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山本藤光の文庫で読む500+α

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九鬼周造『「いき」の構造』(岩波文庫)

2018-02-15 | 書評「く・け」の国内著者
九鬼周造『「いき」の構造』(岩波文庫)

日本民族に独自の美意識をあらわす語「いき(粋)」とは何か.「運命によって〈諦め〉を得た〈媚態〉が〈意気地〉の自由に生きるのが〈いき〉である」――九鬼は「いき」の現象をその構造と表現から明快に把えてみせたあと,こう結論する.再評価の気運高い表題作に加え『風流に関する一考察』『情緒の系図』を併収. (解説 多田道太郎)

◎のほほんのほん訳「いきの構造」

気位の高い相手だとは、知っていました。哲学者って、独善的で、上から目線で、堅物で、へそまがりで、相手が戸惑うのを薄笑いして楽しむ人種だと思っていました。そもそも「哲学」って、タマネギみたいなもので、べつにそれを食べなかったとしても、別に健康上の害はないのだから、と思っていた時期がありました。

私は中大文学部の国文学科を専攻しています。北大へはいりたかったのですが、健康上の問題で断念してしまいました。受験勉強は、英数国まではやっていました。これらの科目だけで受験できる私大学の文学部を調べてみると、中大しかありませんでした。

授業は日本の古典文学ばかりで、退屈きわまりないものでした。ペンクラブという創作集団に参加し、小説を書くかたわら、安部公房(推薦作『砂の女』新潮文庫)の研究をはじめました。

安部公房が影響を受けたカフカ(推薦作『変身』光文社古典新訳文庫)まで研究の範囲が広がり、やがてリルケやサルトル(推薦作『嘔吐』人文書院)やハイデッガーにまで、首を突っこまざるをえなくなりました。日本の作家なら、三木清(推薦作『人生論ノート』新潮文庫)、和辻哲郎(推薦作『古寺巡礼』岩波文庫)、九鬼周造などは「常識」として、読んでおかなければならない雰囲気がありました。

いちばん薄いという理由で、九鬼周造に突撃してみました。『「いき」の構造』(岩波文庫)は、意外に包容力があり、やさしく品格のある相手でした。ただし言葉が難解で、へきへきとさせられました。しかたがないので、1冊の大学ノートを買い求め、自分流(私は「のほほんのほん」流とノートに書きました)の訳書をつくることにしたわけです。そのノートはとうに手元にないので、ひさしぶりに「のほほんのほん訳」をやってみることにします。

まずは原文を書き写しておきます。これが理解できるのなら、「のほほんのほん訳」は読みとばしてください。

【原文】
「いき」という現象はいかなる構造をもっているか。まず我々は、いかなる方法によって「いき」の構造を闡明(せんめい)し、「いき」の存在を把握することができるであろうか。「いき」が一の意味を構成していることはいうまでもない。また「いき」が言語として成立していることも事実である。しからば「いき」という語は各国語のうちに見出されるという普遍性を備えたものであろうか。我々はまずそれを調べてみなければならない。そうして、もし「いき」という語がわが国語にのみ存するものであるとしたならば、「いき」は特殊の民族性をもった意味であることになる。しからば特殊な民族性をもった意味、すなわち特殊の文化存在はいかなる方法論的態度をもって取扱われるべきものであろうか。「いき」の構造を明らかにする前に我々はこれらの先決問題に答えなければならない。(1・序説の冒頭より) 

【のほほんのほん訳】
一般的に「いきなやつ」などと、何気なく用いることがあります。「いき」といわれているのは、どんな意味なのでしょうか。

わたしたちは「いき」という言葉が、日常のなかで用いられている現実を、どのような方法で見出すことができるのでしょうか。何気なくつかっている「いき」は、特定の意味をもっていることは疑いのないことです。

「いき」という言葉が、日本以外で通用するのか、あるいはもちいられているのか、調べてみなければなりません。その結果「いき」という言葉が日本でだけ通用するものであったなら、それは日本民族のみしか理解できない特殊性をもっていることになります。

つまり「いき」は、日本文化の特殊性から生まれた可能性があるということです。「いきの構造」を明らかにする前に、日本文化の特殊性に焦点をあててみなければなりません。(1.序説の冒頭)

