「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。』」(3新改訳)<o:p></o:p>
これはバプテスマのヨハネのことを指す、と福音書は述べている。
自動車はわずか30センチの穴や突起物があったら、先に進むことができない。そのため、平らな道路が整備されてこそ性能を発揮できるのだが、それとおなじように神の栄光という自動車は谷を埋め、山を削って、平らなハイ・ウェイを整えたとき、そこを走ることができるのである。 谷を埋め、山を削るとは、神の前に真実の悔い改めという実を結ぶことを指す。だが今日、私たちキリスト者は悔い改めを安易に考え、救われたときにもう済んだと思っていないだろうか。ではなぜ、主がラオデキヤ教会に「熱心になって、悔い改めなさい。」(黙示録3:19同)と勧めておられるのか説明がむずかしい。ホーリネスの道、神の栄光の顕現の道は、悔い改めという道路工事から始まると知ろう。 「このようにして、主の栄光が現されると、すべての者が共にこれを見る。主の御口(みくち)が語られたからだ。」(イザヤ40:5同) [写真:ラベンダー畑]<o:p></o:p>