北の杜

ニセコ・羊蹄山麓に暮らす一級建築士の奮闘記

夏休み。 ラジオ体操

2011年08月05日 | 雑感
 夏休み。朝は皆でラジオ体操です。

 学校や役場前などでラジオ体操を行っていますが、我が町内会の『そよかぜ広場』でも町内の子供たちを対象に町内会行っています。
参加者は子供に大人も含めて20人程度ですが、朝のすがすがしい空気を吸いながらの体操は気持ちの良いものです。



 体操が終わるとカードに動物やくだものなどの判子を押してもらいます。
子供の頃はいろんな種類の判子を集めるのがブームでした。
町内の子供たちも中学生になったら参加しなくなり、小さな子が多いですね。



 今日も元気に頑張りましょう!!

北方墨人展

2011年06月19日 | 雑感
 文化福祉センターで開催されていた「北方墨人展」にお邪魔してきた。



 最終日の終了間近だったので、会の方々が反省会?をやられていたので、本当にお邪魔虫だったのかもしれない。
大先輩の荒野洋子さんや母の友人の佐藤百合子さんなどの知り合いがおり、早く見に行けばよかったと後悔。
皆さん、一文字の書。
太く、力強い書が多かった。

 北方墨人会の趣旨
「根源の生命にかえって全人的に生きることをねがい、その具体化の重要な場として書の製作におもむいている人びとの集まりである。
  われわれはみずからこのような生き方を制作によって深めると共に、作品を通して人びととひびきあうことによって信頼に満ちた世界を築き上げたいのである。
  その地域と環境と背負う歴史の如何とを問わず、そこを場としてねがいを実現しようとする人びとは、すべてわれわれの同胞である。ひろく手をつないでいきたい。」(リーフレットから)

 書に触れる機会が殆どないけれど、日本人?を感じたひと時でした。 
 

H22年 倶知安町戦没者追悼式

2010年07月23日 | 雑感
 平成22年倶知安町戦没者追悼式がどんぐり公園で挙行されました。



 国歌斉唱、黙祷の後、福島倶知安町長の式辞があり、334の御霊に対し追悼の意が述べられました。
追悼乃碑には、日清戦争から先の太平洋戦争、大東亜戦争までの戦没者の方々の名前が記されております。
多くの親族の方々も参列されておりましたが、戦後65年となり高齢の方が多くなっております。また、町内在住の方も減っているようです。



 北海道詩吟連盟副総範の堀錦穂さんが奉吟をされました。


 8月には終戦記念行事などが行なわれ、平和の尊さを考えさせられます。

ハイチ支援

2010年02月16日 | 雑感
 1月12日のハイチ大地震の復興支援「国際連合ハイチ安定化ミッション派遣隊員駐屯地壮行会」に出席してきました。



 20万人以上の死者を出した大地震の被害に遭い困難の最中にあるハイチに、日本の復興支援活動のひとつのPKOとして陸上自衛隊の派遣(ハイチ覇権国際救援隊)が決まり、倶知安駐屯地に所在している第361施設中隊から8名の隊員が参加することになり、壮行会が行われるとのことで、町長や議長をはじめ町議会議員も同席させていただきました。
 TVでの放送でしか情報が分りませんが、想像を絶するような状況のようです。
救援隊の仕事は、瓦礫の撤去や道路補修などのようで、今年の11月いっぱいまでの支援活動のようです。
 ハイチの国民の皆さんの苦悩を少しでも和らげるよう支援をしてもらいたいと思いますが、隊員の皆さんも白銀の世界から出発するのですから、くれぐれも体調には充分留意して活動を行っていただきたいと思います。

プロッターのインク

2010年01月11日 | 雑感
 設計図を印刷しようとプロッターにデータを送ったところインクがなくて動きません。
無くなったのは「イエロー」。白黒印刷なのに、「ブラック」はまだ十分にあるのに動きません。
町内のベスト電器に行ったけれど「取り寄せ」とのこと。祝日で事務機器屋さんは休み。明日提出の図面が出力できない。
トラブルは決まって休みの日。



 在庫しているのは、ピンク色。この際、どうしょうもないので札幌まで車を走らせ、近いところからコジマ電気、ヨドバシ、ベスト電器、ビックカメラ、どの大型家電店に行っても在庫して(取り扱って)いない。セントラル藤井には、紙はあるけどインクは無い。
何んと北海道の大都市札幌に何でもある思ったら大間違いだった

 予備を用意していない自分が悪いけど、情けない6時間でした。

横関建設関連企業グループ新年交礼会

2009年01月06日 | 雑感
 29年勤めていた横関建設関連企業グループの新年交礼会にご案内いただき、昨年に引き続き出席させていただきました。
 一昨年武内会長、柏谷先代社長と相次いで鬼籍となり、若い代表となった柏谷社長が後を継ぎ、早1年。建設業界は、昨年夏以降さらに厳しさを増しています。厳しい船出となられた1年であったと思います。しかし、町の建設業界の世代交代もはじまり、土木屋さん、設備屋さん板金屋さんに若社長が誕生し、一足早くCHENGEが始まった年でもあったと思います。

