「人の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は誉れをつかむ。」(箴言29:23新改訳)
謙遜の勧めと高ぶりへの警戒は聖書全体に満ちていて、その実例も枚挙にいとまがないほどだ。ダビデ王もネブカデネザル王も、高ぶった時、きびしく撃たれた。常時聖霊に満たされていた使徒パウロですら、高ぶりのわなにはまらないよう、神からトゲを与えられていた。▼高ぶりは反逆者サタンの生命であり、全き謙遜は三位一体の神の御本質である。神の愛、すなわち全き謙遜は、第二位の神が人間として現れたとき、私たちに見えるものとなった。このお方は小さく無力な赤子となってマリヤに抱かれ、ナザレの大工の子として成長し、人間社会の辛酸をなめつつ成長された。それだけでも驚くべきことなのに、あざけられ、捨てられ、十字架に犯罪人のごとくかけられて死んだ。太陽よりも輝き、私たちを聖火で焼き尽くして当然のお方が、反対に焼かれ、苦しみ、生きながらゲヘナに落ち、私たちがゲヘナに落ちるのを防ぐ壁となった。すべては神の御謙遜から出たことである。◆ローマの百人隊長コルネリオは使徒ペテロを自分の家に迎えたとき、「ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝んだ(尊敬してひれ伏した)」(使徒10:25同)と記されている。たしかに当時のユダヤ人からすれば、異邦人は汚れた存在であり、ふれることも交わることもしてはならなかった。しかし現実には、ローマがユダヤ人を支配し、その上に君臨していたのである。そこで、百人隊長という地位にあるコルネリオにすれば、ペテロに対し、頭を下げる必要などはなかった。むしろペテロが彼の前にへりくだるべきであった。◆しかし彼はペテロの前に奴隷と変わらない態度をとって迎えたのである。それはペテロをおそれたからではなく、神をあがめ、敬虔な礼拝者として生活していたからだ。つまり、「使徒を立てて用い、使徒の背後におられた神」に向かってひれ伏したのであった。このようなコルネリオの姿勢をごらんになって、神は異邦人で最初に聖霊に満たされるという祝福をお与えになった。神は心に高ぶる者を防ぎ、へりくだる者に恵みを与えたもう。この法則は今なお不変の法則である。