山本藤光の文庫で読む500+α

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サン・テグジュペリ『星の王子さま』(新潮文庫、河野万里子訳)

2018-03-03 | 書評「タ行」の海外著者
サン・テグジュペリ『星の王子さま』(新潮文庫、河野万里子訳)

砂漠に飛行機で不時着した「僕」が出会った男の子。それは、小さな小さな自分の星を後にして、いくつもの星をめぐってから七番目の星・地球にたどり着いた王子さまだった…。一度読んだら必ず宝物にしたくなる、この宝石のような物語は、刊行後六十年以上たった今も、世界中でみんなの心をつかんで離さない。最も愛らしく毅然とした王子さまを、優しい日本語でよみがえらせた、新訳。(「BOOK」データベースより)

◎低空飛行からの飛翔

サン・テグジュペリは名門貴族の末裔として、リヨンで生まれました。海軍士官を目指しましたが不合格となり、美術学校で建築を学びました。1920年兵役で航空隊に入隊し、操縦士としての訓練を受けました。この経験が小説家サン・テグジュペリの将来を決めたのです。除隊後職業を転々としながら、サン・テグジュペリは小説を書きはじめました。

1926年航空会社に就職し、定期空路の操縦士となりました。1929年さまざまな飛行体験をベースに、処女作といってもいい『南方郵便機』(サン・テグジュペリ・コレクション)を発表します。この作品は1飛行家の内面の夢を、友人の語りをつうじて描いたものです。人妻との恋などの挿話があり、通俗小説のような体裁です。最近ではkindle版でも読むことができます。
 
サン・テグジュペリの名前を揺るぎないものにしたのは、次作『夜間飛行』(新潮文庫)でした。このころ彼はアルゼンチン航空郵便会社の開発部長であり、その体験が『夜間飛行』に結実されたのです。この作品はジッドの序文をえて、フェミナ賞(フランスで最も権威のある文学賞)を獲得しています。
 
『夜間飛行』は感動的な作品です。困難な夜間飛行に従事する部下と、彼らの無事な帰還を待つ支配人。2つの群像の対比が、みごとに描かれています。幾多の障害を乗り越え、自己実現に挑む操縦士たち。こうした世界は、実体験者であるサン・テグジュペリでなければ描けません。それゆえ、読者は真に迫った感動をおぼえます。

自らを克服しようとの強い意志。人間のあり方を追求する勇気。個人を捨て、仕事に立ち向かう倫理心。いろいろと教えられる作品です。その後サン・テグジュペリは長距離航空路のテストパイロット、エール・フランスの宣伝飛行家として業績をあげます。
 
第2次世界大戦がはじまると、彼は志願し偵察飛行隊の一員となります。数多くの戦歴を重ね、1944年コルシカ島の基地から出撃したまま、消息を絶ちました。
 
◎純情は人生の原点

私の手元には、大型サイズの『星の王子さま』(岩波書店、内藤濯訳、昭和42年18刷)があります。読み直して驚きました。最後のページに自筆で「この感動を失わぬ人間でありたい」と書きこんであったのです。1967年12月26日とありますので、大学1年のときのことです。初恋の彼女と別れて寂しいクリスマスを過ごしたことまで、鮮明によみがえってきました。
 
『星の王子さま』は、私にとってきわめて大切な1冊です。孤独な悩み。そんなものは、薄っぺらな世界のできごとなのだよ。夢をもちなさいよ。そんな気持ちが、私に書きこみをさせたのでしょう。

純情は人生の原点だと思います。60歳になっても、純情は失ってはいけません。純情って、ウブな美しさ。未知への好奇心。自分以外のだれか、またはなにかを発見する力が純情なのだと思います。今回何度めかの『星の王子さま』と再会して、指先からこぼれた砂を拾い集めたくなりました。
 
『星の王子さま』の巻頭には、「レオン・ウェルトに」という心温まる献辞が載っています。レオン・ウェルトは、子どもだったころのサン・テグジュペリの親友でした。

――わたしは、この本を、あるおとなの人にささげたが、子どもたちには、すまないと思う。でもそれには、ちゃんとした言いわけがある。そのおとなの人は、私にとって第一の親友だからである。

献辞はつづくのですが、親友は「子どもの本でも、なんでも、わかる」し、「いまフランスに住んでいて、ひもじい思いや、寒い思いをしている人」だといいます。そして献辞は最後に書き改められています。「子どもだったころの、レオン・ウェルトに」と。
 
サン・テグジュペリは、親友であっても「おとなは子どものころのことを忘れている」と思っています。そして、そうであってはいけない、とも思っているのです。それが、献辞の意味でしょう。
 
ストーリーも挿画も、目を閉じると浮かんできます。浮かんでこない人には、「星の王子さま公式ホームページ」があります。美しい映像を、ご覧いただきたいと思います。またサン・テグジュペリの大ファンである宮崎駿が、『夜間飛行』と『人間の土地』(ともに新潮文庫)に、カバー画を描いています。宮崎駿の「風の谷のナウシカ」や「天空の城のジュピタ」のなかに、「星の王子さま」を観たのは私だけでしょうか。

最後に三田誠広『星の王子さまの恋愛論』(集英社文庫)から、一部引用させていただきます。

――作者の意図は、わたしたちをイデアの世界にいざなうことにあります。わたしたちの水先案内人(パイロット)は、わたしたちを現実の世界の果てまで連れていってくれるのです。その世界の果ての、一歩先には、イデアの世界が広がっています。(引用P175より)

プラトンは「イデア」を、われわれの肉眼に見える形ではなく、心や魂の目によって洞察される純粋な形、つまり「ものごとの真の姿」や「ものごとの原型」と説明しています。三田誠広の文章にふれて、難解なプラトンが少し理解できたような気になりました。

こども心を失わないあなたへ、そっと大切な1冊をお届けさせていただきました。
(山本藤光:2009.10.26初稿、2018.03.03改稿)

テッド・チャン『あなたの人生の物語』(ハヤカワ文庫SF、浅倉久志訳)

2018-03-02 | 書評「タ行」の海外著者
テッド・チャン『あなたの人生の物語』(ハヤカワ文庫SF、浅倉久志訳)

地球を訪れたエイリアンとのコンタクトを担当した言語学者ルイーズは、まったく異なる言語を理解するにつれ、驚くべき運命にまきこまれていく…ネビュラ賞を受賞した感動の表題作はじめ、天使の降臨とともにもたらされる災厄と奇跡を描くヒューゴー賞受賞作「地獄とは神の不在なり」、天まで届く塔を建設する驚天動地の物語―ネビュラ賞を受賞したデビュー作「バビロンの塔」ほか、本邦初訳を含む八篇を収録する傑作集。(BOOKデータベース)

◎固いスルメをかじっているような

 最近の海外SF界は、中国系アメリカ人の2人が牽引しています。テッド・チャンとケン・リュウです。テッド・チャンは1967年生まれで、ケン・リュウは9歳年下です。
2012年『紙の動物園』(ハヤカワ文庫)でSF3冠を達成したケン・リュウは、テッド・チャンの魅力について次のように語っています。
――テッド・チャンのおもしろいところは、「合理性」というものについて掘り下げている点だと思う。それも合理的に考えることだけでなく、合理的であることについてだ。(WIRED 2017.05.20)

そしてケン・リュウは、『紙の動物園』はテッド・チャンの作品に触発されたと語っています。

テッド・チャンは1990年、『あなたの人生の物語』(ハヤカワ文庫SF、浅倉久志訳)所収の「バビロンの塔」を雑誌掲載してデビューしました。そして1999年「あなたの人生の物語」でネピュラ賞を受賞し、話題の作家となりました。
本の雑誌『おすすめ文庫天国2013』で、最高峰のSF作家という記事がありました。それから4年間も積んでおいた作品を、読むきっかけを与えてくれたのは、ケン・リュウ『紙の動物園』でした。ケン・リュウ作品は、現在『もののあはれ』(ハヤカワ文庫)を読んでいる最中です。紹介までには、時間がかかります。

 テッド・チャン『あなたの人生の物語』は、固いスルメをかじっているような読後感です。咀嚼(そしゃく)できないのですが、味わい深いというのが素直な感想です。なるほど、とんでもない異次元のSF作家だと思いました。

本書には8短篇が所収されています。いずれも奇抜なアイデアで、緻密な言語でまとめられていました。

◎2本目の物語は添え物

 表題作「あなたの人生の物語」の主人公は、女性言語学者のルイーズ・バンクスです。物語の冒頭でルイーズは、娘に「あなた」と呼びかけます。読んでいて混乱したのですが、この娘はまだ生を授かっていません。最後になって、娘が受胎する記述が登場します。さらに私をやっかいにさせたのは、ひんぱんに登場する娘との会話が、時系列になっていないことでした。
ルイーズは、娘(あなた)の父となる男との出会いから、娘の成長過程、そして死までも語ります。
 娘との会話(あなたの人生の物語)が1本目の物語であり、地球にやってきたエイリアンとの交流が、2本目の物語となります。こちらはルイーズが物理学者のゲーリー・ドネリーと、エイリアンとの会話を試みている時系列な物語です。
ゲーリーが娘の父親になることは、最後に明かされます。2人は、エイリアンとの交信に明け暮れます。しかし任務は遅々として進展しません。2人の悪戦苦闘ぶりは十分に伝わってきますが、専門用語が多くて、2本目の物語はあまりピンときませんでした。
そんなときに前出のケン・リュウの一文を読んで気持ちが楽になりました。

