「『しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために―。』そう言って、それから中風の人に『起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい』と言われた。」(マタイ9:6新改訳)
イエス・キリストは人の罪を永遠に赦すことができるただひとりのお方だ。この事実がほんとうにわかれば、すべての人は主の前に跪(ひざまづ)かざるを得ないであろう。▼公生涯の多くの場面で、主は「あなたの罪は赦された」と宣言し、神ご自身の栄光をお現わしになった。ご自分が十字架で死につつあるときさえ、一人の犯罪人に、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23:43同)と告げ、永遠に彼の罪を赦されたのであった。▼やがて主がふたたび地上においでになると、あらゆる民がみもとに集められ、右と左に分けられる(マタイ二五章)。そして一方は罪が赦され、もう一方は永遠の火に入れられる。なんという厳粛さであろう。ユダヤ人から非難され、神を冒瀆する者として十字架につけられた御方が、全人類ひとりひとりの永遠を決定される時が来るのである。私たちは地上にいる間に最後の審判を思い、真の備えをしなければならない。◆それにしても当時のユダヤ人指導者たち、つまり律法学者、パリサイ人たちの言葉と行為は悪辣(あくらつ)そのものである。中風の人を主が癒し、「あなたの罪は赦された」と言われると、それを共に喜ばずに、「この人(主イエスのこと)は神を冒瀆している」と非難した。自分たちを聖いとし、一般民衆を軽蔑していた氷のように冷たい人々であることがわかる。◆また、取税人、罪人といわれる下層階級の人たちとイエスが食事をしていると、「どうしてあなたがたの先生は汚れた人々といっしょに食事をするのか」とペテロたちに抗議した。律法学者やパリサイ人たちは、それらの人々を、まるでコロナウイルスやエボラウイルスに汚染されたかのように忌み嫌っていたことがわかる。霊の目で見れば、指導者たちこそ傲慢、冷酷という恐ろしい罪の病毒で心が冒されていたのであった。◆極めつきは、主が悪霊を追い出し、口のきけない人がきけるようになったとき、パリサイ人たちが、「彼(主のこと)は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と悪口を言ったことであろう。御聖霊を悪霊と言って冒瀆する、永遠にゆるされない罪を彼らは平気で犯していたとは、戦慄すべき光景である。私たちはこのような罪をどんなことがあっても犯してはならない。永遠にゆるされず、ゲヘナの火に落ちることが決定的だからだ。