「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90:12新改訳)
詩篇第4巻は、「神の人モーセの祈り」で始まる。モーセはダビデより300年以上前の人なので、本篇は詩篇中いちばん古い歌である。▼「自分の日を正しく数える」とは、人生がいかにはかなく、花火のように束の間にすぎないかを悟ることで、それはエジプトの栄華を経験したモーセの実感でもあった。「朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます」(6)。▼40歳のとき、パロに追われた彼はミデヤンの荒野に逃げ、しがない羊飼いとなって40年を過ごした。これは私の想像だが、来る日も来る日も荒涼とした砂漠でしゅうとの羊を飼い、老い行く自らを眺めながら、人生の空しさ、はかなさを思って、いつしか神に向かい祈りをささげていたのかもしれない。羊の群れとともに放浪しながら・・・。ここに流れる寂しさ、神への恐れ、不安などは、そう考えるとよくわかる。ソロモン王も晩年、同じような感慨にふけった。伝道の書がそれだ。ふたりとも70代ではないかと思うと、暗示的である。▼それはともかく、神は私たちを愛する大いなる愛をもって、影のように飛び去る罪びとの中に、永遠のいのちであられるキリストを宿らせてくださった。「あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです」(Ⅰペテロ1:25同)と使徒ペテロが言うとおりである。かつて神はシナイ山にすさまじい嵐と火をもって降り、モーセとイスラエル人は震えあがった。その神が柔和な人の姿をとり、いのちのことばをもって来られると、誰が予想したろう。まして十字架に血を流し、そのいのちを信じる者に与えるとは夢想だにしなかったことである。ここにほんとうの知恵が出現した。▼「イエスは・・・祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。」(ルカ9:28~31同)