テレビやラジオ番組、その中で流される「今時言葉」に対して、強烈な違和感を持ち、
嫌悪感を匂わせながら書いてきた。
とは言いながら、同じことばかり繰り返す、自分も含めた他人の「物言い」に対し、
食傷気味となることもあり、いわゆる自家中毒状態に陥っているのではないか、
時々自分を振り返ってみる。
私の物言いは、娘に白い目で見られることもあるが、気になるものは気になる。
本当に多数の意見、多数の嗜好なのか、実は少数意見、嗜好であっても、
今時の「原発」絡みで行なわれていた「やらせ」であるかもしれない、とさえ思う。
鼻につく「今時言葉」や、「俗情との結託」とでも言いたくなる番組の羅列や、
世論を誘導するかのような、仕組まれた「番組づくり」、仕組まれた「流行づくり」
に対抗するには、少数意見を言い続けることが必要ではないかと思う。
しかし、毎度同じ物言いでは新味がない。違った視点、切り口での意見の表明が
求められるだろう。
ウォーキングに絡んだ話題を書き綴っていくつもりだったが、勝手放題な話題に
終始することも多くなってきた。
歩く時間が少ないと、話題も限られる。
母の傍にいる時間が長いのを、歩けない言い訳にしているが、
自分の時間は作り出すもの。
忙しい中、被災地にボランティアに行く人もいる。
鎌田實さんのまねはできないが、しかし、圧倒される。
会員対象の手話講座(2009.1)
ろうの会員が初めて入会したのが、2007年4月。
2008年にも入会し3人となった。
2009年1月に初めて会員対象の手話講座を開催し、
2009年4月にもう1名入会。
この年の総会ウォークから、例会時にミニ手話講習会を実施することになった。
毎回5~7個の手話単語をろう者に表現してもらい、
私が解説するという形で始まった。
現在8名の、手話をコミュニケーション手段とする会員がいる。
先の例会で、役員の一人から、「月に1回手話を覚えているが、
すぐ忘れてしまう。」
「何か適当な手話の本(単語集のようなもの?)がないか」という申し入れがあった。
何が良いか考えていたが、結局、多くの手話サークルの会員が使っている、
ろうあ連盟発行の「私たちの手話1」にしようと思っている。
これは10冊刊行されている内の一冊で、基礎的な手話単語が掲載されている。
このところ、「日本手話」に関する本を読んでいると、私たちが使っているのは、
「疑似手話」のようなもので、ろう者がストレスなく読めるものではないということが
わかってきた。
これまで、私の手話は「下手な手話」と言ってきたが、下手は下手だが、
厳密に言えば「似て非なる」ものであることがわかった。
まったく通じないというわけではないが、
かなりのストレスを与えることは確かなようだ。
手話サークルなどでは、初心者に手話の単語を教えるとき、
語源を説明することが多い。
たとえば、「秋田県」の場合、「蕗」が特産なので、これが語源であると説明する。
①左手掌を上に向け胸の前(20㎝くらい離して)に置く
②右手の親指(good(グー)の形)を右手甲に当てる
これで、蕗が表されるので「秋田」ないし「秋田県」を意味する
ここでは、人指し指で表しているようです
ところが、ろう者は左手の平を必ずしも水平に上に向けず、胸の方に向け、
そこに親指を当てたり、微妙に位置がずれ、個人差がある。
これは、日本語でも同じ「表現の幅」というもので、
地域差によるイントネーションの違いだったり、
「良い」、「良か」、「ありがとう」、「だんだん」みたいなもので、違いがあっても通じる。
これに対し、ろう者が表した「秋田」に対し、手話サークルの会員が、
その手話は違うと言ったりする。
また、ろう者は、語源にこだわらず覚えて使っているので、
常に「語源は?」と聞かれるのは負担であるらしい。
これらの他にも、言語としての手話を学ぼうとした場合、課題がたくさんある。
しかし、ウォーキングの会でこの部分に踏み込むよりは、
手話に慣れ親しんでもらうことに主眼を置き、
ろう者が楽しく例会に参加できることを優先したい。
その上で、ろう者の母国語である手話について、
折に触れて知ってもらう機会を持つように心がけたいと思う。
古河市は茨城県で一番暑い町。
群馬県高崎市、埼玉県熊谷市、館林市などと共に、
この時期、テレビやラジオに登場する常連となった。
他に自慢できるところといったら、「関東のど真ん中」だろうか。
総和地区にはネーブル(へそ)パークという公園があり、「関東ド・マンナカ宣言」をし、
「古河関東ド・マンナカ祭り」を毎年実施している。
また、猿島茶の栽培、集積地としても歴史がある。
この三つを結びつけると、「へそで茶を沸かせる町」宣言をして、
町おこしにつなげない手はない。
茶釜は、館林市茂林寺の「分福茶釜」が良いのだが、暑さを競っている手前、
果たして快く貸してくれるかどうか?