――「あなたの人生の物語」のポイントは、決して言語と時間の関係に着目していることだけではないんだ。それはもっと深く、重要なテーマを描くためのトリックにすぎない。原作で描かれているのはなによりも、子どもを失う親の無力さを受け止めること──子どもと出会い、彼女がひとりの人間として成長し、そのあとに悲劇が待っていることがわかっているとしても、その子を愛するということだ。(WIRED 2017.05.20)

 私は難解な2本目の物語に集中し、1本目の物語を読み流していました。ケン・リュウの一文に触れて、そこだけを抽出して読み直しました。愛情に満ちあふれた、素敵な物語だったのです。

 ルイーズがなぜ「あなたの人生の物語」を紡ぎ出せるようになったのか。娘(あなた)に語りかける展開は、前記のように時系列になっていません。成長した娘に語りかけた後、よちよち歩きの娘が登場したりします。これはエイリアンとの交信を通じて、ルイーズが習得した技術と同じなのです。経時的な時間の概念を失っている世界。そのエイリアンの世界を、「あなたの人生の物語」として映し出していたことになります。

◎いいなと思った作品

「バビロンの塔」は、天にも届く塔の話です。この塔は現在も高く伸び続けています。この塔は、ブリューゲルの「バベルの塔」をイメージしています。文庫の表紙の中央に、小さく描かれています。しかし作品を読むと、バビロンの塔は円錐形ではありません。その塔が、天に届いてしまいます。塔の天井に穴をあけて、さらに石を積み上げなければなりません。
そのために、掘削鉱夫たちが集められます。彼らは4ヶ月かけて、塔の頂上にたどりつきます。塔のなかでは、人間たちが暮らしています。物語はこんな展開ですが、非常にリアルで高所恐怖症の私は、なんとか堪え抜いて塔の丸天井までたどり着きました。

「理解」は、ダニエル・キース『アルジャーノンに花束を』(ハヤカワ文庫。「山本藤光の文庫で読む500+α」紹介作)を彷彿とさせられる物語です。レオンは事故で脳を損傷し、植物人間状態になっています。新薬が投与され、レオンは奇跡的に回復します。記憶力が異常に高まり、知覚も鋭敏になります。医者は新薬を再投与すれば、さらに知能は高まるとレオンに話します。レオンはその提案を受諾します。際立った知能の持ち主となった、レオンの運命は? 

「ゼロで割る」については、前記のインタビューでケン・リュウが語っています。それを引用させていただきます。
――公式とされていた数学に矛盾を発見した女性数学者が、精神的な苦悩を抱えてしまう話だけれど、ぼくはこの「当たり前だと思っていたものが崩れ去ってしまったら?」というテーマにインスパイアされたんだ。(WIRED 2017.05.20)

「地獄とは神の不在なり」には、感動というよりも興奮させられました。天使の降臨が、ひんぱんに起こる世界です。降臨により生命を失う人もいますが、奇跡が起こる人もいます。主人公のニールは降臨により、妻のセイラを失います。セイラは天国にいきます。ニールは自分が死んで地獄へやられたら、セイラとの再会はかなわないと考えます。
天使の降臨を自動車事故のように描いてみせる本作は、人生や愛や信仰や善行などを、しみじみと考えさせられる作品でした。

 テッド・チャンの作品集は、まだ本書1冊しかありません。しかしアンソロジーでは、「商人と錬金術師の門」(『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』(ハヤカワ文庫所収)を読むことができます。テッド・チャン作品をもっと読んでみたいと思います。しかし彼は寡作なようです。
山本藤光2017.08.31初稿、2018.03.02改稿


ディケンズ『クリスマス・キャロル』(新潮文庫、村岡花子訳)

2018-03-02 | 書評「タ行」の海外著者
ディケンズ『クリスマス・キャロル』(新潮文庫、村岡花子訳)

ケチで冷酷で人間嫌いのがりがり亡者スクルージ老人は、クリスマス・イブの夜、相棒だった老マーレイの亡霊と対面し、翌日からは彼の予言どおりに第一、第二、第三の幽霊に伴われて知人の家を訪問する。炉辺でクリスマスを祝う、貧しいけれど心暖かい人々や、自分の将来の姿を見せられて、さすがのスクルージも心を入れかえた…。文豪が贈る愛と感動のクリスマス・プレゼント。(「BOOK」データベースより)

◎スクルージは夢を見ます

私の読んだ新潮文庫は、『クリスマス・カロル』(平成19年103刷、村岡花子訳)というタイトルになっています。しかし最近の同文庫は、「クリスマス・キャロル」と改められています。

ディケンズには、紹介したい作品がたくさんあります。『デイヴィッド・コパフィールド』(全4巻、新潮文庫、初出1870年)『大いなる遺産』(上下巻、新潮文庫、初出1860年)『二都物語』(上下巻、新潮文庫、初出1859年)などです。でもディケンズへの入り口として、『クリスマス・キャロル』(初出1843年)を選ぶことにしました。

前掲の4作品では『クリスマス・キャロル』が31歳のときに書かれた、最も若いころの作品です。家計の足しにと、読者受けする作品を書こうとの意図がありました。作品のヒントとなったのは、次のとおりです。

――集会に参加したディケンズは、犯罪や貧困といった社会問題を解決する手段は教育であると講演した。このとき、クリスマス・イヴに夢を見たスクルージが、その夢を見たことで、それまでの自分の生き方を悔い、改心するという着想を得た。(日本イギリス文学・文化研究所編『イギリス文学ガイド』荒地出版社)

クリスマス・イヴにスクルージは、甥フレッドから「クリスマスおめでとう」と声をかけられますが無視します。貧しいこどもたちのために、と寄付を求めてきた紳士を追い帰します。その晩、強欲でケチで冷淡で人間嫌いなスクルージは夢を見ます。夢の中には7年前に死んだ、共同経営者のマーレイの幽霊が現れます。

マーレイは物欲にとらわれた人間が、いかに悲惨な目に遭うかを語り、過去・現在・未来へと誘う3人の精霊の出現を預言して消えます。

「過去」の幽霊は、スクルージの幼いころを再現してみせます。
彼は読書好きで、将来を夢見る男の子でした。奉公先でも雇主に感謝の気持ちを持っていました。それがやがて、金の亡者となって、恋人に去られた場面までを案内されます。

「現在」の精霊は、スクルージが安月給で雇っているボブ・クラチット一家のクリスマスを見せます。そこには足の悪い子・ティムがいます。スクルージは精霊に、ティムの行く末を質問します。精霊からは、残酷な答えが返ってきます。それはスクルージが昼間、発したセリフと寸分たがわぬものでした。またスクルージは世界中を案内されて、がんばっている人たちの姿を見ます。

「未来」の精霊は、悲しむ人が誰もいないスクルージの死ざまを見せます。

ここまで見せられると、どんな頑固な人でも改心すると思います。スクルージは精霊たちとの旅をつうじて、自分自身の本質を取り戻します。

◎クリスマスの朝、スクルージは

クリスマスの朝、改心したスクルージがいます。彼はボブ・クラチットに大きな七面鳥を贈ります。寄付金を集めにきた紳士に応えます。甥フレッドのクリスマスパーティの招待を受けます。そしてボブ・クラチットに昇給を伝えます。

単純なSFのような物語は、当初おとなに向けて書かれました。しかし物語のわかりやすさや教義性から、次第にこども向けとして出版されるようになります。ディケンズは繊細に、食卓の風景や店先を描いています。

スクルージが精霊たちに伴われて、過去、現在、未来を旅する場面は、まるで映像を見ているような鮮やかな描写がなされています。『クリスマス・キャロル』は、岩波少年文庫になっていますし、DVDでも観ることができます。

人生を巻き戻しできたらな、というのは万人の夢でしょう。そんな夢をディケンズは、さりげなく叶えてくれました。物語はクリスマス・イヴから翌朝までの2日間のできごとですが、スクルージは無限の旅をしています。

岩波少年文庫『クリスマス・キャロル』は、孫へのクリスマス・プレゼントに最適な1冊です。
(山本藤光:2012.11.19初稿、2018.03.02改稿)

チェスタトン『ブラウン神父の童心』(創元推理文庫、中村保男訳)

2018-02-24 | 書評「タ行」の海外著者
チェスタトン『ブラウン神父の童心』(創元推理文庫、中村保男訳)

奇想天外なトリック、痛烈な諷刺とユーモアで、ミステリ史上に燦然と輝くシリーズの第一集。小柄で不器用、団子のように丸く間の抜けた顔。とても頭が切れるとは思われない風貌のブラウン神父が真相を口にすると、世界の風景は一変する! ブラウン神父初登場の「青い十字架」のほか、大胆なトリックの「見えない男」、あまりに有名な警句で知られる「折れた剣」等12編を収める。(「BOOK」データベースより)