いかがでしょうか。私は難解といわれる哲学書は、すべてこのような「のほほんのほん訳」で対処しています。

九鬼周造のいう「いき」は、イコール「粋」なのですから、あまり深くおつきあいする必要はないな、との前提で読んでいただきたいと思います。たよりになる助っ人をひいてみます。

――いき(粋):(着ている物のかっこうやしぐさが)気がきいて見える様子。副次的には、遊びなれていることや花柳界の事情に通じていることも表わす。いきな身なり。いきな計らい。さりげないやり方の中に、思いやりの感じられる処置。反対語は「やぼ」(三省堂『新明解国語辞典』より)

オリンピック招致で一躍有名になった、滝川クリステルさんの「おもてなし」も日本特有のものです。私たちは特別なはからいをされると、「いきなおもてなしだね」などとつかっています。

◎「いき」を徹底的につきつめると

「いき」(粋)という言葉は、最近あまり耳にすることがありません。かといって、死語になったわけでもありません。現に小林信彦『現代死語ノートⅠ、Ⅱ』(岩波新書。推薦作)には、登場していません。「いき」にかぎらず、私たちは何気なくつかっている言葉は、数多くあります。九鬼周造はそうしたつかいかたを、許せないのです。きちんと理解して用いるべきだといっているのです。

最近では、クラフト・エヴィング商会『ないもの、あります』(ちくま文庫)という本があります。「よく耳にするけれども、いちどもその現物を見たことがない」ものを、あつかったユニークな本です。たとえば「転ばぬ先の杖」の「杖」とか、「堪忍袋の緒」の「緒」とか、「思う壺」の「壺」などをお届けしますというノリで、思わず笑ってしまう1冊です。クラフト・エヴィング商会は、小説家の吉田篤弘(ちくま文庫)が妻である吉田浩美とともに運営しています。

九鬼周造『「いき」の構造』には、そうした遊び心はありません。さすがにクラフト・エヴィング商会でも「遊び心」の「心」はとりあつかっていません。また明治の哲学者が主張している「いき」も、店頭にはならんでいません。もしもあつかっていたら、ごめんなさい。

九鬼周造の主張は、クラフト・エヴィング商会に近いものです。
私たちはどんな場面に、「いき」(粋)を感じるのでしょうか。少しだけ考えてみてもらいたいと思います。もうひとつ「いき」の反対語を、思い浮かべてほしいものです。「いきな人」と「やぼな人」との境を明確にいうことができますか? また反対語として「無粋(ぶすい)」という表現もあります。関西では「粋」を「スイ」といいます。そこから生まれたのが、粋(すい)がない「無粋」だと思います。
 
九鬼周造の父は、明治を代表する文部官僚で男爵の九鬼隆一です。母は周造妊娠中に岡倉天心と恋におち、夫と別居したのちに離婚しています。九鬼周造の両親は、なんともすごい人だったのです。
 
ヨーロッパで哲学を学び、京都帝国大学哲学科教授となった九鬼周造は、学生にデカルトやベルグソンなどを教えています。彼が日本の美や文化にひかれたのは、両親やヨーロッパ滞在の影響が根深いといわれています。

やがて九鬼周造は、日本でハイデッガーの哲学を受容した三羽烏といわれるようになりました。あとの2人は、三木清と和辻哲郎です。
 
文庫解説の多田道太郎は、ハイデッカーが自著『ことばについての対話』のなかで、九鬼周造への賛辞をおくっていると書いています。岡倉天心、三木清、和辻哲郎、西田幾太郎とならんで、ハイデッカーまで飛び出すのですから、九鬼周造のまわりにはすごいメンバーがいたことになります。さらに多田道太郎は、サルトルが九鬼周造の家庭教師だったとまで書いています。

『「いき」の構造』のなかで「いきな女性」について、私が首肯できた部分をぬきだしてみます。
 
――全身に関して「いき」の表現とみられるのは〈うすものを身に纏う〉ことである。

――「いき」な姿としては〈湯上り姿〉もある。裸体を回想して近接の過去にもち、あっさりとした浴衣を無造作に着ているところに、媚態とその形相因とが表現を完(まっと)うしている。

