M's Print Diary

ようこそぴょん!お疲れ様です。ところで前向きってどっち向き?

ゴールデンウイークは引きこもり読書

2011年05月02日 | Weblog


中身を読まずに何が書いてあるか想像できる本です

この本には例えに茶道が多く使われ、体験したことのない私には違う意味の面白さもあります。



若い頃の私は大酒のみでタバコも無制限に吸ってました 

酒飲みの仲間内では沢山飲むのがエライこととされていたからです。

禁煙してる不良ってのもおかしな話ですから・・

喧嘩も大食いもやってました それも不規則に体のことなんか考えずに。


でも。

なぜか私は全てにおいて、歳とともにシンプルなものを望むようになりました

今は、美味しいお料理と上品なお酒をしみじみと味わいたいと思うようになってます

味わいが大切だと気がついたからです。

勝手なもので

テレビの娯楽番組などで大食い競争をしているのを見て、今は嫌な気分になります

なにも必要以上に無理して食わなくてもいいだろうと


欲張りという言葉がある

ブランド物のバッグを何十個ももってるとか

贅沢とはグレードの高いことですが 

はたして沢山持つことは贅沢なのでしょうか?


エコが流行ってる

ここ数年ですが私も断捨離をしてきました

人には誰しも欲望がありますから

今の時代何も持たないことは難しいのです。

むしろ何も無いというのはおかしな話で、たくさんあるほうが普通なのです。

しかし今までしがみついていたたくさんの”物、そんなもの本当は必要ないものなのではないでしょうか。

たしかに そう言われれば そうなんです

う~ん

只、よく考えたなら私の場合は「持たない贅沢」ではなくて、「持てない贅沢」かも 知れませんね。

そもそも私の場合は貧乏ですから

やっぱ・・・「持たない贅沢」ではなくて、「持てない贅沢」でした(笑)。

本当に大切なものは何か?

いらない人間関係もある

本当に求めているものは何なのか?

いらない物をどんどんと捨てていくと

時間とともに最後には自分にとって大切で貴い物が必ず残ります。

実は、自分にとって。

・・・それはとても大切な物です。

それだけ残すのです。

とても難しいことですが、それこそが究極のシンプル生活なのかなと思います。



「無事是貴人」という言葉がある

当たり前のことを当たり前に、と言う意味らしい。

当たり前のことを当たり前にできなくなったら幸せから外れてしまう

自分の分を守って生きていく以上のものを望むのは不幸で

平凡が幸せの核であると 

最後に

自然のまま淡々とかつ粛々と生きることが出来る人が、人生を悟った人であると

この本には書いてあります。


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2 コメント

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Unknown (S)
2011-05-02 15:07:42
偉大な宗教は今の先進国と比べればいずれも貧しい時代の産物です。共通しているのは、物欲にとらわれず質素に生きることと利他を奨励していることです。/戦後の物質的に恵まれない時代は生活の向上は物質的な豊かさを求めることでした。しかしそれを達成しても満足はできず一転して「心の豊かさ」が叫ばれるようになりました。思うに「心の豊かさ」とは前述の教えを実践して初めて分かるものではないでしょうか。しょっちゅう不平不満を言う人に「心の豊かさ」があるはずありません。/そうかといって空腹な人に対して「腹が減っているのは気のせい」とがばいばあちゃんのようなことを言っても空腹は直りません。「人は人、吾は吾」と思えるようになるまでは修行や経験が必要です。生まれたときから「人は人、吾は吾」と教育されたら社会生活からはみ出す人が増えるでしょう。「悟り」は必要ですが、すべての人が悟りを開くと文明社会が成り立ちません。文明は悟りきらない人によって進歩してきたとも言えるでしょう。/この震災後の自粛ムードに対して「何でも自粛したら社会が成り立たないから普通に生活してください」という主張もごもっともです。生活基盤を失った人はやはり元のような文明生活に戻りたいでしょう。/釈迦は次期国王の身分を捨てて出家しましたが、仮に貧しい身分に生まれていたら出家したかどうか疑問です。おそらくみんなと同じように世俗的な欲望を追求したのではないでしょうか。その最中に「貧しい者は幸いである。天国の門をくぐりやすいから」と言われて態度を改める人は少ないと思います。/経験しなければ悟りを開くことはできません。釈迦も物質的に恵まれた生活を捨て苦行を続けてもダメで、中庸の道を選んでようやく悟りを開きました。イエスも修行しています。ムハンマドは修行らしい修行はしていません。しかし行商をする中で社会の矛盾を感じ、そのうちに神の声を聞いたと言います。
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S様へ (maki)
2011-05-02 17:24:06
悟りを宗教から考えたときに、私は数年間教会に通いました、旧約聖書と新約聖書の矛盾は言うに及ばず、その矛盾だらけのキリスト教で悟りを開くことはまず無理ですね、やっやこし~ですね、一筋縄では理解できそうにありません。過去の偉人達の多くの方は、自分をどん底の境遇に置くことで、自分の存在を善しとして来た風があります。キリスト教に言わせると、ユダヤ教もイスラム教もヒンズー教も仏教も、全部幻想を拝んでいるということになりますが、その反対に例えば、仏教に言わせても他の宗教は幻想なのです、要するに本物は自分だけってことになります、キリスト教は聖書に書かれている事についての辻褄を合わすことよりも、人を救うことを優先させています。そこで、聖書に書いてある事と矛盾したことも平気でやってました。その代表が、聖母マリアに礼拝することを許し、さらにマリア像を拝むことを許している事です。自分の結論から言うと宗教とは論理的に理解する物ではなく、信仰によって疑うことなく理解する物ですよね。人間は、何故、この世で悩み・・・・そして苦しむのでしょうか・・・これは、宗教に課せられた大きな課題であり、そして疑問でも悟りの原点でもあります。仏教の開祖である釈尊が悟りを開き、そして、気がついたこと・・・それは・・・「人間が苦しむのは執着するから」 この世の中のものはすべて「無常」であるのにかかわらず、人間はそうでないと思いたがる・・・・そこに苦しみが生じるのだということなんです。これを、仏教的には「悟り」と呼んだわけです。ところで、私はご先祖様を信じている典型的な日本人ですので、キリスト教徒ではありません。

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