しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <主の御名にほめ歌を>

2022-02-16 | 詩篇

「ハレルヤ 主はまことにいつくしみ深い。主の御名にほめ歌を歌え。その御名は実に麗しい。」(詩篇135:3新改訳)

この二千年、イエス・キリストの御名ほど賛美され、ほめたたえられて来たものはない。そのいつくしみにより、数えきれない人々が悲しみと苦しみの生涯から救い出され、喜びに入れられた。それは今も世界のすべての地域において休みなく続けられ、広がり続けている。▼天においてもそのとおりである。地上よりもはるかに大きく広く、高く深く、ありとあらゆる存在がキリストの御名をほめ歌い、父なる神に栄光を帰している。すでに三百年前、チャールス・ウェスレーは歌った。「ああ言葉のかぎり歌わまほし、主イエスの栄えと愛と恵み」と。人々はなし得るかぎりの美しい言葉を用いて神の子羊をほめたたえてやまなかった。▼二一世紀の現在も、天地が賛美で揺れ動いている。誰もどのような力も、キリストの御名という洪水を止めることはできない。そのいつくしみは天地宇宙に満ちているのだから。

思えば、現在の人間、80億近い人々は大洪水後、ノアの3人の子どもたちから増え広がった。まちがいなく私たちは兄弟姉妹である。その兄弟たちが地球上で殺し合っている。憎しみ、争い、不信と裏切り、武器の開発と製造競争、不道徳と偶像礼拝、淫行、考えられる限りの罪悪にふけり、つかみ合いの闘争をしている。▼この事実を、おかしいと思わなければならない。なぜこのようなのか?と考えて当然ではないだろうか。だが、人はそこに思いを向ける余裕もなく争い、走り回り、攻撃し合いながら短い生涯を終えて世を去って行く。ヤコブは言う、「あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします」(ヤコブ書4:1,2同)と・・。▼だからすべての人は、自己の内にある欲望の存在に目が開かれる必要がある。なぜなら個人の欲望が発展集計されると国家の欲望となり、国家が衝突して戦争になるからだ。しかしそれだけで十分ではない。人の欲の背後にある淵源者の正体に気がつく必要がある。そうしていくと人を欲から真に解き放ってくれる存在者に初めて目が開かれるのだ。こうしてイエス・キリストの贖罪死に私たちはたどり着くのである。「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13同)▼人でも国家でも、どんな集団でも、キリストの十字架に至らなければ欲から自由にはなれない。すなわち罪性から自由になることはできない。人は罪性と呪いから自由にされなければ、欲望を正当化する。そして欲望を正義の女神にそっくりすり替える。こうして戦い、争い、戦争は正義のそれになるのである。十字架は欲望と呪いと罪と、その後ろにいる者をすべて白日のもとにさらした。だからゴルゴタに死なれたお方のもとに来るとき、人は初めて心から欲望が止み、真の平和を享受することがゆるされるのである。

 


朝の露 <シオンからあなたを>

2022-02-15 | 詩篇

「天地を造られた主が シオンからあなたを祝福されるように。」(詩篇134:3新改訳)

キリスト者にとり、シオンとはパレスチナのエルサレムというより、父なる神の右に着座された大祭司キリストの御座を意味する。▼ペテロたちは主の十字架の後、オリーブ山で天に昇って行かれる御姿を目撃した(使徒1章)。そして神の右に上げられたイエスから御聖霊が注がれることを体験したのである。使徒の働きを読むと、天と地が一つになって輝かしい宣教のみわざが進められていくのを、誰もが認めないわけにいかなくなる。それほどに初代教会は天の宝座を間近に見ていたのであった。▼今日もこの光景は変わっていない。第三の天にある御父と御子のシオンから、御聖霊はいのちの河となって地上に滔々(とうとう)と流れ下っている。そしてこの河が流れて行く所、どこででも人々は生かされ、悩み苦しむ者は救い出され、砂漠のような荒地はうるおいに満ちた園と変わる。信仰復興のみわざが時と場所は違っても、世界で続いていると私は信じる。▼願わくは現代日本の教会もこの流れに呑みつくされ、初代教会の再現となるように。

<来たれ友よ共にイエスの>

①来たれ友よ共にイエスの  みくらの回りを楽しき声もて  歌い巡らん 巡り歌わん

②歌をこばむ人もあれど  み国の世継ぎは歌わであるべき  恵み深き 主なるイエスを

③シオンの山を流れ下る  み国の幸なる恵みに浴して  進む道は 楽しきかな

④涙かわき歌尽きざる  み国へ導くインマヌエルの道  歌い進まん 進み歌わん

(折返し) 歌い進まん 天つ家を指して  いざ歌い進まん  シオンのみやこへ

                                                                                           <新聖歌154 詞:Isaac Watts,1674-1748>

 

 


朝の露 <まことの神殿>

2022-02-10 | 詩篇

「主のために一つの場所を ヤコブの力強き方のために 御住まいを私が見出すまでは。」(詩篇132:5新改訳)

ダビデほど神殿を建てたいとの熱情を抱いた王はいなかった。彼は夜も眠らないで神のお住まいになる所を求め、ついにエルサレムという場所を見出したのであった。神はその願いを受け入れ、息子ソロモンによって神殿を建立したのだが、じつはその本体こそ人となられた神、イエス・キリストである。神のひとり子はからだを持ち、地上に現れたのであり、そのおからだこそ父なる神が永遠にお住まいになる絶好の宮となった。▼主はユダヤ人たちに、「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」(ヨハネ2:19同)と仰せられたが、ヨハネはそのことばについて、「イエスはご自分のからだという神殿について語られたのである」(同21)と説明している。▼このおからだはやがて、永遠の都エルサレムとして出現する。それは都であると同時に神殿であり、キリストのおからだにほかならない。そこに住む人々は幸いなるかな。「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。『見よ、神の幕屋が人とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。』・・・私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。」(黙示録21:2~23同)▼新天新地に入る者は、子羊のいのちの書に記されている人々であるが、そのうち、新エルサレムの住民となる者たちこそキリストの花嫁と呼ばれる人たちであろう。パウロはコリント教会の人々に送った手紙の中で、「私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させた」(Ⅱコリント11:2同)と述べている。すべてのキリスト者はこの花嫁にさせていただくことを生涯の目標とすべきではないだろうか。これこそが究極の幸せ、喜びだからである。

