「主よ 私の心はおごらず 私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや奇しいことに 私は足を踏み入れません。」(詩篇131:1新改訳)
社会にはいろいろなことに没頭し、生涯を費やしている人たちが存在する。たとえば、宇宙を眺め、その構造を研究する人々、ある動植物の生態研究に全てをささげている人たちなど、千差万別である。▼それらが無駄とはいわないが、ソロモン王が記したことばを、常に心に刻みつけることが大切ではないだろうか。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道12:13同)▼人が地上に生きる一生は短く、有限だ。永遠に時間があるならまだしも、閃光花火のように消えてしまう束の間の生涯なのだ。それを自分の考えと関心だけに使うなら、あっという間に終わりが来て、全能者の前に出る時になり、あわてふためくであろう。▼謙遜な姿勢で主のおことばに聞き入ったベタニアのマリアだったが、そこで主が語られたことを心に留めたい。「無くてならぬものは多からず、ただ一つのみ、マリアは善きかたを選びたり。」(ルカ10:42文語)
本篇の作者・ダビデの生涯は波乱万丈だった(→サムエル記第一、第二)。王位にあった40年間はもちろん、その前の苦難の時期も思いがけないできごとの連続であり、彼自身「なぜ、どうして?」と自問する日々が続いたのではなかろうか。▼だが彼は、その原因を窮めようとしたり、あくまで真相を追求、探求したりはしなかった。ダビデがしたのは、そのたびに自分を選んでくださった神のいつくしみ、臨在のすばらしさ、日ごとに与えられる助けと守りの深さをほめたたえ、詩を作ることだったのである。つまり彼の視線は、周囲の嵐や波濤を突き抜け、天の宝座におられる愛の神に注がれていたのだ。偉大な神の王国の支配者となったが、彼は「母の前で乳離れした子」のように、神の前では無邪気に喜び躍った。そして人々はそれを見た。「ダビデは、主の前で力の限り跳ね回った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上げた。」(Ⅱサムエル6:14,15同)▼父なる神が今もキリスト者に望んでおられるのは、このダビデのような心に生きることだと思う。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16~18同)