アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

615  アチャコの京都日誌 新シリーズ京都100寺巡礼  68番 報恩寺

2019-05-13 09:01:31 | 日記

68番 報恩寺

 

京都市上京区小川通寺之内下ル射場町579

山号  堯天山

宗派  浄土宗

開基  慶誉明泉

別称  鳴虎

 

 

 

報恩寺は、堀川通りから二筋東にある。東に向かって山門があり、その前に橋の欄干が見える。今は地名にしか残っていない小川か百々川に架かる橋の名残と思われる。また、因みに、山門と三門の違いは、寺の門は全て山門である。寺の事を「山」という。その中で禅宗で言うところの「三解脱」即ち3つの悟りを表す門を三門とした。しかし今やその他の宗派でも「三解脱門」を採用しているところが多い。知恩院がそうだ。ところが東福寺は禅宗だが山門と言う、ややこしい。また、仁王門は、二王門でも良い。知恩院知恩寺は違うお寺だが、「院」も「寺」も「庵」も、寺のことだ。もういいですか。 報恩寺に戻ろう。こちらは以下の話で有名だ。

八半

この話には、「八半」という題名がついている。西陣の中心にあるこの寺は、八時半(はっときはん)になると朝夕の織子の交代を示す「鐘」を鳴らした。ある時、ある店の丁稚と織子がその鐘が何回打たれるかを賭けた。負けた方が何でも言う事を聞くと言う事にした。織子は八回、丁稚は九回に賭けたが、結果は八回であった。責められた丁稚はこの鐘楼の柱に首を括って自死した。しかし実際は、九回であり織子が寺に八回にするように頼んだのだ。爾来この寺の鐘は「つかずの鐘」となった。因みに京都にはこのような逸話は多く、「つかずの鐘」はいくつかの寺に残る。宮津の「成相寺」が有名だ。

報恩寺の境内は出入り自由で、そう広くない。方丈内は入れない。正面右に仁王さまが怖い顔で控えている。見落としてはならない「鐘楼」は、ウッカリすると見逃す。高さ5mほどの小さいものだ。今は除夜の鐘として打つのみだが、以上のような物語が残っているとは思えない寂しいものであった。

なお、別称の「鳴虎」は、秀吉がこの寺に所蔵する後柏原天皇下賜の「水のみの虎図」を聚楽第に持ち帰ったところ、夜に虎が泣いて寝れなかった話が伝わりこのように言われるようになった。

さらに山門前の橋は、「百々川」にかかる橋であった事が判明した。小川通りにあるので勘違いした。


614 アチャコの京都日誌 新シリーズ京都100寺巡礼  67番 光照院

2019-05-13 08:42:42 | 日記

67番 光照院

 

京都市上京区新町通上立売上がる安楽小路町

山号  仏日山

宗派  浄土宗

本尊  釈迦如来

開基  本覚尼(進子内親王)

別称  常盤御所

 

三時知恩寺から新町通の上立売を北にすぐに着く。鎌倉時代から室町時代に創建された寺院であるこのシリーズ(尼門跡寺院)は、いずれも目立たず、壮大ではなくヒッソリと歴史を刻んでいる。いずれも持明院統(北朝)や足利家との関係深い寺が多い為かと思う。「光照院」も室町時代、後伏見天皇の「皇女進子内親王」が泉涌寺にて落飾し創建したものである。現在のこの地は持明院統の天皇の譲位後の御所(仙洞御所)であった。いわば南北朝時代に至る政争の中心地だったのだ。今はそんな喧騒は感じられず、普段は門を閉ざし人の出入りも拒否するように見える。見学できるのは本堂と横の会館だけで、本尊の釈迦如来立像は典型的な清凉寺式の様式である。薄衣でおおわれた体の生々しさが良い。また隣には、開祖である宮様の木造が安置されているが残念ながら暗くてよく見えなかった。因みに、「常盤御所」という称号は江戸末期になって光格天皇が与えたと言う。

ちょうど絵にかいたような美人尼僧が見学に来ていた。青々と剃り上げた頭と、ツヤツヤの肌には化粧気はない。それでも気品と教養が窺えた。「お近くの方ですか。」と、問いかけたが、俗世間とは関りを持たない様で、「・・・・・・。」笑顔だけ向けてくれた。見たことの無い美しさにぞっとした。

10月には、「開山忌」として「未生流の献花」が行われる。あのようなお美しい方々が生けられるのだろうか。