 5日のTV。ニュースステーションで新潟県の燕市で活躍している「磨き屋シンジケート」の話題を紹介しておりました。古くからの地場産業である金属の研磨。中小の研磨屋さんがチームを組み、研磨技術を武器に日本や世界にその技能を売り込み、数々の不況を乗り切ってきたという話でした。昨日は、ビールを美味しく飲めるECOカップの紹介もありましたが、iPodの裏面のステンレスの鏡面仕上げも行っているそうで、しっかりとした優れた技術と知恵があれば、難局を乗り切ることができるという示唆を与えてくれました。実体のあるものが生き残る。つまり、良い物や美味しいものに勝るものはないということだと思います。
 建設業も技術の集合体として、土木建造物や建築物を造っています。建設業も同様に技術を磨き、伝承していくことが、生き残りの基本であると思うのです。
柏谷社長を中心に更なる技術の研鑽に励まれ、地域に密着した会社、地域の発展の一端を担う会社として、更なる躍進を目指していただきたいと思います。また、関連する企業のみなさんも共に連帯していただければと思います。

 厳しい1年になると思いますが、確たる技術、地域での連帯、知恵を出し、町全体で乗り切っていければと思うのです。

私の夏

2008年08月30日 | 雑感
- はじめてのヒロシマ -
 一昨年の夏、里帰りをしていたイタリアで暮らす弟家族が、8月に子供たちに広島を見せたいと実家を後にしました。下の娘も、倶高の修学旅行で広島を体験していました。しかしながら、五十数年日本で暮らし、岡山や愛媛などに旅をしたことがある私は、まだ一度も広島を訪れたことはありませんでした。長崎には、10年ほど前に建築士会の全国大会で訪れ、合間を縫って平和祈念像や原爆資料館を訪れたことはありました。今回機会があって広島を訪れ、「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」に参列することができました。



- 折鶴に平和を託す -
 8月4日早朝、殆ど予備知識も持たずに「向こうは暑いよ」との忠告だけを頭に倶知安を出発する。羽田経由で広島空港に向かい、ホテルで支給されたTシャツに着替え、休む間もなく「折鶴平和行進」に参加する。
「鶴」は反核・反戦平和運動の象徴である。平和公園にある「原爆の子の像」のモデルである佐々木貞子さんが2歳で被爆し、12歳で白血病を発症し、鶴を千羽折ると病気が治ると信じ、鶴を折り続けたが願いかなわず帰らぬ人となりました。そんな貞子さんや亡くなった多くの子供たちのを慰霊する原爆の子の像には、多くの折鶴が供えられており、今年も多くの折鶴が献納されています。鶴を折ることは、平和を祈ることに繋がるようです。
平和公園資料館から県立体育館までの1時間ほどの道程を全国から集まった人たちと共に、警察官がズラリと警備をしている道路を3列縦隊で、ヒプレヒコールもない静かで穏やかな行進を行いました。



- 被爆者の声 -
 県立体育館のグリーンアリーナで原水禁・連合・核禁会議共催の「核兵器廃絶2008平和ヒロシマ大会」に参加する。6500人の参加だそうです。全国からの折鶴の献納の後、主催者や秋葉広島市長の挨拶があり、被爆者の山岡秀則さんから被爆から現在までの体験を聞きました。3歳のときに被爆し、親兄弟を失い孤児となり、親戚にあづけられるも虐めにあいながらも生き抜いてこられ、その苦労は並大抵ではなかったようです。
原爆は63年前に投下されましたが、今もなお病と闘っている方々がおり、被爆されて生存されている方々が減り続けると共に高齢化が進み、生の体験談を伝えることが難しくなってきており、また、年月と共に原爆体験が忘れ去られる風潮があるようです。原爆の惨さは、記録も大切ですが、生の声ほど切実なものはありません。
 続いて、被爆者の曾孫ぐらいの広島ジュニアマリンバアンサンブルの子供たちの平和コンサートが行われ、大人顔負けの演奏に気を持ち直し、「原爆を許すまじ」の合唱で前半の大会が終了しました。
この大会の前に同じ会場で原水協系による原水爆禁止世界大会が開かれており、6800人の参加であったそうです。元々は、一緒に原水爆禁止の大会を行っていたそうですが、ロシアの核実験を境に原水協と原水禁とに分かれて行うようになったそうです。イデオロギーの違いだけではなく、いろんな要素が絡んでいるのだと思うけれど「核兵器の廃絶」を求めるのは被爆国としての責務であるはずです。
世界で唯一の被爆国である日本の国民全てが、主義・主張を超え一体となって「核兵器廃絶」の訴えを行うべきだと感じました。



