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石川啄木『一握の砂』(新潮文庫)

2018-02-21 | 書評「い」の国内著者
石川啄木『一握の砂』(新潮文庫)

啄木の処女歌集であり「我を愛する歌」で始まる『一握の砂』は、甘い抒情にのった自己哀惜の歌を多く含み、第二歌集の『悲しき玩具』は、切迫した生活感情を、虚無的な暗さを伴って吐露したものを多く含む。貧困と孤独にあえぎながらも、文学への情熱を失わず、歌壇に新風を吹きこんだ啄木の代表作を、彼の最もよき理解者であり、同郷の友でもある金田一氏の編集によって収める。(内容紹介より)

◎天才・石川啄木の足跡

世界規模で石川啄木をとらえた、ユニークな論文から紹介をはじめます。同時代の作家を見比べたもので、私は強く心を打たれました。

――たしかにゲーテに照応しうる詩人、バイロンに比定できる詩人は日本にはいない。だが、啄木に相当する詩人、牧水、晶子にあたる詩人もまた西洋には見当たらず、冷静な目で世界の文芸と明治の文芸を読み比べれば、優劣を論ずることが虚しくなるほど、双方の秀れた詩人たちの達成は独立した価値をもっている。(草壁焔太『石川啄木・「天才」の自己形成』講談社現代新書P9)

石川啄木の歌は、とにかくわかりやすいのが特徴です。考えこむ必要はなく、スラスラと先へ先へと読むことができます。啄木は日常の一場面を、照射してみせる天才です。心のなかの悲しみを、すくい上げる天才です。もうひとつだけ、石川啄木のことに触れた文章を引かせていただきます。

――現状への憤怒と語るに値しない自己の真実とを語る結果とはなった。現実の壁に閉ざされた卑小なる自己と、かかる現実を基盤に生ずる短歌とへの見下しが、自尊心の壁をやぶって赤裸の自己告白となったのです。(註:引用文中「語るに値しない自己」には傍点がついています)(明快案内シリーズ『明治の名著2』自由国民社P189-190)

後段の都合もあり、少しだけ石川啄木の足跡をたどってみたいと思います。

1886(明治19)年:岩手県で生まれる。生後すぐに一家は、北岩手郡渋民村に移る。
1899(明治32)年、13歳:岩手県盛岡尋常中学校時代に、盛岡女学校の堀合節子と初恋。翌年から「明星」を愛読。
1902(明治35)年、16歳:中学校を退学。上京。短歌をはじめる。与謝野鉄幹・晶子を訪問。
1904(明治37)年、18歳:堀合節子と婚約。「明星」に詩歌を発表。
1905(明治38)年、19歳:処女詩集「あこがれ」刊行。堀合節子と結婚。
1906(明治39)年、20歳:渋民村に戻る。渋民尋常高等小学校の代用教員となる。
1907(明治40)年、21歳:函館に到着。函館商業会議所の臨時雇いとなる。函館へ妻子、老母らを迎える。生活困窮。札幌から小樽へと転々。
1908(明治41)年、22歳:1月釧路新聞社へ入社。4月函館へ。5月家族を函館に残し上京。翌年本郷に家族を迎える。
1910(明治43)年、24歳:『一握の砂』刊行
1912(明治45)年、26歳:死去。死去後に『悲しき玩具』刊行。

◎石川啄木の歌碑

本稿を執筆するにあたり、石川啄木関連の資料を書棚から選び出しました。驚きました。石川啄木関連18冊と、『一握の砂』の資料が10冊ありました。1か月を要して、机の上に積まれた山を読破しました。漂白の歌人・石川啄木に迫ってみたいと思います。

前記のとおり、石川啄木は1886(明治19)年に生まれ、26歳の若さでその生涯を閉じています。1908(明治41)年、22歳のときに4カ月ほど釧路で生活をしています。釧路にはおびただしい数の、石川啄木の歌碑があります。「啄木歌碑マップ」(釧路市観光振興室・制作)を見ながら、25の歌碑をめぐることができます。釧路駅から幣舞橋を越えて右に曲がると、すぐのところに啄木像があります。そこでは第1番の歌碑がむかえてくれます。

――浪淘沙ながくも声をふるはせてうたふがごとき旅なりしかな

大好きな歌は第9番で見つけました。啄木ゆめ公園のなかにありました。私は釧路の共栄小学校へ入学しています。そのときには、この歌をそらんじることができました。

――さいはての駅に下り立ち雪あかりさびしき町にあゆみ入りにき

そしてもうひとつの有名な歌碑には、12か所目でめぐりあえました。米町ふるさと館のそばにありました。

――しらしらと氷かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな

この歌も小学校の授業で、暗唱させられました。意味はわからないまま、いまでも釧路へ行くたびに口をついて出ます。釧路へは同窓会で、何度も行っています。

◎函館と石川啄木

函館に「石川啄木記念館」がオープンしたのは、1999年です。函館は啄木がもっとも愛した町、として知られています。有名な観光地・立待岬に石川啄木一族の墓所があります。そこには石川啄木の処女歌集『一握の砂』のなかの、有名な歌が刻まれています。

