「この二部族と半部族は、ヨルダン川の、エリコをのぞむ対岸、東の方、日の出る方に、自分たちの相続地を受け取っている。」(民数記34:15新改訳)
ルベン、ガド、マナセ半部族の行動を見ていると、パウロのことばが浮かぶ。「犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。」(ピリピ3:2同)▼もし私たちが、キリストと共に十字架につけられ、古い人が死んだという経験を御霊によって握っていなければ、ヨルダン川を渡ることなしに満足したイスラエル人と同じ運命をたどることになるだろう。彼らは言うかもしれない。たしかに私たちはヨルダン川の東に居を構えた。しかし征服戦には参加したのだ。鎧を着て真っ先に突き進み、犠牲も払っている、と・・・。そうであろうか。▼家族や莫大な家畜といった財産は、戦いから遠く離れた安全な地域に置いた上での戦いではなかったのか。パウロはそのようなキリスト者たちを、「肉において外見を良くしたい者たち」(ガラテヤ6:12同)と呼んでいる。◆やがて私たちは天に携え挙げられる日を迎えるであろう。そこには、あらゆる時代とあらゆる地域から昇って来た信仰者たちがいる。もちろん殉教者たちもいるにちがいない。目をつぶされた人、手や足を切り取られた人、火中に投げ込まれた人、水に沈められて死んだ人、引き裂かれた人、潰された人など・・・。ありとあらゆるかたちで苦しめられ、拷問にあった人々はその印をもって、天に来るであろう。彼らは主をほめたたえ、感謝し、喜びと歓喜に包まれている。◆私たちは彼らに会うのだ。そのとき無傷で、からだに何一つ印を持たない人は恥ずかしくないのであろうか。私は彼らといっしょに主をほめたたえたい、と願う。せめて一つでよい、「私は主を精いっぱい愛させていただきました」という印を、一つで良いから、身につけていたい。「私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから。」(ガラテヤ6:17同)