悠歩の管理人室

歩くことは、道具を使わずにできるので好きだ。ゆったりと、迷いながら、心ときめかせ、私の前に広がる道を歩いていきたい

雪の結晶とカラスウリの花

2011-08-21 22:57:27 | 言葉

今から170年ほど前、古河藩の藩主、土井利位が雪の結晶を観察し、
『雪華図説』という個人的な本を出版した。
日本初であり、殿様が自然科学分野の研究をして発表したという意味でも、
雪の研究の分野で高い評価を得ている。

『雪華図説』は、顕微鏡で観察し、観察図を描いたものだが、
アメリカでは120年ほど前、ベントレーという人が、
雪の結晶を写真に撮ることに情熱を傾けた。

今日、例会から帰ると間もなく、ベントレーの雪の結晶の写真集が届いた。
息をのむほどきれいな写真集だ。ベントレーは、17歳の時両親に写真機を買ってもらい、
雪の結晶の写真を撮ったが、最初の冬は一枚も満足のいく写真が撮れなかったそうだ。



その画像 ↑ を見ていて、カラスウリの花を写真に撮ったときの苦労を思い出した。
ベントレーとは、努力の期間も内容もまったく違うが、このカラスウリの花も、
夏の夜、福祉の森会館近くの、墓場のわきの竹藪に三日間通って撮ったもの。
蚊に刺されながら100枚以上撮った中の一枚で、これ以外はものにならなかった。

今、カラスウリの花は、4~5年ほど前から家の庭で咲いている。
下記の写真は、今年撮ったもの。



繊細な形をしているため、風や湿気などにより、一つ一つ違う形になる。
雪の結晶も、気温、湿気などにより、同じ形のものは1つもないそうだ。


「花桃ウオーク」は桃まつり会場で開催したい

2011-08-20 00:55:26 | ウォーキング

昨日、古河庁舎に行き、「情報公開請求書」を入手。
「古河桃まつり」における駐車場の利用状況と駐車料金の年度別収入を知るためである。

総合公園の駐車場は、桃まつり期間中のみ有料となる。
この駐車場利用料収入がかなり大きいらしく、「花桃ウオーク」参加者の駐車を認めると、
駐車料収入の減になるという訴えが、「花桃ウオーク実行委員会」内部でよく出される。
歩く人の立場からすれば、「古河まくらがの里花桃ウオーク」とうたっているわけだから、
スタート、ゴールは花桃会場でというのが当たり前のことと思う。
しかし、ウォーキング大会参加者が長い時間車を止めると、
大幅な駐車料金の減額につながるので市が困るのではないかという言い方がされる。
駐車場の回転が悪くなるということだ。
桃まつりも、「花桃ウオーク」も古河市が主催となっているので、
市がどう判断するかにかかっているわけだが、
細かな金額まで示した反論はこれまでなかった。

一時、教育委員会の判断で総合公園に会場を移したことがあるが、
2年くらいで元のサッカー場に戻った。
残念ながら、ウォーク会場であった2年間の、参加者の駐車率は調べられていない。
静かな会場からスタートし、迎える店も何もないところにゴールする、
寂しい大会に戻ってしまった。
近々開かれる「花桃ウオーク実行委員会」に向けて、駐車場問題を俎上に上げるため、
基礎データをそろえる必要があり調査を始めたわけである。
すんなり教えてくれれば不要となるが、面倒な手続きが必要になるかもしれないので、
念のため請求書を入手したわけである。

もっとも、歩く人は駐車場はサッカー場でもかまわない。
スタート、ゴールの会場だけ桃まつり会場にしてほしいだけである。
また、サッカー場で開催したい理由は他にあるかもしれないが、
1つずつ言い訳をつぶしていくしかない状況なのは寂しいかぎりだ。

昨日観光振興課に問い合わせたところ、担当は(財)地域振興公社であると、
そちらに電話をするように言われた。帰宅してから、公社に電話をすると、
市から任されている事業なので、上の判断が必要なので時間がほしい、との返事。

雰囲気としては、面倒なことになりそうな気配がしている。


匂い袋

2011-08-19 11:33:49 | 言葉

お盆の15日、叔母がラベンダーの花穂を持ってきてくれた。
しばらく居間のテーブルに置いたが、匂い袋を作ろうと思い立ち、
お茶出しパックに詰めて匂い袋を3つ作った。
内1つは自分用、残り2つは母がデイサービスに行くときに持っていくという。
デイではあまり友人もできない様子だったが、話し相手ができたのかと思い聞くと、
いつも近くにいる人だとのこと。
もらった相手は良い匂いだと喜んだそうだ。あと3つくらいはできそうなので、
作ってあげることにした。

