しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <長いあぜを>

2022-02-07 | 詩篇

「耕す者たちは私の背に鋤をあて 長いあぜを作ったが。」(詩篇129:3新改訳)

昔の戦争で捕虜になった者たちは道路に横に並べられ、その上を勝ち誇った兵士たちが行進した、といわれる。時には戦車で通ったのであろう。捕虜たちの背は轍(わだち)で傷だらけになったろうから残酷な話である。▼列王記や歴代誌を読むと、その歴史は周辺の国々との絶え間ない戦争の歴史であった。イスラエルが神に従っている間は勝利がもたらされたが、不信仰で堕落すると、たちまち侵略され、都エルサレムと約束の地はさんざん辱しめられた。そのたびに救い手が神に起こされて幾度も危機を脱したが、ついにバビロン捕囚となり、聖地からイスラエル民族は消え去ったのである。▼しかしそれから二千五百年、ふしぎにもイスラエルは今なお存在し、エルサレムも都として立っている。それは偶然ではなく、民族の優秀性によるのでもない。ただ、神がみことばによってそう約束されたからだ。二千年前、神の御子はこの都で十字架につけられ、それによって世界のあがないが成就した。そしてエルサレムから教会、すなわちキリストのはなよめが生まれ、やがてキリストの地上再臨となってエルサレムは世界の中心となるであろう。▼最後に古い天地が過ぎ去り、永遠の審判、新天新地の出現に至る。そこに神のもとから降るのはこひつじのはなよめ、新しい都エルサレムであり、かくして、救いが完成する。大礼拝、大感謝が天地に満ちあふれる日はそこまで迫った。その中心は神と人が一つに住まう永遠のエルサレム、宝石の都である。「私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。」(ヨハネ黙示録21:22~24同)


朝の露 <幸いなことよ>

2022-02-03 | 詩篇

「主がシオンからあなたを祝福されるように。あなたはいのちの日の限り エルサレムへのいつくしみを見よ。あなたの子らの子たちを見よ。イスラエルの上に平和があるように。」(詩篇128:5,6新改訳)

主をおそれ、主の道を歩む人々が受ける祝福を歌った詩篇である。イスラエルの人々にとり、主の祝福を受けることはエルサレムに上り、神を礼拝する生活を意味していた。なぜならそこにある神殿で犠牲をささげることが律法に命じられていたからである。年に七回の祭礼もそこで行われ、全国どころか世界中の選民たちはこの都に上ることが習慣だったからだ。ヨセフとマリアもこどもたちを連れて毎年エルサレムで行われる祭りに上った。むろんそこには少年イエスもおられたことが福音書に記されている。▼千年王国になると、世界中の人々がエルサレムに詣で、平和の王として座に着いておられるイエス・キリストを礼拝する、とイザヤ書やミカ書が預言している。「終わりの日に、主の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。多くの民族が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を歩もう。』それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。」(イザヤ2:2,3同、→ミカ4章)▼地上から呪いがなくなり、自然界は祝福され、海のように平和が地をおおい、人の寿命も木のように長くなるとあるから、いかにすばらしい地球に変わることか想像もできない。今日でも、生活の中心に主イエスを据え、敬虔な日々を送るなら、豊かさと平和と喜びがその人の家に満ちるであろう。それは来るべき千年王国の予型となる。私たちの内面、生涯の歩みすべてにおいて、「イエス・キリストという山」が何にもまさって高くそびえているだろうか。そこへ礼拝しに上ることが、あらゆる生活の中心になっているであろうか。

 


朝の露 <主がおられてこそ>

2022-02-02 | 詩篇

「主が家を建てるのでなければ 建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ 守る者の見張りはむなしい。」(詩篇127:1新改訳)

