【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「トランスフォーマー」:南池袋三丁目バス停付近の会話

2007-08-05 | ★池86系統(東池袋四丁目~渋谷駅)

「ぬかりや」ってぬかりがあるってこと?
いや、「ぬかり、いや」。つまり、ぬかりがないってことじゃないか?
なんか変わった名前の病院よね。
でも、世の中には「うめない(梅内)産婦人科」とか「いたい(板井)歯科」なんて名前の病院もあるらしいぜ。
そういう意味とは違うけど、「トランスフォーマー」に出てくるロボットたちも相当変な名前よね。
そうか?
だって、「オプティマス・スライム」とか「バンブルビー」とか「ディセプティコン」とか「スコルボノック」とか言われたって、どれがどれだか一般常識人にはわからないわよ。
そこで拒否反応を起こすか、かっこいい名前じゃんと思うかが、この映画の評価の分かれ目だな。
もちろん、あなたはかっこいいと思ったんでしょ。
よくわかったな。
わかるわよ。あなたの小学生レベルの言動を見てれば。
いやいや、こういう映画を観るときは、頭を小学生レベルにしたほうが楽しめるんだよ。
あのね、私が言ってるのは、日ごろのあなたの言動よ。いい年してカレーうどんを食べるときは必ずズボンにしみをつけたり、電車で隣に座った男の子のマンガをのぞきこんで笑ったり。いいおとながすることじゃないわよ。
そんな細かいこと言ってるから、こういう映画が楽しめなくなるんだぞ。
って、この映画のどこをどう楽しめって言うのよ。ここまで人間ドラマの薄っぺらな映画を久しぶりに観たわ。車がロボットに変わって戦うだけの映画。
そのぶん、トランスフォームはこれでもかっていうくらい楽しめた。題名に偽りなし。DVDになったらひとコマひとコマ確かめたいくらいだ。
なんとも大仰なトランスフォーム。でも、歌舞伎役者じゃあるまいし、何であんなに大仰にトランスフォームしなきゃいけないのか、全然わからない。むだにエネルギーを使ってるだけじゃない。
そういう風に現実的に観ちゃいけない映画なんだって言ってるだろ。男子の心を揺さぶるにはいかにメカニックな雰囲気が出ているかどうかだけが肝腎なんだから。
そうね。冷静に鑑賞しちゃうおとなには向かない映画ね。「レミーのおいしいレストラン」とか「河童のクゥと夏休み」とかおとなも楽しめる子ども向け映画もたくさんあるけど、これはもう文字通り子ども、というか男の子向け企画以外の何ものでもないわね。
男子と男子の心を持った男たちの映画だ。Boys and boys at heart。
というか、男子とおとなの心を持たない男たちの映画よね。変身ロボットのシーンを除けば、とってつけたようなドラマと底の浅いジョークしかなんだから。
そこが潔いんじゃないか。人を選ぶ映画だってことだ。
私は選ばれなくて結構よ。
おいおい、そんな狭い了見でどうするんだ。将来、男の子の気持ちがわからない母親になったら問題だぞ。そのへん、ぬかりのないように今のうちにちょっと医者にでも相談に行ってみたらどうだ?
ぬかりやレディースクリニックとか?
うめない産婦人科とか。


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「河童のクゥと夏休み」:池袋駅東口バス停付近の会話

2007-08-04 | ★池86系統(東池袋四丁目~渋谷駅)

池袋って西武線の始発駅なんだよな。
じゃあ、ここから電車に乗れば東久留米まで行ける?
ああ、行けるけど、それが何か?
東久留米って、「河童のクゥと夏休み」の舞台になった町なのよ。
じゃあ、黒目川っていうのも実在するのか。
もちろん。
それじゃあ、河童も実在するってことか。
さあ、それはどうかしら。
予告編を観てると、プレステの「ぼくの夏休み」みたいな雰囲気で、都会の男の子が田舎で河童と出会って愉快な時間を過ごしました、っていうのどかな映画かと思ったんだけど、ずっと現実的でシビアな映画だった。
のっけから江戸時代のちょっと残酷なシーンだもんね。あれ、時代劇だったの、と思ったけど、そうじゃなくて、江戸時代の河童が現代に蘇ったっていう設定だった。
そこがミソで、江戸時代の河童が持つ、いまや日本人が忘れてしまった礼儀正しさとか恩義を感じる気持ちとかがとても新鮮に映る。
一方で、クゥに向ける現代人の好奇の目が暴力的ですごいのよね。
実際、アザラシのタマちゃんにしろ何にしろ、マスコミの傍若無人な追いかけ方はすごかったもんな。口をきく河童が現れたなんてなったら日本国中すごいフィーバーだろうことは容易に想像できる。
予告篇には全然出てこなかったけど、このあたりまったくメルヘンとはほど遠く、相当リアリスティックに描写してる。
そんなこともあって河童のクゥはとうとう安住の地を求めて旅に出る。
人間と河童はやっぱり住む世界が違うってことね。
そこがアメリカの「レミーのおいしいレストラン」とかと日本の「河童のクゥ」と違うところだな。
どうして?
レミーのおいしいレストラン」の結末はネズミが人間と仲良くやっていく。しかもネズミが人間世界で安住することに悩むこともない。それに対し、「河童のクゥと夏休み」は河童と人間は距離を置くべきだっていう結末になっている。
動物と人間の関係を楽観的にみているのがアメリカで、相当厳格にみているのが日本てこと?
そこまで割り切っていいのかどうかわからないけど、「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」のような日本のアニメには、動物とか自然と人間界とは越してはならない一線がある、みたいな思想がチラチラするんだけど、アメリカの映画にはそういうところがあまり見受けられない。
アメリカのアニメは技術が目を見張るほど進化し、日本のアニメは考えさせるほど思想が深化しているっていうふうにも見えるわね。
わからないけど、実はこの映画の真髄は「殯の森」にも通じるような深遠なテーマにあるのかもしれないと思ったりもするな。
人間と自然界の関係かあ。でも、そんな難しい話、この映画を観にくるチビッ子にはわからないんじゃないの?
いまはわからないだろうが、大きくなって思い出すときに、ただおもしろかったというより、何かそんなふうなことを思い出すかもしれないって気はする。
東久留米ってただの東京の郊外だと思ってたけど、結構深遠な土地なのかもね。
それより、問題は東久留米っていう地名だ。久留米は九州にあるから、それより東の東京にある久留米を東久留米って呼ぶことにしたのか?
うーん、深遠な質問ね。

