しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <海の果てに住んでも>

2022-02-23 | 詩篇

「私が暁の翼を駆って海の果てに住んでも そこでもあなたの御手が私を導き あなたの右の手が私を捕らえます。」(詩篇139:9,10新改訳)

臨在の喜びを歌った詩篇で、詩篇の最高峰ともいえる。ダビデがこれほど深く神の臨在を洞察し、その中に入り浸っていたとは、驚きを通り越し、神への讃嘆しかことばに出ない。▼パウロはエペソ教会のために祈っているが、本篇はそれとつながっている感がする。「すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ3:18,19同)▼しばしば、新約の栄光は旧約のそれよりすぐれていると言われるが、キリスト者の中にもこれだけ深い霊性で神を賛美できる人は、たぶん存在しない。神の聖霊にとらえられたダビデ、その心の奥から歌い出されたインマヌエルの世界。古来おおくの信仰者たちが、この詩によって我を忘れ、主なる神をほめたたえたのは当然であった。それにしても、神の愛に占領され、その中に生きている人は幸いだ。それこそが永遠の昔から選ばれていた証拠にほかならないのだから。

本篇の13~16節は、イエス・キリストの受肉の神秘を詠(うた)っているのではないか?と私には思える。▼神の御ひとり子が一女性の胎に宿られた。神の限りない御知恵と御計りによってその肉体は造られ、組み立てられていった。そのみわざの執行者が御聖霊であられたのはもちろんである。罪を持つ人間の生命の中にあって、一点の罪もない全き人が造られて行く不思議さと無限の深さ、それはもはや私たちの理解や想像が到底およばない、またそんなことがゆるされない、神の栄光と叡智(えいち)の領域であった。このようにして、全世界をあがなうに足る完全なそなえもの、全き人、最後のアダムが世に出現したのである。▼イスラエル人たちは律法に従って、何百年ものあいだ無数の牛や羊を屠ってささげて来た。だが、ヘブル書が述べているように、それらは人間の罪とのろいを取り除き、きよめることはできなかった。が、ゴルゴタでただ一度ささげられたキリストのおからだといのちは、全世界の罪ののろいを永遠から永遠にいたるまで完全にきよめ、除いたのである。なぜか?イエス・キリストこそ、神ご自身が備えられた全きそなえものだったからである。こうしてみると、マリアに聖霊によって宿られた幼子のいのちは、どんな言葉でも十分には言い表わせない尊さと崇高さを持っていたことがわかる。今も世界中でクリスマスが祝われ、神がほめたたえられるのは当然ではないだろうか。▼御父の御心を喜び、ご自分を空しくしてそれに完全に従い、赤子の生命となって一女性に宿られた御子、そのご謙遜と信頼が栄光となって罪の世界に輝き渡る。まさに「光は闇の中に輝いた」のである。罪のため空しくなってしまった私たち人間の心と闇、その空しさをもうひとつの空しさが埋めた。というより、二つの空しさがひとつにされた。喜びと謙遜と従順、父への信頼という空しさで・・・。こうして私たちのすべてを支配していた罪による空しさは、人と成られた神により、喜び、従順、信頼に変貌してしまったのである。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17同)