突然だった。出先に宿泊中の訃報で、自宅に戻り、改めてしみじみ我にかえり確認した。
大女優、山田五十鈴さんの御逝去。
95歳と伺うと、天寿を全うされた、そう思い、残念だが、安堵の思いも湧く。
わたくしは時代劇ファンで、歌舞伎も好きだが、茶の間で、競馬のことを考えつつも、時代劇を手軽に眺めたりする。多チャンネルで古い時代劇も手に取れる時代だからだ。
また、それなりに鑑賞者、視聴者として年季が入ると、劇の見方、それ以上に役者の見方もコクが出てくる。若い女優ばかりに眼を奪われることなく、画面全体を構成し、基礎低音を成し、品格と格調を支える大女優、そればかりか脇役、また時代劇なら特有の悪役に殊に舌を巻いたりする。ジョッキーも同じだな。武豊、勝たなくなったなぁ、と思ってみているようじゃ、駄目だ。
失礼ながら、子供の頃はただのオバサン女優だと思ってみていた杉村春子。これがどれほど偉大な女優か、思い知ったのも大分歳をとってからである。
改めて、山田五十鈴さん。数知れぬ作品があるが、御茶の間で観た中では、
『鬼平犯科帳』の せんだいぼりの おろくさん
『必殺シリーズ』の 仕事人 おりくさん
これらがぱっと浮かぶ。相手は二代目吉右衛門や藤田まことなどだが、しみじみと沁みた。
奥行が違うのである。
また、所謂庶民派で、御高く留まったところが微塵も感じられず、普通の市井の人々、庶民の民心を描き出すお仕事に専念されていたのではないか。本当に歳を重ねて分かる。人間の上等さである。
わたくしは必ずしも若い異性にばかり執着しない。年齢と引換えに手に入れた品格、エレガンス、何か澄み切った心境、そして風雪を乗り越えて辿り着いたある高みが添えられ、若い人にない美しさを醸すのである。美智子皇后にも十分、それが感じられ、無言の内に、崇敬の思いを抱かせられる。
エレガンスとは、エルメスのスカーフの似合い具合ではなく、滋味と深みのある絣の着物の着こなし加減なのである。シャネラーだとか自認する泉なんとかという女優。これが野卑で、見たくない女優の代表である。自分が大物だとか、勘違いしていないか。
大女優とか、山田先生などと呼ばれたが、自分が昔付き合った女性が四十年後、これほど美しく、また魅力をたたえて目の前に現れてくれるだろうか、と想像する。増してや、我が身をや。
このところ、野田政権の体たらく。また大津のこと、また友人の身に起きた騒動などで、こころ騒ぎ、放言も致したが、山田さんは嵯峨さんのことがあり、それを乗り越えられた。
悲しみを見据え、それを澄んだこころで見据えた先に、悲しみを超えた静かな境地が在り、其処では最早、悲しみが追いつかない清浄なこころの領域があるのである。
必殺のおりくさんの殺しのシーンなどで、わたくしはこれを改めて感じた。
一度で好いから、気取ったホテルのバーなどでなく、勝手に楽屋に上がりこみ、茶漬と茶碗酒で芸のお話など、膝を交えてみたかった五十鈴さんである。まだアンタ、もっと泥水飲んでからおいでよ、といなされたかも知れないが、何だか、実に身近な方のような気がしてならない。これが大女優ながら、お茶の間で生き、誰にでも分かる思い、こころを切々と表現し続けた普通の人の超絶的な非凡なのだろうな。
あの、吉右衛門さんとの、昔の女、おろくとてっつぁんの遣り取り。本当に演技と思えないほど、味があった。
そう云えば『眠狂四郎』で、孝夫さんと息子の孝太郎くんの出たエピソードの、元は江戸の粋筋、三味線の女。これも好かった。随分、長い付き合いだな。
山田先生、ありがとうございました。
また、『必殺』でお会いします。
黒澤さんの『用心棒』。このやくざのおかみさん、ほかの人じゃ出せないよ。加東大介との掛け合い。「人殺しに悪党と呼ばれるようじゃないと、おとっつぁんの跡目は継げないよ」の、あの光る目の台詞。
今宵は、しばし、一緒に酌んでよ。