――〈素足〉もまた「いき」の表現となる場合がある。

少しだけ識者の応援演説をあおぎます。

――本書は、定義が難しい「いき」という概念を、哲学の立場から追求し、クリアにしようと試みます。そして、その過程はスリリングなほど見事です。「いき」とは何かが明らかになるにつれ、日本人とはこうした美意識を持つ民族なのだと誇らしく思えるようになっていきます。(齋藤孝『読書入門・人間の器を大きくする名著』新潮文庫)

――江戸時代に定着した美意識の解析を試みた本書は、表題どおり、構造主義的な発想の先駆的日本版といえるか。わけても、「さび」「雅」「味」「乙」といった美意識を、直六面体の各頂点に配分された対立要素間(〈意地/野暮〉〈地味/派手〉〈上品/下品〉等)の各種結合体として説くくだりなどは、模範的な分析に類する。(この章は渡部直己・著。柄谷行人ほか『必読書150』太田出版)

――「いき」とは、つまり垢抜けして、〈諦め〉、張のある〈意気〉、色っぽさ〈媚態〉、ということになるが、九鬼が日本人の美的精神としての「いき」を、媚び〈色情〉+意気〈武士道精神〉+諦め〈仏教思想〉でとらえていることは、注目すべきであろう。(桑原武夫『日本の名著』中公新書)

最後に九鬼周造の「いき」の定義を書いておきます。私はかえって混乱してしまいましたが。

――運命によって,〈諦め〉を得た〈媚態〉が〈意気地〉の自由に生きるのが〈いき〉である。 

(山本藤光:2009.12.09初稿、2018.02.15改稿)

倉田百三『出家とその弟子』(新潮文庫)

2018-02-10 | 書評「く・け」の国内著者
倉田百三『出家とその弟子』(新潮文庫)

恋愛と性欲、それらと宗教との相克の問題についての親鸞とその息子善鸞、弟子の唯円の葛藤を軸に、親鸞の法語集『歎異抄』の教えを戯曲化した宗教文学の名作。本書には、青年がどうしても通らなければならない青春の一時期におけるあるゆる問題が、渾然としたまま率直に示されており、発表後一世紀近くを経た今日でも、その衝撃力は失われず、読む者に熱烈な感動を与え続けている。(「BOOK」データベースより)

◎『歎異抄』の教えを戯曲に

 1910(明治43)年に一高へ入学した倉田百三は、西田幾太郎の門を叩きました。西田幾太郎(『善の研究』岩波文庫、講談社学術文庫)と阿部次郎(『三太郎日記』角川文庫、角川選書)の著作は、当時の学生の必読書になっていました。
 
 倉田百三は21歳のとき肺結核になり、40余歳まで病床に伏しています。執筆はその間にもつづけられました。戯曲『出家とその弟子』は、26歳のときに発表されたものです。まさに病床のなかから生まれた作品なのです。
 
 作品は『歎異抄』(親鸞の法語集、岩波文庫)をベースに、戯曲として描かれています。『歎異抄』は親鸞の死後、直弟子の唯円(ゆいえん)によって書かれたとされています。近年の出版物は、『歎異抄』と表記されている例が多いのですが、初出は「鈔」の字をあてていました。

 倉田百三は、キリスト教、浄土真宗、神道にも造詣が深かったようです。『出家とその弟子』は、鎌倉・浄土真宗を創始した親鸞と弟子の唯円を中心に描かれていますが、キリスト教的な要素も認められます。この作品は、大ベストセラーになりました。
 
 倉田百三は病床にあって、自分の煩悩に悩ませられました。生命、恋愛、肉欲……。本書はこの3つの単語に集約できます。健康な若者では描ききれない、自己の内面の吐露。これが読者から受け入れられたのでしょう。
 
 私は「序曲」で強烈な一撃をくらいました。第一幕がはじまる以前に、「人間」と「顔蔽(おお)いせる者」とのやりとりがあります。まるで禅問答なのですが、「顔蔽いせる者」の存在に気になります。ちょっと紹介してみます。

