しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <主のゆるしこそ>

2022-02-08 | 詩篇

「主よ あなたがもし不義に目を留められるなら 主よ だれが御前に立てるでしょう。しかしあなたが赦してくださるゆえに あなたは人に恐れられます。」(詩篇130:3,4新改訳)

このみことばも、あらゆる時代を通じ、人口に膾炙(かいしゃ)されて来た。ただし、人口といっても信仰者の口だが・・。▼出エジプトしたイスラエル民族は、シナイ山のふもとで、あまりにも峻厳な神の顕現に出会い、その聖に耐えられずにふるえおののいた。彼らは自分たちのうち、御前に立てる者はひとりもいないことを体験的に知ったのであった。ところが新約の時代になり、神ご自身が人となって地上に来られ、万人を赦す恩寵そのものとしての福音を呈示されたとき、人は旧約時代には想像もできなかったいのちの顕現を見たのだ。こうして、だれでも近づくことができ、触れ、交わることができるイエス・キリストという真理の啓示は全く違う恐れを私たちの中に引き起こした。それは旧約の恐怖ではなく、愛と救いの喜びがもたらす恐れである。いま天地に満ちているのはこの恐れだ。

罪を赦されたことから生じるおそれ、これを誰よりも強く抱いたのは使徒パウロであろう。彼はキリストに敵対し、大勢のキリスト者を迫害し、牢に入れ、死に至らしめた。彼のために傷を受け、家庭、生涯を破壊された人々は数えきれなかったかもしれない。「サウロ(パウロ)は家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して牢に入れた。」(使徒8:3同)▼神のさばきを受け、滅びに真っ逆さまに落ちても当然の行為をし続けたのである。だがダマスコへの道で天からのお声を聞き、自分が滅ぼそうとしていたお方が神ご自身であることを知ったのであった。そのとき、主イエスはパウロを聖なる怒りで打たれなかった。「わたしはあなたを異邦人への福音を伝える全権大使として遣わす」と、信頼のおことばをおかけになった。新約聖書のどこを見ても、主がパウロを「その犯した罪ゆえにせめておられる」箇所を見つけることはできない。それどころか、福音を宣べ伝える権威をすべてゆだね給うたのである。なんという「ゆるし」の大きさであろう。▼だから彼はキリストのため、異邦世界に福音を伝えるため、狂気のようになった。神の愛と信任が燃える炎のように彼を囲んだといえる。自分に臨んだ神愛の大きさ、広さを知れば知るほど、彼は夢中で走ったのだ。その結果、異邦人キリスト教会は彼の働きと愛と信仰を受け、今日まで存立できたといって過言ではない。根底にあるのは、神のゆるしの「圧倒的な広大さ」である。このゆるしが実に、私たちひとりひとりにも注がれているとは、何たる感動であろう。「そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように、そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ3:17~19同)▼この祈りはパウロの実体験から出た祈りにちがいない。