昨晩は、寝間着の胸ポケットに入れて寝た。心地よい香りが漂う。
今朝、胸ポケットのないシャツを着たので、ショートパンツの右ポケットに入れた。
動くたびに香りが漂い心地よい。

香りが好きなので、これまでのもいろいろなものを試した。
最初は、高校生の頃で、線香の香り。家には仏壇がないので、
ある宗教団体の知り合いに線香立てをもらい、自分の部屋で時々香を焚いた。
私(家)は無宗教なので、宗教団体のマークを裏返しにして見えないようにした。
線香の香りは今でも好きなので、旅先で大きなお寺に行ったときに買ったり、
線香を扱っている店で花や香木を練り込んだ線香をたまに買う。

一時オーデコロンを使ったこともある。
体になじむと落ち着きのある匂いになると聞いていたが、香りがきつく感じ、
間もなく止めてしまった。

枕にもみの木の葉を詰め込んだものを使ったこともある。
併せてボディオイルも注文し、ときおり楽しんだ。

香りそのものが好きなのと、汗臭い匂いを抑えるのが目的だが、
常用するほどに入れ込むことはなかった。
他の人の香りを嗅ぐと、心地よい場合もあるが、ちょっと強く感じることが多いので、
自分の場合も、常用するのには少し抵抗がある。
家でゆっくりするときや、気が向いたときに楽しむのが自分にあっていると思う。

また、香りの記憶は既視感に似て、一瞬で過去の時間に飛んでいくことができ、
どちらかというと良い思い出に属することが多い。
悪い思い出につながることが少ないのは、思い出を選択しているからか。
香りにまつわるのは、良い思い出、臭いにまつわるのは悪い思い出と、
自分なりに選び取っているのかもしれない。
匂いは、その中間で、花の匂いに結びつくことが多い。


泉石日記から(その2)

2011-08-18 21:53:51 | 言葉

昨日から探していたが、夕方になってやっと見つけた。

3月2日、寺岡精蔵という手の者が以下のように報告しているのを書き留めている。
「…京、大津あたりの下々の者たちの間では、
大塩様がこんなにも世のためを思ってくだされ、有難いことだと言っています…」

この部分は、先に読んだ『鷹見泉石ものがたり』の中で、
日記にわざわざこのように書かれていたのは、
「謀反人とはいえ、民の苦しみを自分の苦しみと受け止めた大塩はまことの武士であった」
と書いている。
日記からこの部分を見つけたいと思い、やっと探し当てた。
大塩が火を放ち決起したのが、2月19日、その後40日間市中に潜み、
町方の訴えにより捕らえられたのが3月27日であった。

泉石の日記は、天候の記録、部下の誰それが結婚した、亡くなった、家族が風邪をひいた、
付け届けがこれこれあった、というところまで詳細に書かれている。

しかし、ここまで詳細なことを、毎日自分でメモしておき、夜になって書いていたのだろうか。
誰か、部下があることないことを書き連ねておき、そこから抜き書きしていたのではないか。
そんなことを考えたが、それもかえって面倒だろう。
自分などは、メモをしておかないとほとんど忘れてしまうが、
能力のある人はこのように記憶できるのだろうか。
いやぁ、圧倒される!!


泉石日記、他

2011-08-17 22:43:28 | 読書

図書館にて、『鷹見泉石日記 第3巻』、『日本画家 小川芋銭の世界』、
『古河郷土史研究会会報 第32号』を借りてきた。
日記は、部分的には大要をつかめるが、十分に理解することは難しい。
それでも、大塩捕縛の様子は大要をつかめた。
著名な事件に直接関わった人が書いた日記を読むというのは、
臨場感があって感じるものがある。

天保7年5月13日~20日の旅日記を読む。泊まりの宿場から、駕籠人足等の数、
道順などは特に詳しく、矢立を常に手にしていたと思われ、驚くほど細密な描写だ。
山や、分かれ道、風景などもスケッチ風に描かれており、「コマ図」のような細密さだ。
鳥居、門、石段、寺、目に入るものはすべて書き尽くしたかと思われるほどに細かい。
歩きながらでは難しいだろうと思ったが、駕籠を雇っているようだから、
駕籠の中から見えるものを委細余さず書き連ねたという感じだ。
いや、それにしても細かい。

郷土史研究会の会報は、「田仲正三から宮内喜平への手紙」と題して、
孫に当たる宮内勇さんが書いている。
宮内喜平が田中正造と袂を分かった頃の手紙で、間もなく両者は絶縁している。
手紙の日付は、1905(明治38)年8月9日。谷中村は、1906年7月1日廃村。
苦渋の選択であったろう、その後買収工作、議会工作が着々と進んでいく。
生々しい手紙だ。

