【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「サウダーヂ」

2011-11-26 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)


この登場人物たちの、知性をまったく感じさせない会話のリズムってどこかで聞いたような気がするなあ。
紙兎ロぺでしょ。
ああ、あのTOHOシネマズで見せ付けられる脱力系アニメ。
そう。あのウサギとリスの、内容も語彙も空虚な、どんづまりの日本を代表するような未来のない会話。そのけだるいリズム。
たしかに、この映画に出てくる登場人物たちも、空虚でどんづまりの日本を体現しているような冴えない人物ばかりだ。
そういう人たちの会話って、必然的に紙兎ロぺになっちゃうのよ。
いまの日本の地方都市の置かれている過酷な状況をきれいにトレースしたような映画。
“きれいに”っていうのは形容詞の使い方が間違っているわね。ぐちゃぐちゃにトレースしたような映画、っていうのが感想としては正しい。
なるほど。ブラジルやタイから来た出稼ぎ労働者たちと地元の土方やラッパーたちとのぐちゃぐちゃな話だもんな。
いまどきの日本映画で、ここまで地方の惨状を描いた映画ってないんじゃない?
地方の惨状というか、地方に暮らす人々の心の惨状まできちんと捕らえたような映画。
だから、“きちんと”っていうのも形容詞の使い方が間違っている。グダグダな心情を捕らえた映画っていうのが正しい。
なるほど、グダグダね。荒んだ町、行き場のない気持ち。シャッター通りの空しい光景が、そのままそこに暮らす人々の空しさとして映画に刻まれている。
俺たちどうすりゃいいんだよ、という鬱屈感、疲労感。
もう、内容のある会話を元気よく交わすなんて気にはとてもなれない。
紙兎ロぺ状態。
こういう空疎な映画を、敬意をこめて「紙兎症候群映画」と呼ぼう。
しかも、国も民族も違う貧しい人々が、山梨のど田舎でインターナショナルに悩んでいるっていう図が凄い。
猿の惑星:創世記」や「コンテイジョン」が地球の片隅で発生したウィルスが世界に広がっていく恐ろしさをまっとうに描いた映画だとすれば、富田克也監督のこの映画は、世界中の貧困が日本の片田舎に集約するという、まったく逆の位相で同じグローバル化の恐ろしさをちゃんらんぽらんに描くという偉業をやっている。
資本家どもとは反対の極にある労働者の視点でね。
主役が土方だもんな、土方。
立て、万国の労働者!って昔なら叫ぶところだけどね。
いまや、万国、総どんつまり。
いやあ、隅に置けないなあ、紙兎症候群映画も。
まじっすか。