 

 


朝の露 <おごらず高ぶらず>

2022-02-09 | 詩篇

「主よ 私の心はおごらず 私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや奇しいことに 私は足を踏み入れません。」(詩篇131:1新改訳)

社会にはいろいろなことに没頭し、生涯を費やしている人たちが存在する。たとえば、宇宙を眺め、その構造を研究する人々、ある動植物の生態研究に全てをささげている人たちなど、千差万別である。▼それらが無駄とはいわないが、ソロモン王が記したことばを、常に心に刻みつけることが大切ではないだろうか。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道12:13同)▼人が地上に生きる一生は短く、有限だ。永遠に時間があるならまだしも、閃光花火のように消えてしまう束の間の生涯なのだ。それを自分の考えと関心だけに使うなら、あっという間に終わりが来て、全能者の前に出る時になり、あわてふためくであろう。▼謙遜な姿勢で主のおことばに聞き入ったベタニアのマリアだったが、そこで主が語られたことを心に留めたい。「無くてならぬものは多からず、ただ一つのみ、マリアは善きかたを選びたり。」(ルカ10:42文語)

本篇の作者・ダビデの生涯は波乱万丈だった(→サムエル記第一、第二)。王位にあった40年間はもちろん、その前の苦難の時期も思いがけないできごとの連続であり、彼自身「なぜ、どうして?」と自問する日々が続いたのではなかろうか。▼だが彼は、その原因を窮めようとしたり、あくまで真相を追求、探求したりはしなかった。ダビデがしたのは、そのたびに自分を選んでくださった神のいつくしみ、臨在のすばらしさ、日ごとに与えられる助けと守りの深さをほめたたえ、詩を作ることだったのである。つまり彼の視線は、周囲の嵐や波濤を突き抜け、天の宝座におられる愛の神に注がれていたのだ。偉大な神の王国の支配者となったが、彼は「母の前で乳離れした子」のように、神の前では無邪気に喜び躍った。そして人々はそれを見た。「ダビデは、主の前で力の限り跳ね回った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上げた。」(Ⅱサムエル6:14,15同)▼父なる神が今もキリスト者に望んでおられるのは、このダビデのような心に生きることだと思う。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16~18同)

 

 


朝の露 <主のゆるしこそ>

2022-02-08 | 詩篇

「主よ あなたがもし不義に目を留められるなら 主よ だれが御前に立てるでしょう。しかしあなたが赦してくださるゆえに あなたは人に恐れられます。」(詩篇130:3,4新改訳)

このみことばも、あらゆる時代を通じ、人口に膾炙(かいしゃ)されて来た。ただし、人口といっても信仰者の口だが・・。▼出エジプトしたイスラエル民族は、シナイ山のふもとで、あまりにも峻厳な神の顕現に出会い、その聖に耐えられずにふるえおののいた。彼らは自分たちのうち、御前に立てる者はひとりもいないことを体験的に知ったのであった。ところが新約の時代になり、神ご自身が人となって地上に来られ、万人を赦す恩寵そのものとしての福音を呈示されたとき、人は旧約時代には想像もできなかったいのちの顕現を見たのだ。こうして、だれでも近づくことができ、触れ、交わることができるイエス・キリストという真理の啓示は全く違う恐れを私たちの中に引き起こした。それは旧約の恐怖ではなく、愛と救いの喜びがもたらす恐れである。いま天地に満ちているのはこの恐れだ。

罪を赦されたことから生じるおそれ、これを誰よりも強く抱いたのは使徒パウロであろう。彼はキリストに敵対し、大勢のキリスト者を迫害し、牢に入れ、死に至らしめた。彼のために傷を受け、家庭、生涯を破壊された人々は数えきれなかったかもしれない。「サウロ(パウロ)は家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して牢に入れた。」(使徒8:3同)▼神のさばきを受け、滅びに真っ逆さまに落ちても当然の行為をし続けたのである。だがダマスコへの道で天からのお声を聞き、自分が滅ぼそうとしていたお方が神ご自身であることを知ったのであった。そのとき、主イエスはパウロを聖なる怒りで打たれなかった。「わたしはあなたを異邦人への福音を伝える全権大使として遣わす」と、信頼のおことばをおかけになった。新約聖書のどこを見ても、主がパウロを「その犯した罪ゆえにせめておられる」箇所を見つけることはできない。それどころか、福音を宣べ伝える権威をすべてゆだね給うたのである。なんという「ゆるし」の大きさであろう。▼だから彼はキリストのため、異邦世界に福音を伝えるため、狂気のようになった。神の愛と信任が燃える炎のように彼を囲んだといえる。自分に臨んだ神愛の大きさ、広さを知れば知るほど、彼は夢中で走ったのだ。その結果、異邦人キリスト教会は彼の働きと愛と信仰を受け、今日まで存立できたといって過言ではない。根底にあるのは、神のゆるしの「圧倒的な広大さ」である。このゆるしが実に、私たちひとりひとりにも注がれているとは、何たる感動であろう。「そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように、そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ3:17~19同)▼この祈りはパウロの実体験から出た祈りにちがいない。