龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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福島から発信するということ(21)

2011年07月25日 00時08分18秒 | 大震災の中で
7月23日(土)21:00~22:15NHKスペシャル「飯舘村~人間と放射能の記録~」を観た。
ご案内の通り、東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故直後は村民にその高濃度放射能汚染を知らされず、最初は行政側の「大丈夫だ」という虚偽のアナウンスによって被曝を受けた挙げ句に避難を要求されることになった福島県の村のことです。

その100日間のドキュメントは、淡々と語られて行きますが、随所にあり得ないシーンが出てきて、なでしこジャパンのドイツ戦や決勝戦で流れた涙とは全く別種の涙を止められませんでした。
いくつも辛いシーンはありましたが、個人的にどうしても未だに許せないのは、文部科学省の飛散放射線量計測が始まっていて、高線量を測定していたにもかかわらず、そのお役人たちは、現場の村民達にその測定した線量を当初公開しなかったという箇所です。
無論、彼らは命令されて、仕事で飯舘村で線量測定をやっていたに違いない。
部分的スポット的な線量測定を、自由に公表できる権限はおそらく与えられていなかったのだろう(もし公表権限があったのにそれを公開しなかったら、その時点で犯罪者だと私は考えますが)。
村民から要請があってから1週間ほどしてデータが公開され始めるのだけれど、その3月下旬の時点でも60μシーベルト/時ほどの線量があったという。
最初公表を拒んだ時点では90μシーベルト/時間ほどの線量も測定されていたのだそうだ。

どうなんだろう?そこで測定していたお役人たちは素人じゃないはずだよね?
普通人間なら、情報の公開を許可されていたかどうか別として、即刻その線量を住民に知らせるべきだろう。
もっと推測すれば、「混乱を避けるために公表を禁止されていた」のかもしれない。
でもさ、だからといって黙って日々線量測定だけをやっているようなヤツは、たとえに品がないのを百も承知で敢えて言うけれど(自分も公務員だから、そういう場面をいつも想定しながら仕事をしているので厳しくなってしまうのかもしれないけどね)、それはユダヤ人をガス室に送れば全員死ぬと分かっていながら、命令だからといって送り込んだナチスの下っ端役人と一緒だよね。

NHKのナレーションが、その線量は屋外にいれば半日で年間許容量に達するものだった、とかぶせられていた。

「私見ですが、こりゃやばいですよ」
と、それこそオフレコでもいいから、言うべきだったと思う。
それがたとえ多少の混乱を招いたとしても、自分の上司の命令を守って仕事をする、なんていうのは「私的な仕事」に過ぎない。
ここのところ、ちょっと前までの私と同様、日本人は勘違いしているヒトもおおいけれど、仕事なんていうものは、自分が生活のために選んだモノに過ぎず、人間としての倫理からいえばずっと下の「私的行為」に属するだろう。
自分の倫理に悖る行為を強要されたら辞職すればいいだけのことだ。

いや、現実的にそれが出来る場面だけじゃないのは分かります。

人間は弱い。心ならずも自分の「倫理」をねじ曲げられてしまうことは多々あるに違いない。
でも、それをどこまで「心ならずも」でいるのか、は、なおいっそう強く問われるべき「倫理性」だろうし、そこにこそ真の「公共性」の可能性が賭けられているのだと私は考えている。

「仕事だから」というのは実は「ムラの掟」に過ぎないあくまで「ローカルなルール」だ。そういう意味で「私的」なのだ。
「普遍的」「公共的なるもの」は、その向こう側にある。
私が繰り返し「初期衝動」とか「神様」とか「コナトゥス」、へたくそなスピノザ理解の中でここで繰り返しているのは、その「普遍性」「公共的なるもの」にアクセスするための内的契機として考えられることは何なのか、ということについて考え続けているそのプロセスででてきたフック、切っ掛けなのだ。

「動物的/人間的」という二分法が当てはまるかどうか分からないけれど、ここは「動物」として生き延びるために「知性」を使う以外に、「生きる力能」を使うべきシーンはないはず。

文科省の「計測すれど公開せず」の原則は、浪江町の赤宇木地区の高線量測定値の時にも貫かれていました。

ここは、どこまでいっても徹底的に追求するべき「お役所仕事」の究極だと思うんだけれど、いかがでしょう?

役人に架空インタビューをすれば「そう命令されていたから」と答えるだろうことは想像に難くない。またひどいたとえを使ってしまうけれど「アイヒマンかっ?!」て話だよね。もしそういうファシズム体制下のナチスのような行為でないとするなら、声を出して弁明すべき責務が「公共的なるモノ」の存在に照らして、飯舘村で線量測定をやっていたお役人たちには存在すると思うよ。

「仕事でやっていただけだから、言われても困る」
あるいはなに一つひるむことなく
「仕事でしたから、命令でしたから」
と言うのだろうかね?

これ、悪いけど本当に真面目に興味があります。
「上官の命令は絶対」
という軍隊じゃないんだからね。だって、住民は「敵」じゃなくて守るべき「味方」なんだから。だよね?そうだよね?それとも、お役所はお役所自身の「ムラ」の掟だけが「味方」なんだろうか?「命令」だけが絶対なんだろうか?
人間だったら、しかも3月15日の爆発以降は、具体的データなんてなくても普通の市民なら「やばい」ことぐらい分かっていたよ。

繰り返すけれど、この線量測定だけをやっていたお役人に、誰かジャーナリストは取材してくれませんか?
「ムラ」の論理でそうなっちゃったのか?
それとも何か別の論理が働いているのか?
飯舘村の問題は、実は情報の公開速度の問題だからね。
IAEAの測定が入ったときでさえ、行政は「測定の基準が違うから」と意味不明なコメントを出したのを記憶している。
現実の対応はいろいろ手間暇がかかるけれど、情報の公開は、「意志」と「知性」によって制御可能。
それに命や権利が大きく大きく関わっているとするなら、末端で「沈黙」を守った役人にも責任はある、と私は思う。

オフで語るやり方だって、いくらでもあったはずなのに。
そりゃあとで処分の危機はあるかもしれないけれど、事態の重大さを考えれば、地位保全だって可能性は高かったと思うなあ。
私はこの番組を繰り返し観ていて、どうしても役人の脳みそを繰り返しシミュレーションして悩んでしまうのです。

村民の悔しさや絶望、尊厳、怒り、不安といった情動性については、多言を要しないでしょう。それは見れば分かる。


とにかく、誰も(世界中の人々)が必見の番組だったと思います。




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