私たちが聖日ごとに行っている礼拝ひとつ取り上げても、主と主が遣わされた御使いたちの守りがなければ、いかに空しいものになってしまうことか。▼まして新型コロナ・ウイルスが蔓延し、集まることが日々むずかしさを増している昨今である。御聖霊がそこに満ちておられるからこそ、礼拝は礼拝たり得るのだ。その事実に心から感謝し、敬虔をつくして主への礼拝をささげなければならない。時間が来て席に着いた時、入り口に御使いが立ち、教会の周囲を天から来た御使いたちが見守っていることを信じたい(詩34:7)。そして講壇から語っておられるのは、説教者というより主ご自身であることも信じたい。そうしてこそ、一生に一度しかない「その年、その月、その日の礼拝」がこの上なく貴重なものになる。というのは、もしかすると今日の礼拝が自分にとり、地上で最後になるかもしれないからだ。

本篇の標題には「ソロモンによる」と付加文がある。言うまでもなく彼は壮麗なソロモン神殿をエルサレムに建立した人物だ。その本人が1節を歌っているのはひじょうに意味深いと思う。▼私は30代の頃、教会堂建築に携わったことがある。といっても会員全体が力と財をささげ、私は牧師としてそこに居合わせたにすぎなかったのだが・・。苦心の末、当時としては立派な会堂が建ったのだが、ある日の夕方、出来上がった建物をひとりでながめていたとき、「教会の生命線は建物ではない、そこにおられる臨在の主にこそあるのだ」との非常に強い思いが急にこみ上げてきたのだった。ソロモンの伝道の書には、「むなしい」との表現が多く出ている。彼ほど空前の繁栄をものにした人はいなかったのに、むしろ彼はそうであればあるほど、逆の思いに支配されていたことがわかる。▼さすがにソロモンとは比較にならぬ私だが、目に見える大きな物が立ちはだかったとき、私は反対に目に見えない方の現臨の言い知れない厳粛さに目が開かれた思いになったのであった。その確信は50年経った今も変わることはない。教会・エクレシアは全能の神がそこにおられることがすべてである。父御子御霊の神がおられなければ、建物はただの倉庫と変わらない。またどんなに人が集まっても、神がおられなければ「ただの集まり」にすぎない。コンサートか野球のスタジアムとおなじである。▼反対に、たとえ二、三人であっても主があがめられ、臨在しておられれば、そこには「神の国」が姿を現している。限りなき満足と天の喜びがある。あのエマオ村の宿で夕食のテーブルに座った三人、そのひとりが天を見上げて感謝し、パンを裂いて向かいのふたりに渡した時、その目が開かれ、「あなたはイエス様!」と叫んだのであった(ルカ24章)。私はここに地上の教会の本質があると思う。このおどろきと感激が各自の心に生じている、そのような礼拝、集会がどこにでもくりひろげられていたら、どんなに幸いであろうか。願わくば、日本中の教会の礼拝がこのようになりますように!

 


朝の露 <喜びの叫びで>

2022-02-01 | 詩篇

「そのとき私たちの口は笑いで満たされ 私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき諸国の人々は言った。『主は彼らのために大いなることをなさった。』」(詩篇126:2新改訳)

ユダヤ人はペルシャ王クロスの解放令により、バビロン捕囚から七〇年経て聖地に帰還することができた。本篇はその喜びを歌ったものとして有名である。彼らのエルサレムと聖地に対する思い入れは異邦人の私たちが想像できないほど熱く、深い。「私たちは夢を見ている者のようであった」(1)との表現はそれを示している。▼神がなさることはすべて時にかなって美しく、見事としか言いようがない。その美しさは神の御真実から出ている。預言者エレミヤが捕囚は七〇年で終わると預言していたが、はたしてその通りに歴史は動いた。神を知らない世界帝国の王が、その預言の実行者になったとはおどろきである。▼私たちも人生のさまざまな局面にあって、絶望と見える状況に落ちることがあるかもしれない。だがそのようなとき、あわてず、涙とともに「祈りの種」を蒔き続けようではないか。そうすれば、かならず喜び叫びながら収穫する時が来るだろう。神は真実な御方なのだから・・・。