小川芋銭のビデオは、芋銭の生涯を簡単になぞったもので、
河童を主題にした作品が紹介されている。
芋銭は病弱であったので、畑仕事はまったく妻に任せきりだった。
妻は丈夫な体を持ち、芋銭に絵を描かせるために自ら進んで農作業に専念したそうだ。
妻と写っている写真があった。いかにも丈夫そうな農婦だ。
芋銭は終生感謝していたことだろう。


大塩平八郎と鷹見泉石

2011-08-16 22:56:55 | 

江戸時代の末期、元町奉行与力であった大塩平八郎は、
民衆が大飢饉で困窮を極めていたにもかかわらず、
世情を放置する役人や豪商に業を煮やし、武装蜂起を企てた。

この時大阪城代であった土井利位が、鷹見泉石に乱の鎮圧にあらせている。
その後、利位は、京都所司代、老中と出世していった。

この事件を知ったとき、民衆のために蜂起した大塩の乱を制圧した鷹見泉石に対し、
良い印象を持たなかった。
その後、利位の雪の研究や、泉石の博学多才な面を知るにつけ、
両者を少しずつ見直すようになっていた。

昨日、叔母が父に線香を上げにきてくれた。その際の話。
先日ラジオで、古河のことを紹介していたという話になった。私も聞いていたので、
ラジオの話題から話が広がり、雪の殿様や歴史博物館など、話に花が咲いた。
そんなこともあって、叔母が帰った後、古河市・教育委員会発行の
『鷹見泉石ものがたり』を読んだ。

大塩の乱制圧に当たった時の様子が『鷹見泉石日記』に書かれているそうだ。
そこには、大塩捜査にあたっていた部下からの情報として、
「近在の民衆は、大塩に感謝している」ということを書き残していたそうだ。

ということは、役目として大塩の乱を制圧したが、
大塩が蜂起するに至った背景にも泉石の目は届いていたのではないかと、
書かれていた。

利位が将軍から褒美をもらった二日後、泉石は利位の菩提寺に報告に行き、
帰りに友人であった渡辺崋山を訪ね、そのおりに描いてもらったのが、
国宝「鷹見泉石像」であるとのこと。

天保8(1837)年3月27日が捕縛の日。
そのことを日記に書いたのが翌3月28日。
明日にでも、図書館で『鷹見泉石日記』を借りてきて読んでみようと思う。


時間の不思議

2011-08-15 11:17:51 | 言葉

子どもの頃の娯楽の1つに映画があった。
たまにではあったが、美空ひばりの時代劇や、江利チエミの「サザエさん」、
宇津井健の「スーパージャイアンツ」、ゴジラ、モスラなどの怪獣ものなどなど。
大きな画面で見る映画は、楽しかった。昔は、良い場面では観客が拍手をする。
ある程度の年齢になると気恥ずかしかったが、悪い気分ではなかった。

そんな好きな映画であったが、嫌なところが1つあった。
見終わった後、外に出て、夕方のことで、周囲が真っ暗になっているときだ。
子どもの頃だから、映画館を出るのが7時、8時ということは考えにくい。
昔は3本立てや2本立てがあり、3時頃入り、5時過ぎると真っ暗というのは、
冬の記憶だと思う。
そんなとき、自分が知らない間に時間だけが過ぎてしまい、
取り残されてしまったような、寂しい気分になった。
思春期のほんの一時期の感傷だったかもしれないが、
あの「嫌な気分」は今でも残っている。
その気分が嫌で映画を見ないということは、今はないが、
一人で見ていると、自分を置いて、
時間が過ぎていってしまうという感覚は今でも残っている。

当たり前のことが当たり前と受けとれなかった。
そのような感覚は、他にもたくさんあると思う。

ついでのようだが思い出すのが、「花火大会」と「提灯竿もみまつり」。
やはり、子どもの頃苦手だったもの。
花火は、一瞬の美しさは良いのだが、終わった後にむなしい気分が残り、
はかなく消える花火などより、造花の方が良いと、やはり同じ時期に思っていた。

「提灯竿もみまつり」は、子どもの頃だけだったような気がするが、
気弱な子どもだったので、提灯をぶつけ合って相手の提灯を壊す(燃やす)という、
争い事のような一連の動きが、怖くて嫌いな祭りだった。