- 広島平和記念資料館 -
広島平和記念資料館は、1955年に開館した、世界的な建築家の丹下健三氏が設計した建物です。平和大通りと平行して資料館があり、そこから直交した先の平和公園の中心に位置する慰霊碑、平和の灯の延長線上に原爆ドームがあります。資料館の1階はピロティとなっており、平和通りから慰霊碑、原爆ドームを望むことができます。2階部分がガラスと縦格子のシンプルなデザインなので、あたかも平和の門のような役目も担っているようです。平成18年には、第二次世界大戦後の建築物としては初めて国の重要文化財に指定されています。因みに、丹下健三氏は、旧制広島高校のOBであり、今治の両親も8月6日の空襲で亡くなっていたそうで、広島の復興には、わが身朽ちるともとの強い思いがあったそうです。
東館から大人50円(小人30円)で入場します。多くの人に見てもらいたいからこんなに安いのでしょうか。1階中央にある原爆ドームのジオラマの中に被爆前の中島町と被爆直後の模型が並んで展示してあります。一瞬のうちに破壊しつくした様が見て取れます。8時15分で止まった時計。人の影が映りこんだ石。雨細工のようにグニャグニャの鉄骨。などなど原爆の破壊威力の想像を絶する凄さを伝えてくれます。
西館では、当時35万人がいた広島市民の被爆の惨状が展示してあります。爆心地から半径1.2kmではその日の内に50%の方が死亡し、12月までに約14万人が亡くなったと推計されているそうです。生き延びた方も白血病や癌を発症したり、本人だけではなく生まれてくる子供たちにまで今なお原爆の影響は続いています。原爆のもたらす悲惨さを伝えてくれます。



- 広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式 -
 朝、7時にホテルを出発し、会場の平和公園に向かう。原爆ドーム周辺からは、道路から溢れ出すほどの人混みです。あちらこちらでビラを配る人。政府関係や市民団体の慰霊のテント。公園の周囲はごちゃごちゃしています。公園内には、仮設トイレがあちらこちらにセットしてあり、案内受付やおしぼり配布所や冷水サービスも用意してあります。様々なボランティアが協力しているようです。早速、冷たく冷やされた「おしぼり」を貰い、式典会場に入る。
 8時に原爆死没者名簿奉納が広島市長と遺族代表者とで行われ、祈念式が始まった。
この1年間に亡くなられた方が5,302人、これまで計258,300人の方が原爆によって亡くなられたことになります。そして、今なお後遺症に苦しんでいる人たちがいるのです。
市長や遺族の方他各界の代表者の献花が終わった8時15分、平和の鐘が鳴る中で黙祷です。全国にTV中継されている中にいます。
秋野忠利広島市長の平和宣言。「核攻撃から市民を守る唯一の手段は核兵器の廃絶です。」日本が国連に提出した核廃絶決議は、170か国が支持し、反対は米国を含む3か国だけだそうです。「人類の生存を最優先する多数派の声に耳を傾ける米国新大統領が誕生することを期待します。」アメリカの都市も含む平和市長会議で核不拡散条約を補完する「ヒロシマ・ナガサキ議定書」発表し「今、必要なのは子供たちの未来を守るという強い意思と行動力です。」「長崎市と共に、また世界の市民と共に、核兵器廃絶のためあらん限りの力を尽くし行動すること」を誓った平和宣言でした。
福田総理大臣も参列しましたが、被爆した都市の広島市長の言葉だからこそ重みがあると思います。
 会場を出ると地元の「中國新聞」が号外を配っていました。朝刊での取り扱いでもそうですが、北海道新聞との対応は雲泥の差で、全国的にはこれが現実なのかもしれません。TVでも、ニュースで広島市長の平和宣言のところなどを放映するけれど、広島の思いは全国民には小さくしか伝わっていないのかもしれません。
しかし、こども代表の小学6年生による「平和への誓い」で「私たちは、原爆や戦争の事実を学びます。私たちは、次の世代の人たちに、ヒロシマの心を伝えます。そして、世界の人々に、平和のメッセージを伝えることを誓います。」という言葉に救われる思いでした。