◎得意の警句と逆説

 G・K・チェスタトンは、1874-1936年のイギリスの詩人、批評家、小説家です。「ブラウン神父」シリーズがあまりにも有名なために、その他の肩書きを忘れられがちです。しかし、シリーズを読んでいるうちに、詩人や批評家としての慧眼(けいがん)が随所にあらわれてきます。つまり「ブラウン神父」シリーズは、彼の全能力を総動員して書かれているのです。

 そのあたりについて丸谷才一は著書のなかで、次のように書いています。

――チェスタトンの魅力は、まづ何よりも彼の詩にあるのだ。彼のトリックも、彼の神学も、すべては彼の詩のために存在する。(丸谷才一『快楽としてのミステリー』ちくま文庫P374)

 もうひとつ、G・K・チェスタトンの魅力を、辞書的に確認させていただきます。

――平凡至極な事柄を取り上げて、その中にひそむ重大深刻な意味をとり出して読者を驚愕させるのが彼の手法で、得意の警句と逆説を縦横に駆使して、才気あふれる鋭利な批評を行った。(『世界文学小辞典』新潮社)

「ブラウン神父」シリーズの魅力は、トリックのおもしろさだとよくいわれます。もちろんそれもそのとおりですが、私は詩的な描写力にも魅力を感じます。そのあたりに触れている文章があります。

――本作の魅力は、トリックだけではない。そもそも、既に著名な論客で風刺家だった作者がミステリーを書き始めたのは、当時蔑視されがちだった大衆小説に「現代生活の詩的感覚を表現し得る大衆文学」の可能性を見出したからだ。本作の魅力の一つに美しい色彩描写がある。それは芸術を志した作者ならではの手法で、解明された謎や人物の心理と響きあい、豊かな読後感を与えてくれる。(文藝春秋・編『東西ミステリーベスト100』P273)

「色彩描写」の一例を、引いておきます。私が思わず、うなってしまった箇所です。まるで絵の具箱をのぞいているような、感じになります。

――孔雀のような緑を帯びた空が頭上に完全な丸天井を描き、黒味を増す立木と濃い菫色の遠景に接するところでは、空は金色に映えていた。ほんのりと明るい緑色の空にも、はや、水晶のような星がひとつふたつ、瞬きはじめた(本書P28)

 もう一つだけ、「ブラウン神父」シリーズの魅力を語った文章を紹介させていただきます。森礼子は北杜夫に勧められて初めて本書を読みました。そのときの感動を、谷沢永一が伝えてくれています。

――地の文にも到るところに、機智に富んだ表現がちりばめられている。どんな気難しい人間でも、思わず吹き出さずに読み通すことは出来ないだろう。しかも日本で機智というと、単なる駄洒落が多いけれども、チェスタトンの機智には、人間性への深い洞察や鋭い文明批評がひらめいていて、あっと新しく眼を開かれる思いがしばしばする。(谷沢永一『人間通になる読書術』PHP新P120)

 チェスタトン得意の逆接表現の一例が示されている文章があります。引用する書籍(「探偵小説の弁護」)は持っていませんので、孫引きさせていただきます。

――探偵とは「独創的かつ詩的な資質に富む人物であり、一方強盗や追いはぎは、ただ鈍重で古くさい、きわめて保守的な連中にすぎず、猿や狼のごとく太古からの因習のなかで嬉々としている」。こうした表現はチェスタトンの際立った才能である。(キーティング『海外ミステリ名作100選』早川書房P46)

◎ブラウン神父登場

チェスタトン『ブラウン神父の童心』(創元推理文庫、中村保男訳)は、1911年(37歳)のときに発表されました。シリーズ第1作「青い十字架」では、その後シリーズを引っ張る3人がロンドンに勢揃いします。
ブラウン神父は、背の高いもう一人の神父とともに、カトリック聖体大会に参加するために列車でやってきます。パリ警察のヴァランタン刑事は、国際的な大泥棒フランボウを追ってロンドン入りします。
パリからロンドンへの移動の列車のなかで、ヴァランタンは間抜けなちびの神父と遭遇します。神父は、

――車中のひと全員に向かって、わたしはこの茶色の紙包みのひとつに「青い宝石つきの」本物の銀でできた品物を持っているものだから、よくよく用心しないといけない、と白痴同然の単純さで説明するしまつだった。(本文P12)

これがヴァランタン刑事とブラウン神父の出会いです。しかし、お互いに、この時点では名前すら知りません。

ヴァランタンには、聖体大会でフランボウが盗みを働くとの確信がありました。フランボウは変装の名人ですが、背がとてつもなく高いという身体的特徴がありました。
ロンドンに着いて、ヴァランタンはレストランで、コーヒーに砂糖を入れました。ところがそれは砂糖ではなく、塩でした。彼は給仕を呼んで、そのことを訴えました。砂糖壷と塩壺が取り替えられていました。給仕はそのいたずらをしたのは、帰りがけに壁にスープをかけた、2人組の神父の仕業だと断定しました。
ヴァランタンは、2人を追いかけました。すると果物屋の店頭でも、商品札が入れ違えられているのに気づきます。やはり2人組の神父の仕業だと店主はいい、「ひとりはのっぽだった」と告げます。ヴァランタンの脳裏に、フランボウの姿が浮かびます。

◎のっぽとちび

『ブラウン神父の童心』には、12作品が所収されています。そのなかの10作品目(「アポロの目」)を読んだとき、私は思わず「あれ?」と小首を傾げてしまいました。冒頭の作品(「青い十字架」)と同じ描写になっていたのです。

――ぴったりと寄り添った一群があった。――僧服を着た二人の人物である。(中略)ヴァランタンは、そのうちの一人が連れに較べてやけにちびなことを見てとった。連れの男は学者のように猫背で、その動作は目立たなかったが、身長はたっぷり六フィートを越えている。(P29「青い十字架」)

 背の高い神父は、大泥棒フランボウが変装しています。

――二人の男があった。一人はいたって背が高く、いま一人はいたって背が低かった。(P272「アポロの目」)

 これもブラウン神父とフランボウが並んで歩いている描写です。しかしフランボウは大泥棒ではなく、改心してブラウン神父の助手になっている姿です。
 本書は冒頭から順序よく、読まなければなりません。ブラウン神父の所属が代わり、やがて「J・ブラウン」と明らかになります。改心したフランボウのフルネームも、「アポロの目」で明らかになります。

◎魂の引き継ぎ

ミステリー小説の開祖は、エドガー・アラン・ポオの「モルグ街の殺人」というのが定説です。その後、コナン・ドイルが「シャーロック・ホームズ」を引っさげて登場します。それを横目に見ながら現れたのがチェスタトンになります。その魂はやがて、エラリー・クイーンへと引き継がれます。
 日本では江戸川乱歩が開祖となりますが、筆名からも、ポオの影響を受けたことは明白です。

 本書を読んだあとで、気になる評論に出会いました。具体的にどの作家のどの作品なのかは、わかりません。 

――収録の「見えない人」(本書のタイトルは「見えない男」。ハヤカワ文庫はこのタイトル)と「折れた剣」の二作は、ミステリー史上もっとも多くの応用作品を生んでいる。(『海外ミステリハンドブック』ハヤカワ文庫P63)

 イギリスが生んだ偉大な2人の探偵、シャーロック・ホームズとブラウン神父は、世界中の探偵小説作家に大きな影響を与えています。応用作品を探してみるのも、楽しいかもしれませんね。ちなみに私は、小林秀雄が本書の愛読者であると、勝手に信じています。詳細は、小林秀雄『無常という事』で触れています。
(山本藤光2017.08.06初稿、2018.02.24改稿)

ダンテ『神曲』(全3巻、集英社文庫、寿岳文章訳)

2018-02-23 | 書評「タ行」の海外著者
ダンテ『神曲』(全3巻、集英社文庫、寿岳文章訳)

詩人ダンテが、現身のまま、彼岸の旅を成就する物語『神曲』。「地獄篇」は、1300年の聖木曜日(4月7日)に35歳のダンテが、罪を寓意する暗い森のなかに迷い込むところから始まる。ラテンの大詩人ウェルギリウスに導かれて、およそ一昼夜、洗礼を受けていない者が罰せられる第一圏(辺獄)にはじまり、肉欲、異端、裏切りなど、さまざまな罪により罰せられる地獄の亡者たちのあいだを巡っていく。(「BOOK」データベースより)

◎訳文の違いで難解から平易に

ダンテ『神曲』は、青空文庫(山川丙三郎訳)で読みはじめました。ところが難解で、途中で挫折してしまいました。最初のほうを立ち読みして、集英社文庫『神曲』(全3巻、集英社文庫、寿岳文章訳)を買い求めました。おもしろいように読み進むことができました。

――われ正路を失ひ、人生の覊旅半にあたりてとある暗き林のなかにありき 一・三 ああ荒れあらびわけ入り難きこの林のさま語ることいかに難いかな、おそれを追思にあらたにし 四・六(青空文庫「地獄」山川丙三郎訳の冒頭より)