五十鈴さん また今の若い子にない、何と美しい名前、響きだろう ・・・
大女優、山田五十鈴さんの御逝去。
95歳と伺うと、天寿を全うされた、そう思い、残念だが、安堵の思いも湧く。
わたくしは時代劇ファンで、歌舞伎も好きだが、茶の間で、競馬のことを考えつつも、時代劇を手軽に眺めたりする。多チャンネルで古い時代劇も手に取れる時代だからだ。
また、それなりに鑑賞者、視聴者として年季が入ると、劇の見方、それ以上に役者の見方もコクが出てくる。若い女優ばかりに眼を奪われることなく、画面全体を構成し、基礎低音を成し、品格と格調を支える大女優、そればかりか脇役、また時代劇なら特有の悪役に殊に舌を巻いたりする。ジョッキーも同じだな。武豊、勝たなくなったなぁ、と思ってみているようじゃ、駄目だ。
失礼ながら、子供の頃はただのオバサン女優だと思ってみていた杉村春子。これがどれほど偉大な女優か、思い知ったのも大分歳をとってからである。
改めて、山田五十鈴さん。数知れぬ作品があるが、御茶の間で観た中では、
『鬼平犯科帳』の せんだいぼりの おろくさん
『必殺シリーズ』の 仕事人 おりくさん
これらがぱっと浮かぶ。相手は二代目吉右衛門や藤田まことなどだが、しみじみと沁みた。
奥行が違うのである。
また、所謂庶民派で、御高く留まったところが微塵も感じられず、普通の市井の人々、庶民の民心を描き出すお仕事に専念されていたのではないか。本当に歳を重ねて分かる。人間の上等さである。
わたくしは必ずしも若い異性にばかり執着しない。年齢と引換えに手に入れた品格、エレガンス、何か澄み切った心境、そして風雪を乗り越えて辿り着いたある高みが添えられ、若い人にない美しさを醸すのである。美智子皇后にも十分、それが感じられ、無言の内に、崇敬の思いを抱かせられる。
エレガンスとは、エルメスのスカーフの似合い具合ではなく、滋味と深みのある絣の着物の着こなし加減なのである。シャネラーだとか自認する泉なんとかという女優。これが野卑で、見たくない女優の代表である。自分が大物だとか、勘違いしていないか。
大女優とか、山田先生などと呼ばれたが、自分が昔付き合った女性が四十年後、これほど美しく、また魅力をたたえて目の前に現れてくれるだろうか、と想像する。増してや、我が身をや。
このところ、野田政権の体たらく。また大津のこと、また友人の身に起きた騒動などで、こころ騒ぎ、放言も致したが、山田さんは嵯峨さんのことがあり、それを乗り越えられた。
悲しみを見据え、それを澄んだこころで見据えた先に、悲しみを超えた静かな境地が在り、其処では最早、悲しみが追いつかない清浄なこころの領域があるのである。
必殺のおりくさんの殺しのシーンなどで、わたくしはこれを改めて感じた。
一度で好いから、気取ったホテルのバーなどでなく、勝手に楽屋に上がりこみ、茶漬と茶碗酒で芸のお話など、膝を交えてみたかった五十鈴さんである。まだアンタ、もっと泥水飲んでからおいでよ、といなされたかも知れないが、何だか、実に身近な方のような気がしてならない。これが大女優ながら、お茶の間で生き、誰にでも分かる思い、こころを切々と表現し続けた普通の人の超絶的な非凡なのだろうな。
あの、吉右衛門さんとの、昔の女、おろくとてっつぁんの遣り取り。本当に演技と思えないほど、味があった。
そう云えば『眠狂四郎』で、孝夫さんと息子の孝太郎くんの出たエピソードの、元は江戸の粋筋、三味線の女。これも好かった。随分、長い付き合いだな。
山田先生、ありがとうございました。
また、『必殺』でお会いします。
黒澤さんの『用心棒』。このやくざのおかみさん、ほかの人じゃ出せないよ。加東大介との掛け合い。「人殺しに悪党と呼ばれるようじゃないと、おとっつぁんの跡目は継げないよ」の、あの光る目の台詞。
今宵は、しばし、一緒に酌んでよ。
五十鈴さん また今の若い子にない、何と美しい名前、響きだろう ・・・