(引用はじめ)
顔蔽いせる者(あらわる)「お前は何ものじゃ。」
人間「私は人間でございます。」
顔蔽いせる者「では『死ぬもの』じゃな。」
人間「私は生きています。私の知っているのはこれきりです。」
顔蔽いせる者「お前はまたごまかしたな。」
(引用おわり)

◎猛吹雪のなかの親鸞と左衛門

『出家とその弟子』ではくりかえし、「人間を生かしむる根本は祈り」であることが語られています。この作品は海外にも翻訳され、フランスのロマン・ロラン(推薦作『ジャン・クリストフ』全4巻、岩波文庫)が絶賛の手紙を送ったほどの評価をしています。

『出家とその弟子』の第1幕は、田舎屋敷が舞台です。主の日野左衛門は常陸の国に田を買って、小作人を雇っています。屋敷には妻のお兼と息子・松若が住んでいます。左衛門は、農民から借金をしぼりとっていることに、心を痛めています。戸外は猛吹雪がつづいていました。

 托鉢行脚中の3人の僧侶が、左衛門の家へやってきて一夜の宿を願いでます。左衛門はそれを断りました。訪ねてきたのは、親鸞と弟子の慈円、良寛でした。押し問答のようすを、すこしだけ引用してみたいと思います。

(引用はじめ)
左衛門(親鸞に)「早く出て行け。この乞食坊主奴。」(親鸞を押す)
慈円「あまりと云えば失礼な――」
良寛「お師匠さまに手を掛けたな。」
左衛門「早く出て行け。」(良寛をこづく)
良寛「なにを」(杖を握る)
左衛門「打つ気か。」(親鸞の杖を取って振りあげる)
親鸞「良寛。手荒な事はなりませぬぞ。」
(親鸞二人の中に割って入る。左衛門親鸞を打つ。杖は笈にあたる)
(引用おわり)

 3人は吹雪の戸外に投げだされます。眠りの床についた左衛門は、恐ろしい夢にうなりつづけました。翌朝、3人の僧侶は雪のなかにいました。左衛門は、自分の悪行に気がつき詫びます。出家を願いでた左衛門に、親鸞は在宅での修行をすすめます。
 
 そして15年後。松若は唯円となって、親鸞に仕えています。ここから先にはふれません。人間としての親鸞、若い僧の唯円の生き方を、あなたに追いかけてもらいたいからです。
 
◎松若の成長過程が知りたい

倉田百三は『歎異抄』の発表後、「白樺派」に接近します。そして作家としての自分の弱さに思い至り、大きく思想の舵をきることになります。罪を作らず人を傷つけない。こうした消極的な生き様を封印し、与えられたものを活かす積極的な生き方を求めはじめるのです。
 
 そのことは『超克』(1924年大正13、角川文庫)から、顕著に読みとることができるようです。多くの評論には、断定形でそう書いてあります。残念ながら、その本は入手できないままです。

『歎異抄』(野間宏・現代語訳『親鸞・歎異抄』河出文庫)は松若こと唯円が、親鸞の死後に書き上げたとされています。『出家とその弟子』は、幼かった松若の成長過程にはふれていません。それゆえ、幕間のものがたりが気になります。宗教小説とあなどっていましたが、本書は「すがるべき何か」があることの価値を、とことん教えてくれました。 
(山本藤光:2009.09.15初稿、2018.02.10改稿)


黒井千次『時間 』(講談社文芸文庫)

2018-02-10 | 書評「く・け」の国内著者
黒井千次『時間 』(講談社文芸文庫)

或る日突然変貌し、異常なまでに猛烈に働き出す男(「聖産業週間」)。会社を欠勤し自宅の庭の地中深く穴を掘り始める男(「穴と空」)。企業の枠を越え、生甲斐を見出そうとする男(「時間」)。高度成長時代に抗して、労働とは何かを問い失われてゆく〈生〉の手応を切実に希求する第一創作集。著者の校訂を経て「花を我等に」「赤い樹木」を加えた新版・六篇。芸術選奨新人賞受賞。(「BOOK」データベースより)