――気がつくとダンテは、正しい道を見失い、暗い森の中に迷いこんでいた。苦境を切りぬけるために、彼はとある美しい山に登ろうとするが(後略)(集英社文庫「地獄篇」寿岳文章訳の冒頭より)

集英社文庫には、まったく異なる『神曲』がありました。苦労して読みつづけた青空文庫とは、「煉獄」の途中で訣別してしまいました。ずっとうっそうとした暗い森に迷い行ってしまった気持でしたが、またたくまに視界が開けました。『神曲』は、難解な作品ではなかったのです。

ダンテ『神曲』の骨格を紹介している文章を、引かせていただきます。

――1300年の復活祭前の金曜日、35歳のときにダンテは人生の正道を踏み外し、暗い森の中で迷う。そこでダンテは古代ローマの詩人ベルギリウスと出会う。『神曲』はベルギリウスの案内でダンテが、地獄、煉獄を、ダンテが慕う女性ベアトリーチェの案内で天国を訪問する。全6日間の見聞録という体裁でダンテは世俗語で『神曲』を書いた。(佐藤優。『文藝春秋』2011年3月号)

ダンテ『神曲』は、「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」の3部構成になっています。人が死んだら、地獄か煉獄へ行くとされています。よほどの悪人でないかぎり、普通の人は煉獄へと辿り着きます。
そんな関係で、佐藤優の引用文章あたりまで読んだら、「煉獄篇」へと飛んでみるのもいいと思います。

青空文庫でいちど挫折した私は、いくつかの『神曲』解説本を手にしました。難解で先に進めない屈辱感にさいなまれながら、それらの本を読んで、訳文の選択に過誤があったことに気づいたわけです。

スイスイ読みはじめた集英社文庫ですが、私は1話を読みおえると必ず、阿刀田高『やさしいダンテ「神曲」』(角川文庫)でおさらいをすることにしました。

◎憧憬の女性・ベアトリーチェの登場

ダンテは、憧憬の女性・ベアトリーチェの案内を受けます。『神曲』の荒削りな描写のなかで、彼女の名前だけは可憐な花のように際立っています。そのあたりについて、阿刀田高の解説を引かせていただきます。

――少年(註:ダンテ)は圧倒され、現実の世界でも詩的な世界でも、はたまた思索の世界においても一生涯にわたってベアトリーチェの存在に憧憬を抱き、魅了され続けることとなる。(阿刀田高『やさしいダンテ<神曲>』角川文庫P20)

ベアトリーチェの美しさについて、ダンテ自身が書いている文章を拾ってみます。

――天使たちの環は、一つまた一つと視界から薄れ消えてゆく。もう一度ベアトリーチェを見ようと向き変ったダンテは、その美しさが全くあらたまり、あらん限りの筆力をふりしぼっても、到底叙述できないのに気づいた。淑女はダンテに、かれらがすでに至高天へ到達したこと、やがて天使たちも、肉の衣を身に纏った至福者たちの霊も、眼の前に現われるであろうことを告げる。(『神曲』「天国篇」第30歌、P400)

『神曲』のエンディングの美しさについて、書かれた文章があります。

――「地上楽園」で再会して以来、ずっとベアトリーチェに向けられていた主人公ダンテの視線が、高いところに昇った彼女のところまで達した今、いよいよ至高の座、神の方向へと向けられる。「天国」における巡礼の旅の結末は、至高の天における「神を見る」瞬間というクライマックスなのだ(村松真理子『謎と暗号で読み解くダンテ「神曲」』角川oneテーマ21新書、P222)

憧憬の女性・ベアトリーチェは「煉獄篇」の末尾から登場します。それまで読者は、迫力ある死後の世界を随行しなければなりません。たくさんの人や怪物がでてきます。ダンテは現実と空想の世界を、見事な筆さばきで紡ぎ出してくれます。

ダンテは本書を知的階級の言語ラテン語ではなく、トスカナ語で書いています。その理由を紹介している文章があります。

――ダンテは『神曲』を女、子どもの言語トスカナ語で書いた。恋人ベアトリーチェに捧げるべきこの書物は彼女の理解できる言語で書かれなければ意味はない。『神曲』は俗語で書かれたがゆえに民衆に直接、贖罪の道を示し、後の宗教改革の下地を準備したことになる。(島田雅彦『必読書150』太田出版、P113)

◎壮大な叙事詩をあなたに

私は読んでいませんが、ダンテは著作『新生』(河出文庫)のなかで、ベアトリーチェについて次のように書いているようです。

――自分は九歳の終わりのときにベアトリーチェという美しい少女に出会うが、そのとき彼女は九歳の初めであった。それから九年後に彼女に再会して激しい<愛>を覚えるが、ベアトリーチェはやがて昇天してしまう。(『世界文学101物語』高橋康也・編、新書館)

「地獄篇」の冒頭で暗い森のなかに迷い込んだダンテに、助っ人ウェルギリウスを差し向けたのは、ベアトリーチェでした。そして地獄の底で、かすかな希望を与えてくれたのもベアトリーチェでした。『世界文学101物語』のなかで、河島英昭はベアトリーチェを「神の愛の寓意」と表現しています。

1話を読み終わるたびに、解説本をひもとかなければ、ベアトリーチェに焦点をあてて読んでいなかったと思います。すさまじい物語の展開のなかに、ベアトリーチェという一条の光があったことが救いでした。

しっかりと味見をしていませんが、壮大な叙事詩をあなたに捧げます。最後に識者の文章を引かせていただきます。

――ギリシアの古典がまだ伝わっていなかった十三世紀のイタリアで、詩人ダンテ・アリギエリがもっとも尊敬していたのは、「アエネイス」の作者ウェルギリウスだった。愛し慕った先達の案内で、死後の世界を旅する自分を描くとは、うまく考えたものだ。(須賀敦子『本に読まれて』中公文庫P169)

―― 一般読者にとって面白いのは何といっても地獄にちがいない。当方がキリスト教に年々疎ましい気持ちを募らせているせいもあろうが、とにかく地獄は、たとい通読しないであちこちの歌を拾い読みするだけでも、その度に興をそそられ飽きることがない。(川村二郎。丸谷才一ほか『千年紀のベスト100を選ぶ』知恵の森文庫)

人生の贖罪(食材)は並べ終りました。あなたはどこから箸をつけますか? 
(山本藤光:2014.06.21初稿、2018.02.23改稿)


マーク・トウェイン『トム・ソーヤの冒険』(光文社古典新訳文庫、土屋京子訳)

2018-02-22 | 書評「タ行」の海外著者
マーク・トウェイン『トム・ソーヤの冒険』(光文社古典新訳文庫、土屋京子訳)

トム・ソーヤーは悪さと遊びの天才だ。退屈な教会の説教をクワガタ一匹で忍び笑いの場に変えたり、家出して親友のハックたちと海賊になってみたり。だがある時、偶然に殺人現場を目撃してしまい…。小さな英雄たちの冒険を瑞々しく描いたアメリカ文学の金字塔。(「BOOK」データベースより)

◎トムかハックか

マーク・トウェインは1835年生まれの、アメリカを代表する作家です。1876年(41歳)『トム・ソーヤの冒険』、1885年『ハックルベリー・フィンの冒険』を発表し、不動の地位を獲得しています。

文藝春秋編『少年少女小説ベスト100』(文春文庫ビジュアル版)では、前者が第6位、後者は第45位に選ばれています。正直いうと、トムとハックのどちらを紹介しようかと迷いました。でも私の好きな方、『トム・ソーヤの冒険』(光文社古典新訳文庫、土屋京子訳)を推薦作にすることにしました。

W.S.モームは著作のなかで、『ハックルベリー・フィンの冒険』を大絶賛しています。ただし最後の数章に、トム・ソーヤを登場させたことを嘆いています。

――マーク・トウェインが、あの退屈この上ない間抜け野郎のトム・ソーヤ少年を登場させるという、へまなことを思いついて、最後の数章をだいなしにしてしまうことがなかったならば、この小説(註:『ハックルベリー・フィンの冒険』)は、けだし完璧な作品となっていたことだろう。(W.S.モーム『読書案内』岩波文庫)

『トム・ソーヤの冒険』は、ハックルベリー・フィンの存在がなければ味気のないものになっていました。しかし『ハックルベリー・フィンの冒険』では、トムは不要な少年だったようです。

◎わんぱくで、いたずらで

トム・ソーヤは幼いころに両親を亡くし、ポリー叔母さんに育てられています。トムはわんぱくで、いたずら小僧です。学校嫌いなのですが、ともだちからは人気があります。

ポリー叔母さんは、そんなトムをやさしく見守ります。ある日トムは浮浪児のハックルベリー・フィンと、真夜中の墓地へ行きます。そこで彼らは、殺人を目撃します。顔見知りのインジャン・ジョーがロビンソン医師にナイフを突き刺します。ジョーは泥酔していたポターに、罪をなすりつけます。

自分たちが殺人現場を目撃したことを、知られていないかと不安な毎日がつづきます。それでもトムの冒険心は止むことはありません。ハックを含めた3人でジャクソン島へ渡り、海賊のマネをして過ごします。