――東海の小島の磯の白砂にわれ泣なきぬれて蟹とたはむる

この歌の深い読み方を、示唆している文章があります。紹介させていただきます。

――日本を「東海の小島」に見立て、「磯」には峻厳なたゆみない人間活動を、「白砂」には苛酷な生存競争の坩堝(るつぼ)である都会生活の場を暗示し、「われ泣きぬれて」に峻厳苛酷な人生の活機に直面して、現実の苦痛に泣かねばならぬこと多い己の引き裂かれた心情を示し、「蟹」には玩具としての短歌を、「たわむる」に短歌の虐使によって瞬時の快を覚える心情を表現している。(明快案内シリーズ『明治の名著2』自由国民社P191)

明治40年、21歳の石川啄木は、
――石をもて追はるるごとくふるさとを出しかなしみ消ゆる時なし
の心境で函館にやってきます。しかし生活は困窮し、商業会議所の臨時雇いになったり、小学校の代用教員をしたりします。そして函館青柳町に妻子、老母、妹みつこを迎えます。そのときの心境を読んだ歌は函館公園のなかにあります。

――函館の青柳町こそかなしけれ友の恋歌矢ぐるまの花

函館については、木原直彦『文学散歩・名作の中の北海道』(北海道新聞社)を参考にさせていただきました。また函館「啄木浪漫館」では、次の歌碑が待っていてくれます。

――砂山の砂に腹這い初恋のいたみを遠くおもひ出づる日

私は釧路を歩きぬきましたが、函館は友人の車で案内してもらいました。浜風のなかに生臭い匂いがあり、いくつもの歌が浮かび上がってきました。

北海道で石川啄木が詠ったのは、いずれも即興歌ではありません。その点にふれた文章を紹介させていただきます。

――啄木研究家、岩城之徳氏のよると、すべての歌が東京時代の作品であるということであって、そのことは、この歌集を味わううえに極めて重要な示唆をふくんでいる。「煙」の中の故郷を詠んだ歌や、「忘れがたき人人」の北海道のことを詠んだ歌も、すべてが思い出を歌ったものであることがあきらかだったからである。(佐古純一郎『青春の必読書』旺文社新書P129)

◎その他の啄木の歌碑

そのほか、私の好きな歌をならべてみたいと思います。カッコ歌碑の所在地です。

――たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず(岩手県八幡平市平舘・平舘駅前に歌碑)

――はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る
――ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく(東京都台東区上野・JR新幹線上野駅コンコースに歌碑)

――ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな(岩手県盛岡市本宮・盛岡先人記念館に歌碑)

ドナルド・キーンは著作のなかで、何度も石川啄木に言及しています。私はほとんどを『ドナルド・キーン著作集』で読みました。ドナルド・キーンは啄木を早熟な文学者である、と書いています。啄木に『ローマ字日記』という著作があります。キーンは自著『日本語の美』(中公文庫)のなかで、長文の論評を書いています。おもしろい記述がありますので、紹介させていただきます。

――啄木の思想には一貫性がありません。子供っぽいとしかいえないような発言が多数あります。責任を負うことを嫌ったので家族をなかなか東京へ呼ぶことができなかった。そればかりでなく、しきりに結婚という制度そのものを攻撃していました。愛情に束縛されたくなかったと思っていました。自分を愛する人を裏切りたくなりました。何という複雑な人物、何という現代的な人物なのでしょう。(ドナルド・キーン『日本語の美』中公文庫P130

石川啄木は、「悲しい」歌を数多く残しました。そんな啄木との出会いを、13歳のころを振り返って、萩原葉子は次のように書いています。

――私はもう夢中になっていた。啄木の詩の世界に、飢えた心の私は救われたのであった。こんなに悲しい心の中をじっと抱いている人が、いたのか? とまるで親友にでも出会ったような救いを覚えたのだった。(萩原葉子、扇屋正造編『一冊の本』PHP文庫P128)

萩原葉子と同様に、畑山博も青春の1冊のなかで『一握の砂』をあげています。畑山博は宮沢賢治やサン・テグジュベリに傾倒している作家です。その畑山博は、宮沢賢治と比べて、石川啄木について次のように書いています。

――啄木もまた、何かを守るために生涯をかけて闘った文学者の一人だった。でもその守るものが希望ではなく、過ぎた時間への郷愁だった。(畑山博、文藝春秋編『青春の一冊』文春文庫プラスP97-98)

悲しいことがあったとき、そっと開いてみたい歌集。それが『一握の砂』であり、『悲しい玩具』なのです。
(山本藤光:2012.04.14初稿、2018.02.21改稿)

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