時が移り、就職した年、職場で選ばれ「竿もみまつり」に参加したことがある。
白塗りの化粧をし、酒を飲み、寒い中を半天とパンツ一丁で走り回るのは快感だった。
今は、怖い、提灯がかわいそうという感覚は無くなっている。

連想ゲームではないが、争い事や勝負事が嫌いだった。
一番単純でわかりやすいのは、じゃんけんが嫌いだった。

サッカーも激しくボールを取り合うのが性に合わず、授業でやらされる以外は、
まったく関心もなかった。高校生の頃の記憶でも、自分は大きな体だったので、
級友は皆自分より小さかった。体育でサッカーをやるときなど、
小さな級友だと押し倒してしまうので、ぶつからないようにやっていた。
遊びでさえもサッカーはやらなかったから、下手なことは間違いないので、
ボールをとって、級友を蹴散らしながらゴールを決めるなどということは
当然のように全くなく、たまたま、自分の近くにボールがきたときのことではある。
何度か、相手を倒してしまい、悪態をつかれた不快感が記憶に残っており、
最初のサッカー嫌いに結びついている。

記憶には夾雑物(混じりもの、くずなど)が入り込むことがあるので、
事実と多少違っている可能性があるが、このような形で今の自分に残っている。
これらは、今の自分に都合の良いように脚色されている可能性はある。

これも時間のなせる技かもしれない。


想像力と創造力

2011-08-14 19:19:14 | 言葉

手話に関連した話をもう少し続けたい。
講演などの通訳をする際、通訳者がどこに立つかということが、問題になる。
基本的には、話者のすぐ隣が望ましい。理由は、ろう者は、手話を見ると同時に、
話者の表情、口の動きを同時に見るからだ。
話者が伝えようとしている内容が、すべて手話で表されているとは限らない。
手話が話者の話の勢いまで表現していない場合がある。
話者の表情を併せて見ることで、手話で表された内容を補完する役目をする。

通訳者や講演会の主催者が、遠慮をして講演者から極端に離れた場合、
上記の機能が損なわれる。
また、演題の隣に花や盆栽などが飾られることがある。
これが、通訳の邪魔になる場合がある。会場のろう者が手話を見るときに、
飾り物が邪魔にならないよう配慮しなければならない。

講演会などで、出演者が複数いた場合、そのいずれの発言も通訳できるか、
配慮が必要になる。
司会と講演者という組み合わせ。複数の参加者によるシンポジウムなどの場合。
通常、複数の位置に通訳を配置しなければならない。
一人しか配置しないと、通訳者が話者の間を常に移動しなければならない。
場合によっては、司会者がこう言っています。別の発言者がこう言っていますと、
落語風に通訳する場合もある。どちらにしても、
ろう者が話の筋を追える配慮が必要になる。

ただ、これらのことは事前に段取りをしておかないと、最悪の場合、
通訳がいないところで話が進んでしまう場合がある。
司会者は、通訳がスタンバイしているか、確認しながら進行しなければならない。
そうしないと、ろう者は、話を聞けないままに放置されてしまう。

例会で、新入会員がいる場合、ろう者がいる場合、視覚障害の会員がいる場合、
どんな対応が必要か、想像力を働かせよう。
可能な限り、すべての会員が参加できるようにするためには、
現状をよりよい状況に作り替えるための創造力も必要になる。


主人公は誰?

2011-08-13 23:22:02 | 言葉

母をショートステイ先に迎えに行った。対応した担当者は、3泊4日の施設での状況を、
私にでなく、一緒に行った孫に向かって説明しようとした。
孫(私の長男)は、以前この施設に勤務していたので、
担当者が職場の元同僚に向かって話そうとした気持ちは、分からないではない。
しかし、担当者は、母の保護者として迎えに行った私に向かうべきであった。

手話通訳の場面でも、似たようなことがある。
病院通訳の場面で、医師がろう者に伝えるべき場面で、患者であるろう者に話さず、
通訳者に向かって話すことがある。
医師が、患者ときちんと向き合うのであれば、通訳者に向かって話してはいけない。
ここで通訳者は、医師に対し、患者に向かって話してくれと言わなければならない。

30年近く前、完全週休二日制になる前、土曜日は各週で休みだった。
この日は休みで家にいた。あるろう者が、私を訪ねて職場に来た。
職場からの電話で、私が話を聞くことになった。
ろう者は、会社での待遇に不満を持ち、職場に無断で私に会いに来た。
会社に言いたいことがあるので、通訳をしてくれということだった。
会社では、朝礼が毎日あり、その日の仕事の段取りなどが話されるそうだ。
通常の仕事は対応できているが、時に手順その他の変更がある。
当日の変更は、朝礼でなされるが、ろう者には説明がない。
それで時々、変更についていけず同僚や先輩にしかられることがある。
これが度重なり、我慢ができなくなって、無断で職場を離れたとのことであった。