それに、「へそが(で)茶を沸かす」というからには、
何か大笑いできるものを想定しないと完結しない。
「大笑いコンテスト」は、いかがだろうか。他でもやっていそうだが。
大笑いのネタを自分で考え、発表し、自分で大笑いしてみせる。
「ネタの面白さ、できの良さ」と、「笑い方の豪快さ、面白さ」などを審査し、競う。
その締めくくりに、「古河関東ド・マンナカ祭り」のメイン・イベントとして、
大きな茶釜で茶を沸かし、無病息災を願って熱い茶を飲む。
時期は、7月~8月のもっとも暑そうなとき。8月15日あたりが良さそうだ。
このイベントを、へそで茶が沸かせるくらい大げさに、まじめくさって執りおこなう。
そして最後に「みんなで大笑いして祭りを閉じる」…というのでも良い。
歩く会としては、これにウォーキングを絡めて、「へそ茶ウォーク」を実施する。
先ほど8月15日といったが、「古河関東ド・マンナカ祭り」が10月に開催されているので、
ウォーキングを取り込む場合は、10月が適期だ。
暑いので「へそ茶」というのとは少しずれてしまうが…
参加者は、古河市民だけでなく、全国の暑い町自慢の代表を呼んでも良いし、
全国に募集しても良い。もちろん、賞品には古河の名産を差し上げる。
もう少し練って、できるだけ「洗練された祭り」に仕立てた方が良い。
近々、市に提案してみます(^_^)v
子どもの頃、国鉄職員の私の家は貧しかった。
極貧と言うほどではなかったはずだが、子ども心には、貧しさだけが記憶に残っている。
漫画本を買ってもらえない、おもちゃを買ってもらえない、等々…
母は、いつも夜なべで、毛糸の編み物をしていた。
「ザーッ ザーッ」という編み機のうるさい音が子守歌代わりだった。
貧しさは、いつも比較、対比の中で感じるものだ。
私は平凡な子だったので、「清く 貧しく 美しく」というわけにはいかなかった。
母の実家は、酒、味噌、醤油などを商う商店だった。
駄菓子も商っており、時々もらえたので、夏休み中遊びに行っていた。
近所に年齢の近い子がいた。その子の家はかなり貧しかった。
その子といつも遊んでいたが、けんかになると、最後にはその貧しさを馬鹿にしていたらしい。
親が仕事から帰ってくると、その子の訴えを聞き、怒鳴り込んで来るので困ったという話を、
祖母はいつもしていた。
中学生になるくらいまで言われ続けたのには閉口した。
今にして思えば、「差別」の構造と似た意識が、子ども心にもあって、
自分より貧しい人を馬鹿にすることで、自分の貧しさ、辛さをごまかしていたのだと思う。
<近未来警察の交通取り締まり風景ト書き>
「違反者様、キップを切らせていただきます。一時停止の標識はご覧になりましたか?」
「あぁ、ここは視界を遮る物がないし、優先道路側の車が止まって、
「どうぞ」と合図をしたので、止まらずに通過したんですよ。」
「それでも、違反は違反なんですよ。あちらの車に移動していただけますか?
