「ハレルヤ 主はまことにいつくしみ深い。主の御名にほめ歌を歌え。その御名は実に麗しい。」(詩篇135:3新改訳)
この二千年、イエス・キリストの御名ほど賛美され、ほめたたえられて来たものはない。そのいつくしみにより、数えきれない人々が悲しみと苦しみの生涯から救い出され、喜びに入れられた。それは今も世界のすべての地域において休みなく続けられ、広がり続けている。▼天においてもそのとおりである。地上よりもはるかに大きく広く、高く深く、ありとあらゆる存在がキリストの御名をほめ歌い、父なる神に栄光を帰している。すでに三百年前、チャールス・ウェスレーは歌った。「ああ言葉のかぎり歌わまほし、主イエスの栄えと愛と恵み」と。人々はなし得るかぎりの美しい言葉を用いて神の子羊をほめたたえてやまなかった。▼二一世紀の現在も、天地が賛美で揺れ動いている。誰もどのような力も、キリストの御名という洪水を止めることはできない。そのいつくしみは天地宇宙に満ちているのだから。
思えば、現在の人間、80億近い人々は大洪水後、ノアの3人の子どもたちから増え広がった。まちがいなく私たちは兄弟姉妹である。その兄弟たちが地球上で殺し合っている。憎しみ、争い、不信と裏切り、武器の開発と製造競争、不道徳と偶像礼拝、淫行、考えられる限りの罪悪にふけり、つかみ合いの闘争をしている。▼この事実を、おかしいと思わなければならない。なぜこのようなのか?と考えて当然ではないだろうか。だが、人はそこに思いを向ける余裕もなく争い、走り回り、攻撃し合いながら短い生涯を終えて世を去って行く。ヤコブは言う、「あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします」(ヤコブ書4:1,2同)と・・。▼だからすべての人は、自己の内にある欲望の存在に目が開かれる必要がある。なぜなら個人の欲望が発展集計されると国家の欲望となり、国家が衝突して戦争になるからだ。しかしそれだけで十分ではない。人の欲の背後にある淵源者の正体に気がつく必要がある。そうしていくと人を欲から真に解き放ってくれる存在者に初めて目が開かれるのだ。こうしてイエス・キリストの贖罪死に私たちはたどり着くのである。「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13同)▼人でも国家でも、どんな集団でも、キリストの十字架に至らなければ欲から自由にはなれない。すなわち罪性から自由になることはできない。人は罪性と呪いから自由にされなければ、欲望を正当化する。そして欲望を正義の女神にそっくりすり替える。こうして戦い、争い、戦争は正義のそれになるのである。十字架は欲望と呪いと罪と、その後ろにいる者をすべて白日のもとにさらした。だからゴルゴタに死なれたお方のもとに来るとき、人は初めて心から欲望が止み、真の平和を享受することがゆるされるのである。