これらの話を職場の上司2名に本人の希望を伝えるという立場で私が通訳をした。
結果として、職場での対応を見直し、朝礼を通訳することはできないが、
仕事上の変更事項や会社の福利厚生などについても、できるだけ筆談や、
メモを渡すことで対応するということになった。
本人も職場の対応に納得し、話し合い(通訳)を終了する間際、
私は余計なことを言った。
「職場を無断で出てくるのは良くない。何か不満なことがあった場合は、
職場の仲間や、上司に話した方がよい」と上司、ろう者どちらにともなく言った。

最後の私の一言は、ろう者のとった行動が、
会社に良い印象を与えなかったかもしれないと気を回し、
これからはこのような非常識なことはしませんということを、双方に伝えたかったので、
余計な一言を言ってしまった。
本人は、これまでの会社の待遇に我慢の限界をこえたので、
このような行動をとったのだと思う。会社も、長い間配慮不足を重ね、
ろう者に情報不足による苦痛を与えてきた。

双方が了解に達した後に、善良な通訳者ぶって、
上から目線で言うべきことではなかった。

この恥ずかしい体験を、その後の手話奉仕員試験の際、作文課題として提出した。
幸い合格し通訳活動を何年か続けたが、通訳の立場を踏み越えず、
ろう者の立場を尊重した活動につなげることは難しいことだった。


手話が言語として法的に認知される

2011-08-12 22:25:49 | 言葉

次の例会は鬼怒川温泉郷を歩く。最近、会員から「例会のたびに手話を習っているが、
すぐに忘れてしまう。なにか、手話の本を紹介してほしい」という声をもらった。
そこで、適当な本を探し、2冊の本を取り寄せた。
1冊は、『わたしたちの手話』という単語集で、手話サークル時代に参考にした本。
習った手話単語を家でもう一度確認するには適当な単語集だ。
ただ、習った手話を使えるようにするには、単語集だけでは役にたたない。
言葉としての手話の獲得には、言葉のやりとりを通して覚えるしかないからだ。
もう1冊は、『はじめての手話』…副題が「初歩からやさしく学べる手話の本」
というが、けっしてやさしい本ではない。言語としての手話とはどんなものか、
知りたい人にはぜひ読んでほしい。会話、単語がイラストで解説されている。

次の例会で、この2冊を紹介し、希望者には購入してもらう予定だ。
そこで、(財)全日本ろうあ連盟のHPにアクセスしてみた。そこに、
事務局からのお知らせとして、上記の記事が掲載されていた。

今国会の衆議院本会議で成立、公布された「改正障害者基本法」で、
「始めて手話が言語であることを法律の上で明記された」ことが紹介されていた。
これは、ろうあの世界にとって画期的なことで、「道路交通法88条」よりも、
もっと早く実現してほしかったことだ。
通達というのは、役にたつこともあるが、まったくの空手形でしかないこともある。
数年前に、教育行政の上で、手話について検討するように指示があったが、
大きな動きにはならなかった。

「道路交通法88条」については、通達で有名無実化し、40年くらい前から、
運転免許を取得することができるようになっていた。
一定の条件…「10m離れた位置で(補聴器使用)警報機の音が聞こえれば
適性試験合格」とされていた。
「道路交通法88条」とは、「…耳が聞こえない者又は口がきけない者には、
…免許を与えない…」と規定されていた。

これが、平成20年の改正で、「標識の添付とワイドミラーの取付を条件に」
適性試験に合格できなくても、資格を取ることができるようになった。

手話の言語性が認知されたということは、
言語としての手話の研究がさらに進むことが保障されたということだ。
また、聾学校において、
手話を日本語の「国語」と同じように教える道筋が付けられたということでもある。

これまで、ろう教育は、その他の施策と同様に、アメリカの追随をしてきた。
明治初期にはろう教育は手話で行なわれていた。
後に、アメリカが口話法(音声言語中心の教育)になると、追随した。
その後、アメリカは、口話法を維持しつつも、
手話を含むすべてのコミュニケーション手段を取り入れた教育
(トータルコミュニケーション)に軸足を移した(アメリカでもぶれはあるようだ)が、
日本では口話法一辺倒で今日まできている。
トータルコミュニケーションは、日本でも民間レベルでの研究はされている。

アメリカが方向転換をしても、しばらくしないと後を追わない。
どうせなら、すぐに後を追ってくれれば、
今頃は、ろう学校で手話を教えていたかもしれない。