- ヒロシマ・ノート -
 広島平和記念資料館が発行する図録「ヒロシマを世界に The Spirit of Hiroshima」と大江健三郎著「ヒロシマ・ノート」(岩波新書)を購入する。
ヒロシマ・ノートは大江健三郎氏(28~30才頃)が、広島を訪れた1963年夏から65年春までのルポルタージュである。広島が被爆して20年後も続いている「悲惨と威厳」が綴られている。被爆の現実を聞くとき、話してくれる被爆者の方々がどのような思いで話してくれているのか。ヒロシマ・ノートには、ケロイドを恥じながら(恥ではないんだけれど)青春を過ごした人たちや注目されるのを嫌い引きこもって静かに暮らしている人たちの方がずっと多いことを気づかせてくれる。
「エピローグ 広島から・・」の中ほどにある絵本「ピカドン」(丸木位里、丸木俊共著)で80才のおばあさんが孫の留吉に毎日のように語っていた「ピカは、人が落さにゃ、落ちてこん」という言葉が全てを物語っているような気がします。原爆を投下する人がいなければ、ヒロシマの悲惨は起こらなかったのです。
(「ピカドン」は、80年に丸木俊によって「ひろしまのピカ」と改作されて出版されています)
 原爆は、漫画の「はだしのゲン」(作:中沢啓次)や映画の「原爆の子」「黒い雨」「八月の狂詩曲」など数多くの作品の中にあって、私たちに伝えられています。受け取り方は人それぞれかもしれないけれど、ヒロシマを感じていることが大切なような気がします。本当のヒロシマは、想像を絶することであるのだろうけれど、今できることは、いつもヒロシマやナガサキ・沖縄のそばにいることのように思われます。



- もうひとつの夏 -
8月8日、北京オリンピックが開幕した。日本国民の期待を背に、北島康介の2連覇となる金メダルや倶知安で合宿し悲願の金メダルを獲得した女子ソフトボール選手団。目標の半分以下の金メダルですが、北京や日本中で日の丸を振り、日本選手を応援し、一喜一憂していたのがついこの間です。そこには、ナショナリズムや反戦といった国家ではなく、ひとりの選手やチームを純粋に応援しているだけのような気がします。
北京に揚がった日の丸も平和公園に掲揚された半旗も同じ日本の旗で良いのだと思うのです。
 核兵器廃絶や平和を願う思いは、皆の共通の思いだと思うのです。
ヒロシマの夏を体験し、思うことや考えることが怒涛の如く寄せてきて、体や頭が整理できていませんが、またヒロシマの空の下にいて体感することが大切なような気がします。



全日本レディースソフトボール大会

2007年08月31日 | 雑感
第12回全日本レディースソフトボール大会が倶知安町で開催されました。



大会前日に、開会式が行われ、夜には歓迎レセプションが開かれ、大会役員の方や審判団など関係者が揃い3日間の大会の成功を祈りました。
大会には、全国38都道府県から48チームが参加します。
オールJAPANや実業団の合宿などが行われたりとソフトボールが盛んな町としては、準備万端なようです。

わが町の「倶知安レディース」は、1回戦を島根の「加茂ヴィーナス」と戦います。何とか、勝ち進んでもらいたいものですが、2回表に6点を取られてしまいました。頑張!倶知安!


新潟中越沖地震

2007年07月16日 | 雑感
16日午前10時過ぎに新潟中越沖で地震が発生しました。
震度6強だそうで、大きな揺れだったようです。
300棟余りが全壊だそうです。
2004年に地震があったばかりで、まだ、落ち着いていないところもあるかと思います。
被災にあわれた方々にお見舞い申し上げます。

新潟県より新潟県建築士会の被災建築物応急度判定士に出動の要請がきているそうです。
16日は行政の判定士が対応していたそうですが、明日からは民間の判定士が動くようです。
余震も続いているようなので、十分注意をしていただきたいと思います。

パークゴルフ大会

2007年07月11日 | 雑感
後志管内町村議会議員パークゴルフ大会が開催されました。
13回目の開催で、黒松内町が開催地となり、管内の15の町村から133名の参加がありました。



年に一度の町村議員の交流の場だそうです。
選手は、皆、議会議員ということです。壮観です。
因みに、8月には研修会も行われる予定だそうです。



競技は、団体戦と個人戦で、4っのコースで競われました。
皆さん、熱心に練習をしていたようですが、私はブッツケ本番です。
今年は、町内会で1回やった程度なので、参加することを目的としていました。
結果、団体優勝は仁木町でトータル612(パー660、チームの上位5人の合計)。個人優勝は、地元黒松内町の議員で106(パー132)でした。
我が町は、団体13位。何とかブービー賞を戴いた方がいました。
競技終了後、黒松内温泉で疲れを取り、黒松内牛の焼肉や黒松内産ワインや日本酒を戴きながら交流を図りました。
競技の最中に各町の町長が応援に駆けつけたり、交流会に支庁長が来賓で来られたりと盛大な交流会です。
たまにリラックスした中でのリクリエーションや交流もあってもよいのかなとも思えるけど、事務局員を添乗員に1日を費やすのはいかがなものかと思うのだけれど。
主管の町では、多くの人手を掛けているようだし、町のPRだとしても大掛かり過ぎるような気がする。
ちょっと再考の余地があるのではないか・・・。