なんでもない日が特別なんだ。
今日の東北電力での講演会のテーマです。
地元の仙台で、しかも子どもも入れる講演会は滅多にない機会なので息子二人も連れて行った。
当然のように控室に通される訳だけど、子ども達も一緒に控室に通して頂いた。
嬉しそうだったけど、これが当たり前だと思わないで欲しいなぁと思った。
折しも今日は三月十日。
去年の今日は、花火の日だったねと我妻タカスとお店で話をしてた。
色々なことを話すべきだと思う反面、色々なことを話すべきではないという奇妙な心持ちでした。
限られた時間だし、活動や想いには触れず、テーマについて余裕をもって話が出来ました。
よく見る顔ぶれだったしね。
少し泣いてる人達がいたけど、最近は平気。
息子たちに向けて話も出来たし、しなっち達もいた。
みんなありがと。
お陰様で立見が出るほど。
特別なことに見せかけて、全然特別じゃないことってあります。
僕にとって「ボランティア」がそれね。
当たり前だけど特別に昇格して、それが普通になってしまう危険性も僕は知っています。
それは言葉だけではなくサービスという大きな枠で見ても同じ。
感情もあるんだよ、不思議なことね。
「キレる」という言葉を今日は例として話をしました。
他にも、いっぱいあるんです。
サービスで言えば、昔は買わないようなモノも今は売ってたりする。
お正月の餅もそうだ。
水を買うだなんて、考えられない。
カルピスウォーターもだね。
お茶だってそう。
これらは当たり前だったものが特別になったのに、普通になってしまった。
その逆もある。
キレるはこちらに入る。
そんな話をしました。
全ての言葉に、裏があると思う。
無駄な事が大切だったり。
大切に見せかけて、それはミスだったり。
無意味と言われた俺たちは、どうでしたか。
どうだったのかな。
自分では分からない。
分からないよ、と明日、墓参りに行こうと思う。
やーいおばさん、やーいやーいおばさんとバカにしていたが、年が追いついてしまった。
時間が止まった訳じゃない。
僕が進んでいる。
皆、止まらずに進んでいる。
僕が死んでもきっとそう。
皆の前で息子達に話が出来て良かった。
「たとえ自分が死んだって救いたい人がいる。それは、みんな自分の子どもがそうだと思う。だから、君たちだったら僕はそれでも構わないんだ。」
それを言えて良かった。
考え方は様々だけど、僕はそんな人を知ってる。
その結果も知ってんだ。
明日、会いに行こうと思う。
立派だったと思うぜ、ゆきえさん。
「父さん、今日はありがとう。あのね、感動した。」
「小泉首相みたいだね。(笑)」
「それしかない。大変な体験は僕にはまだ分からないけど、僕は、頑張ります。なにかを。」
「がんばれ。応援してるよ。」
「日記に書いてもいい?」
「君の日記です。好きに。」
明日、午後2時から慰霊祭を行います。
ドックウッドで。
俺もいる。
出来れば、気持ちだけでも少し飛ばしてください。
なんとなく今日と明日は早起きするとか、なんか野菜だけにするとか、好きな人に好きだと伝えるとか、くだらねぇケンカとかはやめにしようぜ。
笑っていよう。
笑えれば、笑っていよう。
笑えなければ、泣くのもいいね。