「主よ 悪者の願いをかなえさせず その企みを遂げさせないでください。彼らは高ぶっています。」(詩篇140:8新改訳)
少年時代に神からイスラエルの王として選ばれ、油注ぎを受けたダビデの生涯は、あなどられ、軽んじられる生涯ともなった。兄のエリアブは彼を軽視し、王サウルは手柄をたてたダビデを邪魔者にした上、いのちをねらい、家来ヨアブもダビデに逆らい、妻ミカルも夫ダビデを軽蔑し、最後には息子のアブサロム、アドニヤたちさえ反逆したのである。だがそこには深い摂理がこめられていた。▼すなわちダビデの一生は、その子孫、イエス・キリストの御生涯を預言的に物語る「ひな型」になっていたのだ。ダビデの子として現れたキリストこそ、万民の罪をその身に負い、一介のナザレ人として現れたとき、人々から嘲られ、捨てられ、どん底に落とされたお方であった。しかしそのことは反対に、人間というものが神の前にどれほど高ぶっている存在かを、天地にあきらかにする結果となった。▼こうして主イエスの御生涯を見るとき、私たちは初めて自らの罪深さを悟り、救いを求めて御前にひざまずく者となる。やがて来る永遠の御国には、謙遜という大気が満ちていることを、努々(ゆめゆめ)忘れてはならない。「二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。『主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。』」(黙示録4:10,11同)