彼らの使った筏が漂流していたために、溺死したのではないかと町中が大騒ぎになります。彼らの葬式が決行される会場に、3人は姿を現わし、みんなを驚かせます。

医師殺しの裁判が行われています。インジャン・ジョーはポターが犯人だと証言します。一部始終を見ていたトムは、勇気を振り絞って証言台に立ちます。インジャン・ジョーは法廷の窓から逃亡してしまいます。

その後、こどもたちのピクニックがあります。トムは大好きな同級生・ベッキーと鍾乳洞のなかで迷子になります。そして3日間幽閉されたすえに、脱出に成功します。洞窟のなかで、トムはインジャン・ジョーの姿を見ます。

トムとハックは、インジャン・ジョーが隠した財宝を求めて、ふたたび鍾乳洞へ向かいます。

◎3つの訳文の比較

マーク・トゥエイン『トム・ソーヤの冒険』は、3人の訳文で読んでいます。新潮文庫では大久保康雄訳と柴田元幸訳、そして今回は、光文社古典新訳文庫の土屋京子訳です。3冊について、第33章のクライマックス場面を比較してみたいと思います。トムとハックがインジャン・ジョーが隠した、財宝を探索する場面です。2人が墓場で殺人現場を目撃したとき、インジャン・ジョーは財宝の隠し場所として、「2号」とか「十字架の下」という謎めいた言葉を残していました。

【新潮文庫、大久保康雄訳】
「ハック、いいものを見せてやる」
彼は蝋燭を高くかかげて言った。
「その岩角のずっとさきを見てごらんよ。見えるだろう? ほら――あの大きな岩の上だ――蝋燭の油煙で書いてある」
「トム、十字架だぜ!」
「あれが例の二号さ。『十字架の下』って言っただろう? ちょうどあそこでインジャン・ジョーが蝋燭を突き出したのが見えたんだ!」

【新潮文庫、柴田元幸訳】
「ハック、見せたいものがあるんだ」
そして蝋燭を高く掲げて、言った。
「そこの角から回り込んで、目一杯奥を見てみろよ。見えるかい? そこ――あすこの大きな岩の上――蝋燭の煤で」
「トム、これって十字架じゃないか!」
「で、『二番』ってどこだ? 『十字架の下』って? まさしくあすこから、インジャン・ジョーが蝋燭を突き出すのを俺見たんだよ!」

【光文社古典新訳文庫、土屋京子訳】
「いいもの見せてやるよ、ハック」
トムはろうそくを高く掲げて言った。
「そこの曲がり角の先、できるだけ遠くまで見てみなよ。何が見える? そこ、むこうの大きな岩の上。ろうそくの煤で何か書いてあるだろ?」
「あ、十字架だ!」
「な? ナンバー・ツーはどこにあるって言ってた?『十字架の下』だろ? すぐそこんとこで、インジャン・ジョーがろうそく持って出てくるのを見たんだよ!」

どの訳書を選ぶかは、個人的な好みの問題です。『ハックルベリ・フィンの冒険』も紹介したかったのですが、まだ新潮文庫(村岡花子訳)しか読んでいません。光文社古典新訳文庫で土屋京子訳(上下巻)が出たので、それを読んでからにします。
(山本藤光:2014.11.14初稿、2018.02.22改稿)

デュラス:愛人・ラマン(河出文庫,清水徹訳)

2018-02-15 | 書評「タ行」の海外著者
デュラス:愛人・ラマン(河出文庫,清水徹訳)

18歳でわたしは年老いた―。あの青年と出会ったのは、靄にけむる暑い光のなか、メコン河の渡し船のうえだった。すべてが、死ぬほどの欲情と悦楽の物語が、そのときからはじまった…。仏領インドシナを舞台に、15歳のときの、金持の中国人青年との最初の性愛経験を語った自伝的作品。センセーションをまきおこし、フランスで150万部のベストセラー。J・J・アノー監督による映画化。(「BOOK」データベースより)

◎恋人ではなく、愛人
 
マルグリット・デュラスは1914年に、仏領インドシナ(現ベトナム)で生まれました。18歳のときに大学進学のためにフランスにわたっています。29歳で「あつかましき人々」を書いてデビューしました。実質的な文壇デビューは、『太平洋の防波堤』(河出文庫、初出1950年、36歳)からです。

そしてデュラスの代表作『愛人・ラマン』(河出文庫)を発表したのは、70歳のときでした。舞台は出生地の仏領インドシナです。

――『愛人』では作者は若かった自分を本当に愛している。振り返って慈しんでいる。男物のソフト帽をかぶった若い自分の姿を目を細めて見ている。その一方で、あの歳であの状況を生き抜くことがどんなに大変だったかを思い出している。若かった自分への共感がある。(『池澤夏樹の世界文学リミックス』河出書房新社P45より)

『愛人・ラマン』はデュラスの自伝的作品といわれています。河出文庫のカバーは、18歳の著者自身です。タイトルとこの写真だけで、舌なめずりして買い求める人もいるでしょう。ところが本書は難解です。主人公が語り手なのですが、ときどきちがう人称がはいりこみます。時間も現在から、いきなり過去へととびます。幻視や幻聴が混入します。1文は短いものですが、著者の気まぐれにつきあう根気が必要になります。文体について小川洋子は、つぎのような指摘をしています。

――高温多湿のじめじめしたインドシナで、支配層の白人でありながら、貧乏にあえいでいる。お金にも愛情にも飢えている。『ラマン』には、圧倒的な閉塞感があります。『ラマン』は回想形式を取っていますが、ほとんど現在形の文章で書かれています。ですから、いままで目の前でそれが起こっているかのようです。イマージュという言葉がよく出てきますが、遠い過去の出来事ではあっても、映像は自分の頭の中に生き生きと残っているのだと、主張するかのような、さらに自分自身に言い聞かせるような文体になっています。(小川洋子『心と響き合う読書案内』PHP新書P47より)

ストーリーは単純です。15歳の主人公は、母と2人の兄と現ベトナムで暮らしています。母はフランス語学校を、創設することを夢見ています。そのための土地を求めるのですが、海水に浸かってしまうような価値のない物件をつかまされます。
一家は貧乏です。長兄は排他的で、アヘン中毒です。なけなしのお金を盗んだり、次兄に暴力をふるったりします。

母は長兄だけを、溺愛しています。そして植民地に暮らす、白人としての誇りを堅持しています。   母親はどこか狂気じみていて、それがしだいにエスカレートしてゆきます。

そんななかで15歳の少女は、裕福な中国人の青年に見初められます。青年に誘われて、少女の家族みんなで食事にいきます。母も2人の兄も、青年を完全に無視してがつがつと食べるだけです。

やがて少女と中国人の青年は、深い関係になっていきます。2人の関係について池澤夏樹は、つぎのように書いています。

――十代の若い娘が親しくなった男を愛人と呼んでいるんだ、恋人ではない。そういう仲ではない。このあたりは「愛人」という言葉を選んだ、訳者清水徹のセンスのよさだ。なぜ恋人ではないかというと、あまりに多くのものが二人を隔ているから。男はヒロインより歳がずっと上だし、ずっと富裕で、人種も違い、この仲がどうにもならないものだと二人ともわかっているから。(『池澤夏樹の世界文学リミックス』河出書房新社P43より)

◎最初に『太平洋の防波堤』を読む

――それにしてもデュラスという人は、かなり、というよりも異様に自己愛が強い女性である。女流作家というのは、たいてい自己愛が強いものであるが、彼女の場合は少々度が過ぎているといってもよい。この『愛人』という本は、最初写真集として企画されはじめたそうだ。彼女は十五歳の自分の顔が好きでたまらない。十六歳はもっと気に入っている。これほど美しくてこれほど中身のある少女は見たことがないでしょう、と他人にも教えたいわけである。(林真理子『名作読本』文春文庫より)

本書には何箇所か、写真についてのコメントがはいりこんでいます。読みながら私も、不可解な思いになりました。最初は写真集の企画であったことについては、訳者の清水徹も解説のなかでふれています。

デュラス『愛人・ラマン』については、たくさんの作家や書評家が解説を書いています。それらのいくつかを紹介させていただきます。

70歳のデュラスが『愛人・ラマン』を著した意義について、2人の作家はつぎのように書いています。

――この作品は、七十歳で十代のことを書いたという時の隔たりを感じさせません。つい昨日体験したかのような生々しさがあります。辛い少女時代と決着をつけるためには、「書く」ことが必要だったのでしょう。あの時代のことを忘れるのではなく、もう一度体験し直すことによって、過去と折り合いをつける。つまり「書く」とは、再体験することなのかもしれません。(小川洋子『心と響き合う読書案内』PHP新書P48より)

――「隠された時期」の体験を、七十歳になってからのデュラスがやっと書いたことが成功の一つの原因である。そのことが、「劇化された語り手」としての「内在する作者」を現実の人間とは別のものとし、より優れた「第二の自己」を作ったと言える。読者が主人公の少女へ安易に感情移入できないことも成功の理由であろう。(筒井康隆『本の森の狩人』岩波新書P108より)