ダニエル書には次のように記されている。「メディア族のクセルクセスの子ダレイオスが、カルデア人の国の王となったその元年、すなわち、その治世の第一年に、私ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。」(ダニエル書9:1,2同)▼エレミヤ書はバビロン捕囚のとき完成し、ダニエルが読んだのは70年後であるから、エレミヤ本人は生きていない。おそらく幾つもの写しが作られ、捕囚民の社会に流布していたのであろう。当時は手で書記が写したのだから多くはなかったであろう。王宮にいるダニエルに渡るのに70年かかったのはそのためと考えられる。とにかく、それを読んだダニエルはエルサレムが回復するときが来たのを知ったのであった。「まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。・・・わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』」(エレミヤ29:10~14同)▼こうしてダニエルはエルサレムとユダヤ人民族回復のために涙の祈祷をささげ、神はその答えとして捕囚民の帰還を実現させ、それとともに世の終わりに起きるできごとを壮大な黙示として彼にお与えになったのであった。じつに神がなされることは雄大無比、ときにかなって美しく、知恵と栄光に満ちている。そのみわざは全世界のあらゆる民族、世代、万民にまで及ぶ一大摂理の御手であり、そこから漏れる者はひとりとしていない。もちろん21世紀の現代に生きる我々も、何民族であろうと、何階級であろうと、ことごとく神に知られ、髪の毛一本まで数えられ予知されており、すべてが全能者の御計画通り運ばれている。▼偉大なるかな天の父、奇しきかなキリストのみわざ、深遠なるかな聖なる御霊、ただ地にひれ伏し、すべてのすべてを神におささげしたい。

 

 

 


朝の露 <心の直ぐな人々>

2022-01-31 | 詩篇

「主よ 善良な人々や心の直ぐな人々に いつくしみを施してください。」(詩篇125:4新改訳)

善良な人々や心の直ぐな人々とは、救われて新しく生まれ変わり、御霊とともに歩む者を指している。▼すべての人は罪を犯し、神の義に届かない状態にあるから、本質的には善良でも正直でもありえない。しかし主の救いにあずかれば、「キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました」(Ⅰコリ1:30同)という状態になるので、はじめて善良で素直な性質を宿すことができるのである。▼イエス・キリストは御霊により信仰者の内に宿られるので、救われて御聖霊の内住を体験した人が、真に善良な人だといえる。その意味で御霊と共に歩む生涯ほど幸せなものはない。彼には毎日天から御使いが派遣され、山々がエルサレムを囲むように(本篇2節)保護されるので、どのように厳しく困難な事態になっても平安と喜びで過ごすことができる。「主に信頼する人々はシオンの山のようだ」(本篇1節)とは、それを象徴的にあらわしたものといえよう。▼ペテロはヘロデ王によって牢に入れられ、死刑の判決を受けた(使徒12章)。だが全き平安のうちに熟睡していた。そして御使いによって奇蹟的に救い出されたのだった。同じ主が今も私たちと共におられるとはなんという感謝であろう。

私は今、三方を山々に囲まれた静かな町に住ませていただいている。南のほうだけが平野として開け、海に面していて、そこに注ぐ川がゆったりと流れている。といっても河口までは12、3キロほどあるのだが・・・。その山々は高くても300メートルほどで険しくなく、実に穏やかな風景だ。▼冬、春、夏、秋と山はそれぞれの色調を帯び、きれいで味わい深く、見飽きることがない。ちょうどそのように、天の父は私たちにいつくしみのまなざしを注ぎ、その命を受けた御使いたちが教会の回りを山々のように囲んで、いつも保護していてくれる。信仰の目にはそのことが信じられるのである。クリスチャンほど幸せで安心な人々はいないと思う。なぜなら青空を仰ぐとき、そこに天の宝座や天使たちの存在を意識し、山々をながめて創造主をほめたたえる気持ちが生じる、そういう毎日を送ることができるからである。▼かつて二千年以上も前、都上りの歌を編んだ人々も同じ霊性だったのであろう。だから詩篇を味わっていると、あたかもその人たちと肩を組んで賛美しながらエルサレムに向かっているような気持ちになる。もちろん、やがて天に行ったときは実際に光の中で彼らと一緒になり、大賛美、大礼拝を献げるのである。