は立派な僧侶となります。
 
 旅人や病人に手を差し伸べ、川に橋をかけ、悪路を修復し、市九郎は罪を悔いながら、ひたすら諸国行脚の旅をつづけます。豊前の国に入った市九郎は、旅人を苦しめる巨大な岸壁に遭遇します。ここでは年に10人ほどの旅人が、命を落としています。岸壁をくりぬいてトンネルを掘る。それがあたえられた贖罪である。市九郎は、巨大な岩壁に立ち向かいます。
 
◎作品のベースは実話

ものがたりは前記のとおりです。あえて後段は、紹介しないでおきました。この作品には、モデルがあります。実話をもとにした作品なのです。大分県の「青の洞門」といえば、知らない人はいないでしょう。

 以下は大分県中津市のホームページに紹介されている、「青の洞門」に関する記事です。

(引用はじめ) 
「大正8年に発表された菊池寛の短編小説「恩讐の彼方に」で一躍有名になった、禅海和尚が掘った洞門(トンネル)で、耶馬渓を代表する名勝である競秀峰の裾野に穿たれている。」
(中略)
「諸国巡礼の旅の途中に耶馬渓へ立ち寄った禅海和尚は、極めて危険な難所であった鎖渡で人馬が命を落とすのを見て、慈悲心から享保20年(1735)に洞門開削の大誓願を興したと伝えられている。」
(引用おわり)

 菊池寛作品の特徴は、戯曲でつちかった構成の妙だと思います。そこに著者自身の人生観が重なり、短編作家として高い評価を受けました。菊池寛の小説でのデビュー作『無名作家の日記』(岩波文庫)は、本人はもちろん芥川龍之介、久米正雄、上田敏がモデルとして登場します。
 
 当時の「同人誌」事情に興味があれば、ぜひ読んでもらいたいと思います。菊池寛は「文芸春秋」創刊や、芥川賞・直木賞の創設で有名ですが、作品にも当時の作家たちとは異なる味わいがあります。
 
 芥川賞・直木賞について、おもしろい記述があるので紹介させていただきます。
――菊池(寛)は素直に「亡友を記念すると云うよりも、芥川、直木を失った本誌(文芸春秋)の賑やかしに、亡友の名前を使おうというのだ」と書いている。(『芥川賞事典』所収の小田切進「芥川賞の半世紀」より引用)

 菊池寛は戯曲からの転換、事業への手腕など、柔軟な思考の持ち主でした。
(山本藤光:2009.07.29初稿、2018.02.06改稿)

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