【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「蛇にピアス」:新川橋バス停付近の会話

2008-10-04 | ★錦25系統(葛西駅~錦糸町駅)

あそこに見えるあの建物、ムラサキなんて、珍しい色合いね。
世の中にはいろいろな趣味の人がいるからな。
でも、まさか舌に穴を開けるのが趣味の人がいるとは思わなかったわ。
「蛇にピアス」のことだろ。芥川賞を獲った小説が原作だから、そういうことがあるのは知っていたけど、実際に映像で見せつけられると、また一段とびっくりするよな。
痛々しさが倍増。目をそむけたくなる。
そこがこの映画の狙いで、痛みを感じることでしか生きる実感が得られない若者たちの、文字通り痛々しい物語。
でも、そのために舌に穴を開けるってどうなのよ。考えられない。
そういうふつうには考えられないことでも、ひょっとして我々もそうなるかもしれない、って思わせるところが映画ならではのマジックだ。
って、どこがマジックだった?
うっ、それを言われるとつらい。監督は世界の蜷川幸雄だぞ。がんばってたじゃないか。
だから、どこが?
そっ、それを言うな。主演の吉高由里子も体を張ってがんばってたじゃないか。
たしかに肉体的な痛みはこれでもかって感じたけど、映画なんだから心の痛みを感じさせてくれなくちゃ。
なんだよ、その冷静な反応は。
原作と比べるわけじゃないけど、やっぱり小説のほうは物語を引っ張っていく文体っていうものがあって、その文体が醸し出す独特の世界観に引き込まれる。それに対抗するだけの文体を映画のほうは持てなかったんじゃないの?
厳しいなあ。心の空洞が痛みを欲しているっていう解釈じゃだめなのか?
そう言われても、この手の映画って、観客を納得させるだけの世界観がないと、ただの薄っぺらなドラマに成り下がっちゃうような気がするのよね。
何でこういう行為でしか満たされないのか、もっと納得させるような何かがほしいってことか。
彼女の生い立ちとかバックグラウンドとかそんなものは必要ないんだけど、映画から立ち昇ってくる何かね。
世代の問題かな。蜷川幸雄が20代の女性の小説を映画化するところに無理がある?
でも、同じ蜷川幸雄の映画でも、若者を主人公にした「青の炎」なんて結構傑作だったんだけどねえ。
二宮和也と松浦あやの青春映画か。
イエーイ!めっちゃホリデー なんて真似されてないころの松浦あや。
吉高由里子はあのころの松浦あやに勝てなかったってことか?
なんかヘンな比較だけど。
いやいや、松浦あやが主役をやってたら、これはこれで異様な映画ができあがってたかもしれないぜ。
それこそ、スキャンダラス。吉高由里子にも、それくらいスキャンダラスな部分があったほうがよかったのかもしれないわね。
でも、彼女のあの舌ったらずな喋り方には引かれるよな。長澤まさみみたいでたまんないっす。 
まあ、人は好き好きだから。ああいう色の建物を建てる人もいるわけだし。
イエーイ!めっちゃムラサキ



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ふたりが乗ったのは、都バス<錦25系統>
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