本書の読み方について、ふれた文章もあります。

――ヴェトナムでの情事が話題になりがちな小説ですが、渡欧後にヒロインが体験した波瀾も、ちゃんと語られています。この女の子の情事を語っているのが、そういった経験を経て老境に達しつつある大人の女性であることを、つねに意識して読むのがいいのではないかと思います。(千野帽子『世界小娘文学全集・文藝ガーリッシュ舶来篇』河出書房新社P103より)

私は『愛人』を読んだ後に、続編でもある『北の愛人』と『太平洋の防波堤』(ともに河出文庫)を読みました。この読み方は正しくなかったようです。
瀬戸内寂聴は「私の選んだ文庫ベスト3」として、マルグリット・デュラス作品の『愛人』『モデラート・カンタービレ』『太平洋の防波堤』をあげ、つぎのように書いています。

――『愛人』の背景になる母親の破滅的な防波堤事件を最初に書いたのが『太平洋の防波堤』である。仏領時代のベトナムで不毛の土地を買わされた母親の悲劇はデュラスの家に実際に起こった事件である。デュラスはこの作品によって文壇で、「当代最良の女流作家」という称号を手に入れることになる。デュラスを読むには、この一作も是非とも読んでおかなければならないだろう。ここにデュラス作品の人物の原型がほぼ勢揃いしているからである。いわばデュラスへの入門の書ともいえよう。(瀬戸内寂聴、丸谷才一編『私の選んだ文庫ベスト3』ハヤカワ文庫より)

『愛人』のような作品は、あの時代に生きたデュラスでなければ書けません。支配されているベトナムで、支配している側の白人の住人として暮らしている。しかもその家族は詐欺にあってどん底の生活をしている。
それでも住民たちには、近寄りがたい存在なのです。唯一接近を許されるのは華僑である富豪の中国人だったわけです。絶望のなかでのプライド。それは15歳の少女にも遺伝子としてありました。

くりかえしになりますが、まずは『太平洋の防波堤』から読んでください。瀬戸内寂聴の教えは、守らなければなりません。
(山本藤光:2013.12.14初校。2018.02.15改稿)


コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』(河出文庫、小林司・東山あかね訳)

2018-02-12 | 書評「タ行」の海外著者
コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』(河出文庫、小林司・東山あかね訳)

ドイル自身がもっとも愛した短篇であり、探偵小説史上の記念碑的作品「まだらの紐」をはじめ、「ボヘミアの醜聞」、「赤毛組合」など、名探偵ホームズの人気を確立した第一短篇集。夢、喜劇、幻想が入り混じる、ドイルの最高傑作。オックスフォード大学版の注・解説にくわえ、初版本イラスト全点を復刻掲載した決定版。(「BOOK」データベースより)

◎語り手ワトスンの発明

 河出文庫(小林司・東山あかね訳)の「シャロック・ホームズ全集」全9巻が完結しました。帯に「決定版」「全イラスト復刻」とあります。それまでばらばらな出版社の文庫で、シリーズを読んできました。ちょうどよい機会なので、第1巻『緋色の習作』から読み直すことにしました。私の書棚には『緋色の研究』(創元推理文庫、阿部知二訳)があります。この作品(1887年発表)は、ホームズがはじめて登場したことで有名です。しかし評判はかんばしくなかったようです。

ドイルはシャーロック・ホームズのシリーズとして60編(長編4、短編56)の作品を残しています。整理しておきます。

【長編】
『緋色の研究』(河出文庫タイトルは『緋色の習作』)
『四つの署名』(河出文庫タイトルは『四つのサイン』)
『バスカヴィル家の犬』
『恐怖の谷』
【主な短編集】
『シャロック・ホームズの冒険』
『シャロック・ホームズの思い出』
『シャロック・ホームズの帰還』
『シャロック・ホームズの最後の挨拶』
『シャロック・ホームズの事件簿』

「正典」による発表年次はつぎのとおりとなります。
1887.12:緋色の研究
1890.02:四つの署名
1891.07:ボヘミアの醜聞(『シャロック・ホームズの冒険』所収)
1891.08:赤髪連盟(『シャロック・ホームズの冒険』所収)
1891.09:花嫁の正体(『シャロック・ホームズの冒険』所収)
1891.10:ボスコム渓谷の惨劇(『シャロック・ホームズの冒険』所収)

 以下省略します。詳しく知りたい方は、「シャロック・ホームズ正典」でネット検索してください。私はこの順序で河出文庫を通読しました。私は以前に「山本藤光の文庫で読む500+α」で『シャーロック・ホームズの冒険』(新潮文庫、延原譲訳)を紹介しています。今回河出文庫での通読を完了しましたので、本稿も書き直ししています。

シリーズに火がついたのは、『シャーロック・ホームズの冒険』からでした。前記のとおりドイルは、2つの長編を発表したのち、月刊誌に短編の連載を開始します。短編第1作にあたる「ボヘミアの醜聞」で大きな話題となります。そして探偵小説の一大ブームが起こっています。

『シャーロック・ホームズの冒険』で欠かせないのは、盟友ワトスン博士の存在です。この作品の魅力は、ワトスン博士(「わたし」)の語りにあるといえます。読者はつねにワトスンの目線でとらえたことを、同時に追体験することになります。つい最近、週刊誌『サンデー毎日』(2014.11.23)が「シャーロック・ホームズ・ブーム再燃」という特集を組みました。そのなかに興味深い記述があります。紹介させていただきます。

――今のミステリーは、読者にも手掛かりが提出され、それを一緒に推理する「フェア」な作り方が主流です。しかし当時はそうではない。ホームズだけが知っていて、後から種明かしをされても、ワトスンも読者も「そういったものだ」と納得していた。ただ、ドイル自身はフェアなつもりで書いていますが。(日暮雅通)

ロンドンで住まいをさがしていた、物語の語り手「わたし」(ワトソン)は紹介者の青年につれられて、シャーロック・ホームズの家へいきます。これが2人の出会いとなります。河出文庫『緋色の習作』で確認してみてください。

 ワトスン博士は、ホームズをつぎのように評価しています。2人のコンビがあってこそ、『シャーロック・ホームズの冒険』は通常の2人称小説の枠を超えているのです。2人の魅力について語っている文章を紹介させていただきます。
 
――観察の大切さをくり返し説き、細部情報の収集・分析から論理的思考によって事件の真相に到達するホームズにたいし、彼の伝記作者であるワトスンは、「君(ホームズのこと)は探偵という仕事を厳密な科学に近づけた」という。(『知の系譜・イギリス文学・名作と主人公』自由国民社より)

『シャーロック・ホームズの冒険』は、多くの出版社が文庫化しています。私は今回たまたま河出文庫を紹介させていただきますが、翻訳の優劣を語るほどの力量はありません。以下ならべてみます。
河出文庫(小林司、東山あかね訳)
新潮文庫(延原譲訳)
創元推理文庫(深町眞理子訳。以前は阿部知二訳があります)
光文社文庫(日暮雅通訳)
角川文庫(石田文子訳)
ハヤカワ文庫(大久保康雄訳)

河出文庫『シャロック・ホームズの冒険』を買い求めたとき、その重厚さに驚きました。なんと732ページ。新潮文庫は472ページですから、倍ほどの厚みがあります。

シャーロック・ホームズのシリーズは、1社にしぼってそろえることをお薦めします。同じ書名でも収載作がちがっていたり、同一原書の翻訳が異なる書名で存在したりします。たとえば新潮文庫『シャーロック・ホームズの冒険』は、10編の短編しか収載されていません。残りは『シャーロック・ホームズの叡知』という、他社文庫にはない1冊が追加されています。創元推理文庫(深町眞理子訳)では12の短編が所収されています。

『シャーロック・ホームズの冒険』(河出文庫)では、「赤毛組合」と「まだらの紐」が好みです。この2つはしっかりと新潮文庫のにもはいっています。 

◎赤毛とまだら紐

 シャーロック・ホームズのすべてを物語っている一文があります。紹介させていただきます。

――シャーロック・ホームズは、ロンドンにまだガス灯がともり、馬車が往来していたころ、ベーカー街二二一番地Bの、「居心地のよい寝室二つと、気持ちよく家具も備えてあり、大きな窓が二つあって、明るく風通しのよい大きな居間一室とからなる」下宿に、元軍医の医学博士ジョン・H・ワトスンと同居していた。シャーロック・ホームズを何度か読んだことがある人間には、たいていこのことが念頭にある。(『読み直す一冊』別役実・朝日新聞社より) 

 シャーロック・ホームズのベースキャンプは、引用文のとおりです。「赤毛組合」では、こんな具合にベースキャンプが登場します。河出文庫と新潮文庫の訳文をならべてみます。

――昨年の秋の、ある日のことだった。友人のシャーロック・ホームズを訪ねてみると、彼は初老の紳士と、何ごとか熱心に話し込んでいた。その人は、太っていて、赤ら顔をしており、髪の毛は燃えるような赤い色をしていた。/うっかりじゃまをしてしまったおわびを言いながら私が出ていこうとすると、ホームズは突然わたしをつかまえて部屋に連れ戻すと、入り口のドアを閉めてしまった。/「ワトスン、まったくいいところへ来てくれた」とうれしそうにホームズは言った。/「今、君は忙しいのだろう」/「そう、ご覧のとおりだ。ものすごく忙しいよ」/「では、隣の部屋で待っていることにしよう」/「その必要はないよ。ウィルスンさん、こちらはぼくの同僚で、今までに成功した多くの事件のほとんどを、手伝ってもらった人で、あなたの事件にも、きっとお役に立つと思います」(「赤毛組合」、『シャーロック・ホームズの冒険』河出文庫P111より)
 