反則金は7,000円になります。コンビニでどうぞ(^_^)v」
警察で、「違反者様」、「犯罪者様」、などという時代は来るのだろうか?
介護施設を利用していると、「利用者様」という文面をときおり見させられる。
さすがに、直接口頭で「利用者様」と言われたことはない。
介護サービスが商売になったので、過渡的なお粗末だとは思うが、
慇懃無礼な言葉とは裏腹に、送迎時の態度を見ていると、意識は旧態依然である。
ちょっとでも「利用者様」が、ご意見、ご注意を申し上げると、
まず、自己弁護の言葉が間髪を入れずに出てくる。
滅多に、軽く(軽くでいいんだよ!)「すみません」とか「ごめんなさい」という言葉を聞かない。
ここまで書いてきたところで、デイサービスの施設から電話が入る。いつも今頃の時間だ。
「明日のご利用はいかがなさいますか?」
「お願いします」
「明日は、7時55分に伺います」
「はい、お願いします」
担当によって表現方法は少しずつ違う。
利用に当たって、施設側と利用契約を交わし、毎週火・木・土と決めてある。
もちろん、体調が悪く利用を取りやめるということもあるだろう。
利用を取りやめる人がいると迎えの時間がずれる。
私の家では、利用を中止したことは一度もないが。体調不安定な利用者もいるだろう。
たぶんこの電話の主は、100人くらいに電話をしているのだろう。
ほぼマニュアル通りという感じだ。
このような場合、マニュアル通りで、ほぼ、良いが、
1年以上、「利用するかしないか」毎回聞かれると、ちょっと気になる。
利用そのものは契約で決まっているので、
「明日のお迎え時間をお知らせします」で良いのではないか。
いずれ提案しようと思っている。
先日は、10分も早く迎えに来て、当然のような態度をしているので、
私は以前施設で働いていた。15人くらい送迎をしていた。
迎えにいったら、連絡なしの欠席者がおり、時間が狂うことがある。
その分、以降の人を早めに迎えに行ったら、
いつもの時間で準備している人を慌てさせてしまう。
そういう時は、外で何気なく待ち、予定の時間が近づいたら玄関のブザーを鳴らすなり、
その家の門口に向かっていた。という話をした。
いわれた担当者、黙って返事もしなかった。
「利用者様」が、毎度のことなので、ちょっと反省させてあげたいと、
意を決して申し上げたのだが、気を悪くさせてしまった。
こういうときの、利用者の状況・心境を、
「家族を人質に取られているから、言いたいことも言えない」状況、という。
福祉事業従事者は、良いことをしているという心持ちになりやすい。
常に自制心を働かせていないと、相手を傷つけるような態度、発言から自由になれない。
日曜日、新聞の書評欄を見て、駅ビルのかもじや本店に行った。
書名と岩波新書とだけ記憶して行ったので、すぐには見つからなかった。
もう一冊の「吉里吉里人」は、文庫版があったが、買わずに図書館で借りようと思いとどまり、
古河図書館に向かう。両方ともなく、「つつみ館」、「中央公民館」、
「中田公民館」にあることを確認、蛍の光が流れたので、帰宅した。
月曜日は図書館の休館日だったので、本日3館を訪ねた。
つつみ館では、「吉里吉里人」は貸し出し中、「はじめての手話」は、所定の場所になく、
手こずったが何とか見つかった。
WEB検索で「貸し出し中」の表示がないのは不親切な仕組みだ。
中央公民館で、やはりあるべきところになく、探してもらったところ、
図書の整理中のため別の場所にあった。
公民館近くのコーヒー店にて豆を300g購入。中田公民館に向かう。
駐車場が狭いので、少し離れた駐車場に車を止め、図書室に向かう。
「吉里吉里人」は、他の館と並べ方が微妙に違うので探すのに多少手こずった。
中央公民館で借りたのは、角川の新書「差別と日本人」。野中広務と辛淑玉の共著。
野中広務は、自民党の元幹事長などを歴任。
共に「被差別」、「在日朝鮮人」として、差別の当事者。
まず、「差別と日本人」から読み出した。
私は自民党出身者が書いた物を読むのは初めてと思う。
差別の当事者だから関心を持ったのだが、読み出したら面白い。