◎磯田光一と秋山駿が解説

 黒井千次は東大経済学部を卒業し、富士重工に勤めました。それから15年間、サラリーマンのかたわら小説を書いていました。黒井千次の筆名は29歳のときに結婚した、黒川千鶴さんから拝借したものです。

 初期作品はどれもが、企業を描いたものです。私はそれらを単行本『時間』(河出書房新社1969年)と『走る家族』(河出書房新社1971年)で読みました。当時は、東大卒のインテリで、大会社のサラリーマンで、彼女の名前をペンネームにした作家の卵くらいの印象しかありませんでした。

私が社会人になって間もなく、『新鋭作家叢書』(全18巻、河出書房新社)が刊行されました。古井由吉、丸山健二、大庭みなこ、丸谷才一、李恢成、田久保英夫、小川国男、阿部昭などとならんで、黒井千次の作品集もはいっていました。近所の書店に予約注文しました。『新鋭作家叢書・黒井千次集』は、第3回の配本でした。

「赤い樹木」以外の収載作は、単行本で読んだものばかりでした。「赤い樹木」を読んだあとに、巻末の解説を開きました。なんと磯田光一の名前があったのです。私がもっとも信頼している文芸評論家は、磯田光一でした。磯田光一の解説を読んで、収載作を再読することにしました。

――現在、最も有力な新進作家と目されている黒井千次氏の作品の底にあるのは、端的にいえば〈現に存在しないもの〉への異様に屈折した飢渇の感情である。氏をサラリーマン作家と呼んでみたところで、氏の小説を解く鍵にはほとんどなりえない。現代社会の〈人間疎外〉という常套句さえ、黒井氏にとってはほとんど無縁といってよいのである。(『新鋭作家叢書・黒井千次集』磯田光一の解説より)

磯田光一の指摘する、「〈現に存在しないもの〉への異様に屈折した飢渇の感情」を確認するための再読でした。単に字面だけを追いかけていた読書が、さまがわりしました。黒井千次って奥深い作家なんだな、と認識を新たにしました。それ以来、ずっと黒井千次を読んでいますが、磯田光一の訓戒をうけて再読した『時間』が忘れられません。

紹介させていただく『時間』(講談社文芸文庫)の解説は、秋山駿が担当しています。秋山駿も、信頼している評論家のひとりです。

◎古びたレインコートの男

『時間』は、黒井千次のはじめての単行本です。本書が出版された翌年(1970年)に、彼は退職しています。『時間』(講談社文芸文庫)には表題作をふくめて、6つの短編が所収されています。表題作「時間」についてふれている野間宏の文章を紹介させていただきます。

磯田光一は『新鋭作家叢書・黒井千次集』の解説で、「『時間』は、少なくともその後半の部分については、野間宏氏の『暗い絵』を意識しながら書かれた小説である」と書いています。その野間宏の文章ですので、興味深いものでした。 

――「時間」の中には黒井千次の混沌とよぶべきものが、とじこめられている。黒井千次はこの「時間」の中にある彼自身の混沌をさがし求めて長い時間をかけて、歩みつづけていたといってよいだろう。そして彼はついにそこに到着することが出来たのである。私にはそのことが、すぐに解った。(『新鋭作家叢書・黒井千次集』の月報「黒井千次について」野間宏より)

「時間」は黒井千次にとって到達点であり、新たな出発点ともなった記念碑的作品です。主人公の「彼」は、企業の商品企画部に勤務して十数年になります。「彼」は課長への昇進試験を目前にしています。

「彼」は大学時代寺島ゼミで学び、学生運動にも参加していました。メーデーのときにいっしょに参加した友人の三浦は逮捕され、いまだに裁判で係争中です。「彼」には恋愛中に、いっしょに英語を勉強した妻とこどもがいます。

「時間」は寺島ゼミの、同窓会場面からはじまります。ここには現役の学生をふくめ、「彼」の同期生たちも参加しています。同期生たちは、ともに学生運動を闘った仲間でもあります。彼らは鍋を囲んで、過去を懐かしみ現在を語り合います。鍋は混とんの象徴として、すえられています。

