「同じように、良い行ないは、だれの目にも明らかですが、そうでないばあいでも、いつまでも隠れたままでいることはありません。」(25新改訳)
たいていの場合、私たちは自分の言った事をほとんど忘れるが、ちゃんとおぼえている人に出会って驚く事がある。それが良い事だったら嬉しいが、悪い事だと聞くのがつらい、誰でも身におぼえがあろう。
もし最後の審判の日、あらゆる人々が地上でした行ないが公平にさばかれるとしたら、神がすべてを記憶しておられるからだ。黙示録20章にあるいのちの書というのが、それではないだろうか。主は「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、・・・その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ10:42同)と言われた。嬉しいことではないか。
反対に極々小さな悪事でも、ふさわしい報いを受けるのだから、キリストの血による赦しをいただいておくことが絶対に必要である。「神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」(ヘブル6:10同)
[阿寒湖畔で]