「耕す者たちは私の背に鋤をあて 長いあぜを作ったが。」(詩篇129:3新改訳)
昔の戦争で捕虜になった者たちは道路に横に並べられ、その上を勝ち誇った兵士たちが行進した、といわれる。時には戦車で通ったのであろう。捕虜たちの背は轍(わだち)で傷だらけになったろうから残酷な話である。▼列王記や歴代誌を読むと、その歴史は周辺の国々との絶え間ない戦争の歴史であった。イスラエルが神に従っている間は勝利がもたらされたが、不信仰で堕落すると、たちまち侵略され、都エルサレムと約束の地はさんざん辱しめられた。そのたびに救い手が神に起こされて幾度も危機を脱したが、ついにバビロン捕囚となり、聖地からイスラエル民族は消え去ったのである。▼しかしそれから二千五百年、ふしぎにもイスラエルは今なお存在し、エルサレムも都として立っている。それは偶然ではなく、民族の優秀性によるのでもない。ただ、神がみことばによってそう約束されたからだ。二千年前、神の御子はこの都で十字架につけられ、それによって世界のあがないが成就した。そしてエルサレムから教会、すなわちキリストのはなよめが生まれ、やがてキリストの地上再臨となってエルサレムは世界の中心となるであろう。▼最後に古い天地が過ぎ去り、永遠の審判、新天新地の出現に至る。そこに神のもとから降るのはこひつじのはなよめ、新しい都エルサレムであり、かくして、救いが完成する。大礼拝、大感謝が天地に満ちあふれる日はそこまで迫った。その中心は神と人が一つに住まう永遠のエルサレム、宝石の都である。「私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。」(ヨハネ黙示録21:22~24同)