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「夕凪の街 桜の国」:東池袋一丁目バス停付近の会話

2007-08-01 | ★池86系統(東池袋四丁目~渋谷駅)

ここにある豊島岡女子学園の歴史って知ってる?
いや。
東京家政女学校という学校が昭和15年ここの土地を購入して、校舎の新築を計画したんだけど、戦争のため建築の中止を命じられた上、戦火のために牛込にあったもとの校舎は全焼の災厄にあったんだって。昭和23年ようやくここに移転復興したあと、豊島岡女子学園と校名変更したってわけ。
そんな歴史があるなんて知らなかった。日本ていろんなところで戦争の影響を受けているんだな。
なかでも悲劇的だったのが、原爆を落とされた広島、長崎。
つい最近も「原爆はしょうがなかった」なんて無神経な失言を吐いた大臣がいたけど、そういう人にこそ観てほしい映画だよな、「夕凪の街 桜の国」は。
広島で被爆したことで人生が変わってしまった平凡な一家とその孫の世代の物語。こういう真摯な映画を観ると背筋が伸びる思いがするわ。
被爆した親子を演じるのが、藤村志保と麻生久美子。被災から13年後の広島で肩を寄せ合うように生きている。その姿が実につつましやかで、文字通り昭和の時代につくられた映画に出てくる女性を観ているみたいだった。
佐々部清監督には「カーテンコール」なんていう昭和の映画館を描いた佳作もあったけど、いま、あの時代の空気を描かせたら右に出る監督はいないかもしれないわね。
いやいや「Always 三丁目の夕日」の監督がいるじゃないか、って言われるかもしれないが、あれは思い出というフィルターを通した昭和で回顧趣味に近い物語だった。この映画はそんな「あの頃はよかった」っていって感傷に浸るような映画じゃない。
麻生久美子は、被爆したことを運命としてひっそりと受けてめている女性の役なんだけど、そんな女性に「原爆は落ちたんじゃない、落とされたんだ」なんて言われると、心にグサリと来るわ。
大リーグのオールスターゲームで、イチローが「ヒットが出たんじゃない。出したんだ」って言ってたようなもんだもんな。
なんか例えが変だけど。
そんなことないだろう。自然現象じゃなくて人間の意志でやったことなんだ、っていうことでは変わらない。
彼女が原爆の後遺症で死ぬ間際に言うひとことに、また胸がつまるのよね。
みんなが原爆で死んだ中で、自分が生き残ってしまったことに関する罪悪感ていうのは、経験していない我々には想像も及ばないところがあるけど、この映画を観るとふと理解できそうな気もしてくる。
同じような罪悪感を感じる女性は黒木和雄監督の「父と暮せば」にも出てきたけど、あれは演劇形式だった。こっちはリアリズムで押してくるからつらいけど、そのぶん、気持ちが自然に理解できる。
麻生久美子の代表作になったな。
でも、彼女の「夕凪の街」篇だけで終わってしまったらほんとうに古き昭和の時代の映画になってしまうのに、この映画がすばらしいのは、後半に「桜の国」篇があるところよね。
そうそう。この映画、原作のニュアンスを生かして「夕凪の街」「桜の国」という二部作になってるんだよな。
後半の「桜の国」篇は、麻生久美子演じる女性の弟が年取ってからの物語。演じるのが堺正章。
その配役がまたミソで、ひょうひょうと好々爺を演じる姿には、思い過去を背負った男の影は見えないんだけど、現実というのは案外そういうもんなんだよな。
どういう意味?
俺たちの身の回りにいるお年寄りたちは、なにごともなく年取ったように見えるかもしれないけど、あの時代をくぐりぬけてきたからには、多かれ少なかれ壮絶な経験をしてきたに違いないってことだよ。
それを私たちに代わって、堺正章の娘役の田中麗奈が体験していくっていく構成。
堺正章を追って広島の町を歩き回る中で、自分の父親の世代の体験や心情を理解していくって話は、どうしても教科書的になってしまうんだけど、「夕凪の街」篇がみずみずしい青春映画にもなっているから、その話を受け継いだ「桜の国」篇で語られる体験も、単なるお話ではなく、実感を持って追体験できる。
ああいうことがあった昭和とは一見無関係に見える平成も実はひとつにつながっているんだということが自然と納得できるのよね。
「男たちの大和」や「出口のない海」のような戦争映画は、昭和と平成がつながっているということを見せるために、戦争の生き残りの老人を亡霊のように無理やり登場させて失敗していたが、それを納得させようとするならこの映画くらい丁寧につくりこまなければいけないってことだな。「男たちの大和」や「出口のない海」の監督はこういう映画を観て反省してほしいよ。
でも「出口のない海」も佐々部監督の作品よ。
げっ。



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