 後輩たちは自分のビジネスに役立てようと、せっせと先輩と名刺交換をしています。若い後輩たちには、引きずるような過去は存在していません。輝かしい未来があるだけです。

そして宴会の最後に、インターナショナルを歌わされることになります。「彼」は鬱屈した思いで、みなにあわせて立ちあがります。

――その時、一人の男が、ふっと部屋から出ていくのを彼は見た。古びた浅黄色のレインコートをつけた痩せた後姿が廊下の明りの中に鋭く浮かび、すぐ襖の陰に見えなくなった。髪から足の先まで、全体に脂気の切れたその男の後ろ姿は、なぜか、一瞬、赤く焼けた鉄を肌に押しつける激しさで彼の中に跡を残していた。(本文P101より)

レインコートの男は、その後もたびたび彼の眼前をとおりすぎます。会社の同僚と談笑しているとき、課長昇進試験の受験資格をあたえられたとき……。

 課長昇進試験を控えた「彼」は、社内調査レポートをまとめます。痛烈な営業部批判となりかねないレポートをみて、上司はグラフの修正を求めます。「彼」はそれを拒否します。課長昇進試験の面接で「彼」は、質問に反抗的な受け答えをします。結果は予想外の合格でしたが、レポートをめぐって営業部からの圧力が強まります。

そんな「彼」のもとに、三浦の最終陳述の裁判日時を告げる手紙がとどきます。三浦の時間は、あのときから15年間止まったままでした。「彼」は三浦とともにメーデーに参加していました。三浦は逮捕され、「彼」は現在を生きています。あのとき、自分が逮捕されていてもおかしくなかった、と「彼」は思います。

 寺島ゼミという鍋のような混沌。学生運動を忘れ去った人群れと引きずりつづける三浦。組織のなかでうごめきまわる思惑。そして彼自身の日常という家庭。それらのものを黒井千次は、「時間」という概念のなかに、みごとな筆さばきで閉じ込めてみせました。そして「古いレインコートの男」が、作品の最後にあらわれるのです。

 磯田光一と秋山駿と野間宏の導きで、私はしっかりと時間をかけて『時間』を読むことができました。感謝。
(山本藤光:2013.06.19初稿、2018.02.10改稿)


黒岩比佐子『音のない記憶・ろうあの写真家・井上孝治』(角川ソフィア文庫)

2018-02-06 | 書評「く・け」の国内著者
黒岩比佐子『音のない記憶・ろうあの写真家・井上孝治』(角川ソフィア文庫)

生きることに希望と誇りをもち続けた日本一のアマチュア写真家、井上孝治。父から聾学校の卒業祝いにカメラを贈られると、一気に才能を開花させ、人、街、生活のスナップショットを撮り続けた。百貨店の広告に起用された写真は、誰もがもつ「あの頃」の記憶を蘇らせ、大反響を呼ぶ。その反響は海を越え、世界で最も伝統のあるアルル国際写真フェスティバルに招待される―。異色のろうあ写真家の生涯を追う。(「BOOK」データベースより)

◎たった1冊、ひっそりと

黒岩比佐子『音のない記憶』(初出1999年文藝春秋、現・角川ソフィア文庫)は書店の新刊本コーナーに、たった一冊だけ背を向けて置かれていました。なにげなく手にとってみました。そしてパラパラとめくってみました。白黒のスナップ写真が、目に飛びこんできました。圧倒されました。
『音のない記憶』は聴覚障害をもつ写真家・井上孝治にスポットをあてた作品でした。黒岩比佐子も井上孝治の名前も、聞いたことがありませんでした。私は黒岩比佐子の文章よりも、掲載されている写真に魅了されたのです。

 海を見ている2組のカップルを、背後から撮った写真には「1956年3月・福岡・西公園展望所」と書かれていました。ふたつのベンチに、カップルは少し距離をおいて坐っています。眼前には白い湾が広がっています。クレーンのそばからは、白い湯気が立ち上がっていました。

 音の存在しない沈黙の写真。船舶の音も、クレーンの音も、湯気が立ち上る音も、ましてや2組のカップルの会話も遮断してしまった写真。私は長いこと、そのスナップ写真に見入りました。そして心底すごいと思いました。
 