――去年の秋のある日のこと、訪ねてみるとシャロック・ホームズは、非常にからだつきのがっしりしたあから顔の、髪の毛の燃えるように赤い年配の紳士と、何事か熱心に対談中であった。うっかりはいってきた無作法をわびて、出てゆこうとすると、ホームズがいきなり私をつかまえて部屋のなかへ引っぱりこみ、ドアをぴたりとしめた。/「ワトスン君、君はじつにいいところへ来たのだよ」/「いや、僕はまた、要談中なのかと思ってね」/「要談中にはちがいないさ。それもきわめて大切な要談中なんだ」/「じゃつぎの間で待ってもいいよ」/「そんな必要はないよ。ウィルスンさん、この紳士はね、いままでに私が成功した多くの事件に、たいていの場合私の相棒ともなり、助手ともなってくれたひとなんですよ。ですからあなたの問題にだって、きわめて有力な役をつとめてくれるにちがいないと思うんです」(「赤髪組合」、『シャーロック・ホームズの冒険』新潮文庫P48より)

 ドイルの作品は、チャンドラーなどとちがって、訳者によって大きな変化はおきません。

ホームズのところを訪ねてきていたのは、ウィルスンという赤毛の男です。彼は「赤毛組合」という奇妙なところからの募集広告を持参し、応募すべきかどうかを相談にきていたのです。割りのよい仕事なのですが、「赤毛の男にかぎる」という不可思議な条件が気になっているようでした。

 ウィルスンは、応募試験に見事合格しました。行ってみると、彼の仕事は「大英百科辞典」を最初からひたすら書き写すことでした。『シャーロック・ホームズの冒険』では、実に平坦な事件を迷宮へとつなげます。
 
「まだらの紐」は、義父とふたごの姉妹が住む屋敷での密室殺人事件をあつかっています。奇怪な事件の真相は? コナン・ドイルの作品には、思わずにやりとさせられます。読者はいつも「やられた」と、著者の巧みな展開力に酔いしれることになるのです。

最後に前記『サンデー毎日』の特集記事から引かせていただきます。「アイデア&構成が秀逸な初期短編から読もう」という見出しがついています。

――まずは初期短編「ボヘミアの醜聞」「赤毛連盟」「まだらの紐」(いずれも『冒険』所収)から、いかがか。長編なら処女作『緋色の研究』、怪奇ものなら『パスカヴィルの犬』がお薦めだ。「ボヘミアの醜聞」には、女嫌いといわれるホームズの、生涯記憶に残る女性アイリーン・アドラーが登場。(中略)二度と登場しないけれど、鮮烈な印象を残します。

 ドイルはいちどホームズを滝に落として、消失させています。この場面は「最後の事件」(1893年初出『シャーロック・ホームズの思い出』所収)に描かれています。そしてふたたびホームズが出現するのは、「空き家の冒険」(1903年初出『シャーロック・ホームズの帰還』所収)となります。(このくだりは『サンデー毎日』の記事を参考にさせていただきました)

 いずれにしても『サンデー毎日』の特集で、「シャーロック・ホームズ」ブームはさらに加速することになりました。名コンビのファンのひとりとして、うれしく思っています。
(山本藤光:2010.10.23初稿、2018.02.12改稿)

チャンドラー『ロング・グッドバイ』(早川書房軽装版、村上春樹訳)

2018-02-11 | 書評「タ行」の海外著者
チャンドラー『ロング・グッドバイ』(早川書房軽装版、村上春樹訳)

私立探偵フィリップ・マーロウは、億万長者の娘シルヴィアの夫テリー・レノックスと知り合う。あり余る富に囲まれていながら、男はどこか暗い蔭を宿していた。何度か会って杯を重ねるうち、互いに友情を覚えはじめた二人。しかし、やがてレノックスは妻殺しの容疑をかけられ自殺を遂げてしまう。が、その裏には哀しくも奥深い真相が隠されていた…大都会の孤独と死、愛と友情を謳いあげた永遠の名作が、村上春樹の翻訳により鮮やかに甦る。アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞最優秀長篇賞受賞作。(「BOOK」データベースより)

◎チャンドラー作品は訳者で別物になる

桐野夏生『柔らかな頬』(上下巻、文春文庫、「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作)を再読しているとき、猛烈にチャンドラーを読みたくなりました。桐野夏生の女探偵・村野ミロが、チャンドラーの描く私立探偵・フィリップ・マーロウと重なってきたのです。
 
 桐野夏生のミロシリーズは、すべて読んでいます。一方チャンドラーの作品は第1作『大いなる眠り』(創元推理文庫)、第2作『さらば愛しい人よ』(ハヤカワ文庫)、第7作『プレイバック』(ハヤカワ文庫)しか読んでいませんでした。もっとも評価の高い『長いお別れ』を買い求めてきました。しかも2冊も。清水俊二訳『長いお別れ』(ハヤカワ文庫)と村上春樹訳『ロング・グッドバイ』(早川書房・軽装版)です。
 
 原書は同じですが、タイトルはちがっています。清水俊二訳を読んでから、村上春樹訳を読みました。2冊はまったく別物でした。前者は文庫版で482ページ、後者は新書版で655ページもあります。バーでフィリップ・マーロウと、有名なコメディアンがぶつかるシーンがあります。2冊を比較してみましょう。
 
【清水俊二訳】(ハヤカワ・ミステリ文庫)
 彼は私の手をふりきって、脅し文句をならべた。「きいたふうなことをいうな。あごをはずしてやろうか」
「ヤンキーズのセンターをやって、パンののし棒でホームランを打つ方が楽だぜ」
 彼はこぶしを握りしめた。
「よさないか。マニュキユアがだいなしになる」
 彼はやっと感情をおさえたようだった。「もう一度いってみろ。いればがいるようになるぞ」
 私は冷笑を浴びせた。「いつでも来い。だが、そんな台詞は古いよ」
 彼の表情が変わった。顔に笑いがうかんだ。「映画の仕事をしているのか」
「郵便局にポスターがかかっているようなのに出てるよ」
「また会おうぜ」彼は相変わらず薄笑いをうかべたまま、立ち去った。
 
【村上春樹訳】(早川書房・軽装版)
 彼は腕をふりほどき、すごみをきかせた。「おつなことを言うじゃないか。顎をゆるゆるにしてほしいのか?」
「笑えるねえ」と私は言った。「ヤンキーズに入ってセンターを守り、棒パンでホームランをかっ飛ばすがいい」
 彼は肉厚のこぶしをぐっと固めた。
「おっとお嬢さん、マニュキュアにご用心」と私は言った。
 彼は怒りをぐっと飲み込んだ。「口の減らねえちんぴらだ」と彼は鼻で笑った。「予定がなければ、しっかりのしてやるんだが」
「ほう、ちゃんと予定を覚えていられるんだ」
「消えちまえ、この棒だらやろう」と彼はうなった。「あとひとつでも生意気なことを言いやがったら、歯医者の支払いで泣きを見ることになるぞ」
 私はにゃっと笑った。「楽しみだね。ただし次回はもうちっと冴えた台詞をこしらえてこいよ」
 彼の顔つきがそれで変わった。声を上げて笑った。「おたく、映画に出ているのかい?」
「ああ、郵便局にはってある手配写真にな」
「前科者ファイルで探してみよう」と言って彼は去っていった。笑みを浮かべたまま。

 清水俊二が、『長いお別れ』を翻訳したのは1976年です。清水俊二は1906(明治39)年生まれなので、70歳のときに翻訳したことになります。古いからダメだとはいいませんけれど、村上春樹の新訳はチャンドラーに新たな息吹を与えたのだと思います。『長いお別れ』を読むのなら、村上春樹『ロング・グッドバイ』(早川書店、新書サイズ)のほうをお薦めします。ただし、なじんでいるタイトル名まで変えるな、との注文つきでですが。

 チャンドラー作品といえば、清水俊二訳が常識でした。ところがこの訳文にたいして、批判的な意見もありました。チャンドラー作品のだいごみは、セリフまわしにあります。その点について、興味深い記述があります。引用してみます。マーロウの名セリフをとりあげたものです。3つの訳文をならべてみます。
  
1.「しっかりしていなかったら、生きていられない、やさしくなれなかったら、生きていく資格がない」
(清水俊二訳『プレイバック』ハヤカワ文庫)

2.「タフでなければ生きていけない、優しくないと生きていく資格がない」(生島治郎訳。『傷痕の街』あとがきに書いているようです。絶版で入手できませんので、検証していません)

3.「ハードでないとやっていけない。ジェントルでないと生きていく気にもなれない」(矢作俊彦と久間十義との対談で、原書を忠実に訳すと、こうなると例をしめしたもの)