共産党も、解放同盟も嫌いという特異な立場をとる人。
信念の人でもあるらしい。
戦後の日本を良い意味でも悪い意味でも牽引してきた自民党出身者は、
今、福祉事業に携わっているそうだ。
政治の舞台裏をのぞく面白さもある。
障害者支援事業を行なっている「京都太陽の園」のHPには、
トップページに「世界人権宣言第1条」が掲げられていた。
「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と
権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、
互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。」
昨日朝、NHK第二ラジオを聞いていると、初めて聞く言葉が耳に入った。
ガイドヘルパー(移動支援)事業と重なる内容のようだが、
視覚障害者へのサービスをさらにきめ細かく支援する事業のようだ。
当事者(視覚障害者)からすれば、不十分な内容らしいが、
これまで認められなかった「代筆、代読」が盛り込まれた。
この事業に関連して、視覚障害者当人が発言していた。
JRの駅で、この度の節電騒ぎにより、ホーム、電車内が暗くなった。
視覚障害者にとっては照明を落とされたことで、とても怖い思いをした。
これを、駅員に話したところ、間もなく改善されたので、さっそくお礼を伝えに行った。
「要望があればいってほしい」と言われ、これまでとの対応の違いを感じた。
次に、エレベーター付近の照明が落ち、やはり自分にとっては危険であることを
伝えに行ったところ、これも間もなく改善された。
このように、個人の要望でも対応してくれるようになった。
以前は、問題があった場合、団体に持ち帰り、協議してから改善要求、
という形をとった。それでもなかなか改善されず、対応も今イチだった。
「思ったことは伝える」ことが必要だと考えるようになった。
事業者の側も代わり始めているのだろうか。まず、話を聞いてくれるようになった。
そして、個人の要望も、事業者内部で検討し、
すぐに対応してくれたという体験が続いた。
「当事者だから、言わなくちゃ」という気持ちになった。
これらは、「たまたま相手が良かったのではないか」とも思うが、「伝え続けた結果」、
「少しずつ、事業者、社会が代わり始めている」と捉えたい。
「ウォーキング」の分野でも、行政に通じないことがいくつかあるが、
「当事者だからわかることを、言い続ける」ことが大切だと、肝に銘じていこう。
玄関のドアホンがなった。「…、あぁ、Yさんだ」とわかる。
聾者宅の居間や台所には屋内信号灯があり、赤や黄色のランプが回転し来客を告げる。
今はこれにテレビドアホンが加わり、さらに便利になっている。
通常のドアホンは、音で知らせるものなので、1回押せば良い。
聾者宅の屋内信号灯は、押した時間にシンクロしているので、
短い回転だと気がつかないことがあるそうだ。
見て識別する装置のため、視界を外れていると来客がわからないのだ。
そのため、聾者はドアホンを押すとき、2~3回または、長めに押すことが多い。
(機種によっては、一押しで長めに回転、発光するものがあるかもしれない)
この長めに押す部分が、聾者の常識である。
聞こえる人の常識と、聞こえない人の常識がある。
一概に比較はできず、優劣もないが、
時として、人は自分の常識と違うと、優劣をつけたがる。
残念ながら、自分もこの習慣から自由ではない。
以前、聾者宅の在、不在は行ってみないとわからなかった。
先輩が、ミニファックスを市内の聾者宅に設置する事業を制度化した。
昭和57年頃のこと。
それからは確かめてから訪問することができるようになった。
もちろん、「子どもが熱を出した」、「これから相談に行っても良いか」
など、私の家に問い合わせることもできるようになった。
大きな進歩であった。
私が手話通訳(手話奉仕員)の資格を取得する以前の話である。
このミニファックスは、聴覚障害者に市の事業として貸与するもので、