――言葉を操って、自分の思いを自由に語ることができない孝治は、そのもどかしさを常に心の中で感じていたに違いない。そんな時、彼は写真を通じて自分の感じたことや伝えたいことを表現できる、ということを発見したのだろう。(本文より)

 黒岩比佐子は、こうも書いています。要約してみます。
――写真は「目」で撮るのだから、「耳」が聞こえなくともハンディキャップはない、と考える人がいるかもしれない。静物写真ならそうかもしれない。しかし一般的には、風の音、会話の音、通りを走る車の音などを、写真のなかに写し取る。井上孝治の写真が衝撃的なのは、すべてが「その一瞬」で停まっているように見えることにある。

 たとえば、ソフトボールに興ずる投手と打者の写真があります。写真は打者の背後から撮られています。2人とも婦人です。投手がボールを放した瞬間に、シャッターが切られています。ピントは投手にあてられています。ボールは、打者と投手の間で「停まって」います。

 著者・黒岩比佐子は、フリーランスのライター。彼女が70歳になる井上孝治と出会ったのは10年前。そのとき井上孝治は、ただの年寄りでした。福岡の老舗の百貨店がキャンペーンのために、1950年半ばころの庶民の生活を撮った、写真を探していました。 

 報道写真は数多く存在していましたが、イメージに合うものは見つかりませんでした。そんなとき偶然にも、百貨店の広告写真を手がけていた井上一が、父親のことを思い出します。そして処分されかけていた、膨大なネガが甦りました。

 キャンペーンで使われた写真は、たちまち評判になりました。写真家・8の誕生です。井上孝治に魅せられた黒岩比佐子は、彼の生涯を実に丹念に描いています。また本文の間に挿入されている、スナップ写真も魅力に富んでいます。
 
 3歳のときに階段から落ちて、聴力を失った井上孝治。写真を唯一の自己表現手段として、挑戦し続けた生涯。私の書棚には、井上孝治の写真集が2冊ならんでいます。『想い出の街』と『こどものいた街』(ともに河出書房新社)です。黒岩比佐子も井上孝治もこの世にはいませんが、私の大切な記憶のなかでは生きています。

◎黒岩比佐子のこと

八重洲ブックセンターで「追悼・黒岩比佐子」のコーナーに遭遇しました。思わず「嘘だろう」と叫んでしまいました。黒岩比佐子とはずっと、メールでのやりとりをしていた間柄です。会社の後輩の友人ということもあり、気安く日常のできごとを交換していました。それが突然の訃報。2010年52歳の若さで、すい臓がんのために世を去ってしまいました。その後、遺作ともいえる『パンとペン・社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』(講談社文庫)で読売文学賞(評論・伝記部門)を没後受賞しています。

黒岩比佐子について書いた、古い原稿を転載させてもらいます。
(PHP研究所メルマガ「ブックチェイス」1999年11月15日号)

(引用はじめ)
黒岩比佐子の趣味(実益をかねているけれど)は、古書収集です。自ら「古書の森日記」というホームページを立ち上げています。毎回写真入で、ゲットした古書を紹介してくれます。
 
 杉森久英『天才と狂人の間・島田清次郎の生涯』(河出文庫)を読んでいて、島田清次郎『地上』を読みたくなっていました。古書店を探さなければ見つかりません。ネット検索してみました。ヒットしたのが、黒岩比佐子のページでした。
 
 黒岩比佐子は、島田清次郎『地上』をゲットしていました。写真つきで「安く手に入れた」と書いています。さっそくHPのメッセージ欄に書きこみをしました。しばらくメールをしていませんでした。「おひさぶりです」と返信が返ってきました。私と黒岩比佐子の出会いは、『伝書鳩・もうひとつのIT』(角川ソフィア文庫)の書評を書いて以来のことです。この本については「山本藤光の文庫で読む500+α」の番外(+α)でとりあげるつもりです。
 
島田清次郎が、10年間のブランクを埋めてくれたのです。それ以来ひんぱんに古書のことや日常のことをメールしあうようになりました。(引用おわり)

 黒岩比佐子の『音のない記憶・ろうあの写真家・井上孝治』は絶版になっています。探し出してでも読んでいただきたい本です。
(山本藤光:2009.05.29初稿、2018.02.06改稿)