 前記引用は小森収編『ベスト・ミステリ論18』(宝島新書)からのものです。本書のなかで「清水チャンドラーの弊害について」という、ものものしいものタイトルで、2つの訳文(引用した1と2)を切り捨てています。
 
 翻訳本は訳者を選ぶ。できれば最新の翻訳を選ぶ。そのことをお知らせするために、長々と引用をしてしまいました。
 
◎マーロウは、世界的な名探偵 

『ロング・グッドバイ』(「長いお別れ」)の主人公フィリップ・マーロウは、世界的な名探偵です。シャーロック・ホームズやエルキュール・ポワロなどと遜色のないアメリカの名探偵なのです。

 しかしフィリップ・マーロウは、2人の著名な探偵とは明らかに個性がちがいます。彼の個性をうまく表現している文章があります。 

――反骨精神とユーモア精神のかたまりのような男で、きわめてプライドが高い。時に応じて軽妙なへらず口をたたく。男には強いが女には弱く、とくに金髪で青い目の淑女に対しては必要以上に騎士道精神を発揮したがる傾向がある。(郷原宏『このミステリーを読め・海外編』王様文庫P113より)

 村上春樹はチャンドラー作品を、何度読んでも飽きないといいます。そんな人が『ロング・グッドバイ』を最高傑作だと断言しているのです。自ら翻訳してみたくなる気持ちはわかります。村上春樹訳は、リズム感がよくて読みやすいものでした。「村上春樹翻訳ライブラリー」(中央公論新社)のなかでも、レイモンド・カーヴァー『必要になったら電話をかけて』も絶品でしたが、本書はそれとならぶ傑作です。
 
 村上春樹はチャンドラー作品を、ハードボイルドなどという枠にはいれていません。ハードボイルドや純文学などのくくりには、おさまりきれない「文学作品」(小説)が存在しているのです。それがチャンドラーの作品です。
 
 桐野夏生を読んでいて、チャンドラーをもっと真剣に読み直そうと思いました。チャンドラーの影響を受けた作家は、ほかにもたくさんいます。矢作俊彦はそのものずばり『ロング・グッドバイ』(角川文庫)という作品を書いていますし、大沢在昌、平井和正、原りよう、稲見一良などの作品にも強い影響が認めらます。
 
◎『ロング・グッドバイ』のあらすじ

 私(マーロウ)は「ダンサーズ」のテラスの前で、はじめてテリー・レノックスに出会います。彼はロールスロイスのなかで、酔っ払って泥酔していました。車のなかにいた美しい若い女は、彼を押し出して車を走らせました。
 
 男は若く見えましたが、髪の毛は真っ白でした。マーロウは仕方なく、男を彼のアパートに送り届けました。私(マーロウ)が再びテリー・レノックスと会ったときも、彼はへべれけに酔っ払って正体をなくしていました。
 
 私は彼を自分のアパートに連れ帰ります。彼はラスベガスのクラブに身をおき、先日一緒にいたのはシルヴィアという妻だと語ります。シルヴィアは新聞王といわれている、大富豪のハーランド・ポッターの娘だということがわかります。
 
 テリー・レノックスは、ときどき私のアパートに姿をあらわすようになります。いつでも酔っていますが、私は彼のなかの誠実さに好感をもちます。ある日テリーは、拳銃をもって私のところにやってきます。私は彼をメキシコへ逃がします。殺人課のグリーン部長刑事らが訪ねてきます。テリーが妻・シルヴィアを、殺害したということでした。
 
 私は逃亡を助けた罪で、連行されます。黙秘をつづけているあいだに、テリーが拳銃自殺したことを知ります。このものがたりに、アル中で流行作家のロジャー・ウエイドと妻のアイリーン・ウエイドの、ドタバタ劇が重なってきます。
 
『ロング・グッドバイ』の、ストーリーをたどるのは邪道だと思います。なんといってもチャンドラーの魅力は、奥深い会話のやりとりにあります。ぜひ楽しんでいただきたいと思います。村上春樹訳『ロング・グッドバイ』を読み終えたら、翻訳者の異なるつぎの2作品も手にとってもらいたいものです。

双葉十三郎訳『大いなる眠り』(創元推理文庫)
清水俊二訳『さらば愛しき女よ』(ハヤカワ文庫)

 私は村上春樹の訳文が好きです。それは訳者としての彼が、楽しそうに仕事をしているからです。

――この本を読み飽きない理由としては、まずだいいちに文章のうまさがあげられるだろう。チャンドラー独特の闊達な文体は、この『ロング・グッドバイ』において間違いなく最高点をマークしている。最初にこの小説を読んだとき、その文体の「普通でなさ」に僕はまさに仰天してしまった。こんなもがありなのか、と。(村上春樹訳者「あとがき」より)
(山本藤光:2010.03.29初稿、2018.02.11改稿)


チェーホフ『桜の園』(新潮文庫・神西清訳)

2018-02-10 | 書評「タ行」の海外著者
チェーホフ『桜の園』(新潮文庫・神西清訳)

急変してゆく現実を理解せず華やかな昔の夢におぼれたため、先祖代々の土地を手放さざるを得なくなった、夕映えのごとく消えゆく貴族階級の哀愁を描いて、演劇における新生面の頂点を示す「桜の園」、単調な田舎の生活の中でモスクワに行くことを唯一の夢とする三人姉妹が、仕事の悩みや不幸な恋愛などを乗り越え、真に生きることの意味を理解するまでの過程を描いた「三人姉妹」。(アマゾン内容紹介)

◎現代にも通用する『桜の園』
 
チェーホフは若い人と老人を、好んで作品に登場させています。若い人は夢や希望にあふれており、老人は諦念、幻滅の象徴として描かれているのです。

『桜の園』(新潮文庫、「三人姉妹」併載)は、チェーホフ4大戯曲の最後の作品です。それ以前に『かもめ』(新潮文庫、「ワーニャ伯父さん」併載)が、モスクワ座で大成功をおさめました。つづいて『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』と書き連ね、1903年『桜の園』を書き上げたのです。モスクワ座での上演はその翌年であり、チェーホフはその数ヵ月後に亡くなっています。

 チェーホフは、人物の内面を刻々と描くことに長けた作家です。『桜の園』には、たくさんの若者と老人が登場します。舞台は帝政ロシアの末期。ラネーフスカヤは没落貴族の女地主です。彼女には、娘・アーニャと幼女・ワーリャがいます。

5年ぶりにパリから戻ったラネーフスカヤは、屋敷と桜の園が競売にかけられていることを知ります。屋敷には、老執事、兄、召使い、家庭教師、地主、商人などさまざまな人が出入りしています。

兄はその無能力さから、屋敷や桜の園を競売へと追いやってしまっています。2人の娘は、華やかな世界へ行くことだけに関心があり、競売にはまったく無頓着な状態でした。唯一、一家の農奴の息子だったロバーヒン(今は豊かな商人)だけが、桜の園を守るためには、賃貸別荘地にすべきであると主張します。

とにかく登場人物が複雑であり、名前が覚えにくいのが難点です。何度も登場者リストをくくりながら、読み進めました。創元推理文庫のように、表紙裏に登場人物リストがあれば参照しやすいのですが。そして、競売の日を迎えます。

チェーホフは、急な流れに身をまかせるラネーフスカヤと、桜の園を守りたいとの思いの強いロバーヒンを対極においてみせます。地主階級と元農奴のなりあがり。2人の対比が、作品に色どりをそえます。

◎日本文学にも大きな影響

 太宰治(推薦作『斜陽』文春文庫)が『桜の園』に、大きな影響を受けた話は有名です。太宰治が文学の師匠である井伏鱒二(推薦作『山椒魚』新潮文庫)に、つぎのような書簡を送っています。

――「私の生家など、いまは『桜の園』です。あはれ深い日常です」(関口夏史『新潮文庫20世紀の100冊』新潮新書より)

 チェーホフは太宰治以外にも、さまざまな作家に影響を与えています。当時の文壇では、私的な内面に迫ったリアリズム(自然主義)が新しかったのです。モーパッサン(推薦作『女の一生』新潮文庫)などが主流の時代でしたから、プロットのない作品は珍しかったのでしょう。

そんなチェーホフは、イプセン(推薦作『人形の家』新潮文庫)やメーテルリンク(推薦作『青い鳥』新潮文庫)から大きな影響を受けていました。

ちょっと読みにくいのですが、チェーホフは小説の世界を変えた分水嶺にいた作家です。チェーホフ作品には、2つのテーマが存在しています。未来への出発(『三人姉妹』)と現在への安住(他の作品中の登場人物)との2つです。

このテーマは安部公房『砂の女』(新潮文庫、「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作)と同じです。『砂の女』の主人公は砂の穴の家に幽閉されて、ずっと「にげだしたい」(未来への出発)と希求していました。それが砂のなかから水を発見してから「巣ごもりたい」(現在への安住)との気持ちに変化します。

 あなたの読書のマイルストーンとして、チェーホフ『桜の園』をいずれかの時期にすえたいものです。ちなみにここで描かれている桜は、日本人が花見を楽しんでいるものとはちがいます。サクランボの実をつける品種の方です。念のため。
(山本藤光:2012.10.21初稿、2018.02.10改稿)