手話ボランティアには貸与できないので、自腹で設置した。
当時はあまり考えもせず、聾者、私、ともに便利なので、
疑問にも思わなかったように記憶している。
「名もなく貧しく美しく」という映画が1961年(昭和36年)封切りだそうで、
第一次手話ブームといわれる。
その頃、聾者が救急車で運ばれた時、手話が通じないため手遅れとなり、
死亡したという記事が新聞に掲載され、その記事が火付け役となり、
全国に手話ブームがさらに広がったと、当時聞いた。
手話が通じないために困ることは無数にあると思うが、
昨日の例会では、感心したことがある。
新宿駅で、乗換に30分くらいの待ち時間ができたので、生ジュースの店に入った。
私が店を出るとき、Hさん夫婦が入れ替わりのように入ってきた。
私は、注文で困らないかなと、様子を見ていると、
店員が「氷はどうしますか?」と聞いている。
Hさんに手話で伝えようとすると、奥さんに「氷は?」と手話で聞いていた。
店員の「口形」をみて、わかったらしい。
私の通訳は必要なかった。
状況判断と、口の形を読むことで、難なく買い物をしている。
もっと複雑な用件の時はそうもいかないだろうが、
自力でのやりとりもかなりあるのだろう。
聞こえる人も聾者も、それぞれに持つ能力はまちまちで、障害や、
その他の違いでひとくくりにはできない。
そのことを常に心しながら付き合っていかねばと思う、今日この頃である。
古河市は、今回の台風で県内一の降水量だったと報道された。
その台風は、珍しい動きを見せ、太平洋沖に移動し、戻ってくることはなかった。
21日は、1800坂東市大会の下見を予定していたが、延期を余儀なくされた。
その下見予定日から二日目の今日、7月の例会を実施した。
21日、22日と涼しい一日だった。今日は朝の内こそ涼しかったが、
昼頃には夏らしい天候になった。
今回のコースはよくできたコースだった。都立武蔵野公園、
都立野川公園と野川に沿って歩き、深大寺でそばを食べ、
午後は井の頭公園近くの吉祥寺駅にゴールした。
歩行者の多いところでは、道路の片側に空きをつくる歩き方を求めたが、
なかなか難しい。おしゃべりに夢中になるとつい忘れてしまう。
誘導の仕方も少しずつ堂に入ってきたので、
あと1~2年も続ければ自然とできるようになるだろう。
不慣れな会員からの申しいれも、それとなく対応できるようになれば、
落ち着きのある団体歩行ができるようになると思う。
団体歩行は、歩行能力の違う会員が一緒に歩くので、
全員が歩くスピード、強度に満足することは難しいが、互いに、違いを認め、
いたわり合えるようになれば、団体歩行そのものを楽しめるようになるだろう。
また、スタッフも余裕のある洗練された誘導ができるようになれば、
全体として完成度の高い例会とすることができる。
明日からは、本格的な夏の暑さが戻ってくるらしい。
熱中症などに気をつけながら、炎天下、太陽をあびて歩くことで、
夏を乗り切る体力をつけていきたい。
原子力は、平和利用すれば、人間に輝かしい未来を与えてくれると信じて、
被爆国である日本は進んできた。
「作られたかもしれない国民の常識」の裏で、その国民の目を欺くようなことが、
日本、アメリカ両政府が時に個別に、ある時は一緒になって、画策してきたらしい。
科学の鬼っ子かもしれない「ウィキリークス」によって、
当の日本国民は知ることができるようになった。これは、喜ばしいことなのだろうか。
原子力はこのように危険だが、科学技術で制御しながらやっていくので、
認めてほしい、と、正直に言っていたら、国民はこの流れを選択しただろうか。
「人間の叡智は困難を乗り越えられる」、「原子力を制御することは可能」、
「あきらめないで」、「人間の可能性を信じ」て、
これらの肯定的な言葉をもっともっと並べたてて、
原子力の可能性を信じて進んでいくという、選択をするしかないのだろうか?
人間の未来というより、私の未来の射程の中で、原子力の是非なんて選びようもない。
いつか、私(たち?)の一票で選ぶことになるのだろうか。あまりに軽い一票で…