永野宏三のデザイン館&童画館  アート日和のできごと

イスラエル国立美術館、ミュンヘン国立応用美術館、国立国会図書館、武蔵野美術大学美術館図書館他に永野宏三の主な作品が収蔵。

そこそこの 徒然歩き。

2008-05-23 20:28:44 | 日記・エッセイ・コラム
随分と季節がほどほどに暑くなってきた。今がいちばん歩くのにほどよく心地よい。門司球場から見上げる戸ノ上山からの緑が目に気持ち良く染みる。門司駅を抜けて大里の海岸に出る。関門海峡の風は今がいちばん気持ちよい。このところ毎日午後7時くらいから1時間は歩く。身体もしまってきた。血圧もみるみるうちに下がってきた。身体が軽いし、頭もスッキリしてきた感じだ。散歩の後は2キロの鉄アレイの上げ下げ。お腹が少しだが引込む。ちょっと嬉しくなる。自分の身体が運動で変化することを楽しむ。


夢がもつれてしまった。

2008-05-19 15:00:22 | 日記・エッセイ・コラム
一日中フォーク・クルセーダーズの“悲しくてやりきれない”を聴く。夢にはいろいろなかたちがある。いい思いでのかたち。人の情け。遠く離れていても何ごともなく安心していること。しかし突然夢がもつれて、突然の別れがある。言葉はそんなに多く語り合わなくても、やさしさをあたえてくれた人の終焉を「なぜ?」と思うしかない悲しい別れ。こんな時はやりきれない思いを涙で流すのがいいと思う。


ポップなアート。

2008-05-14 17:40:22 | インポート
アメリカのアーティスト、ロバート・ラウシェンバーグさんが亡くなられた。82歳で終焉を迎えられたそうだ。ラウシェンバーグさんの絵を見たのは僕が高校生のころだ。見たといつても美術雑誌で見たのだ。表現されたイマジネーションの世界はそれまでに見たことのない世界だった。縦横無尽に画面の中にコラージュされた人や文字、国旗などそれまでにアーティストが描くテーマとは世界観が違っていて驚いた。しかもカラッとして、情念みたいなものを一切感じさせない新しいアートだつた。その60年代といえば、アメリカの芸術、ポップアートを全世界に新しいムーブメントを興していた。まだ子どもの僕はいわゆるカルチャーショックを抱いてしまった。それまで、絵の対象物といえば風景や物を光りと影を捉えて忠実に描きなさいと絵の先生から指導を受けているからなおさらだ。ポップアートに関する本をあさり、ウォーホール、ジャスパー・ジョーンズ、ボロック、リヒテンスタインなどの絵の洗礼を受けた。東京の美術館でアメリカのアート展があると言えば、夜行列車に乗って見に行く。ポップアート対象物を即物的にしかも現代社会の大衆的な物や事を、今という時代の眼で捉えるのがおもしろい。20年前にNYに行った時もまっ先にMOMAとホイットニー美術館に行き、ラウシエンバーグやポップアーティストの絵を鑑賞した。その時の感動は今も僕に啓示となって、自由なイマジネーションの素になっている。


先の時代へ紡ぐ町。

2008-05-12 06:59:09 | インポート
大里文化会総会に出る。活動報告の後、お目当ての北野会長の講話を聴くのが楽しみである。長崎街道大里宿の歴史を聴講する。大里宿は江戸幕府の規定で山陽街道の終点とされていたそうだ。この話しに驚く。下関赤間関と大里を結ぶ重要基点だ。長崎藩直轄管理の宿である大里は今で言う税関である。鎖国時代、長崎は唯一ヨーロッパ、中国など外国と接触交流の場だから、長崎街道から小倉、そして大里から下関。江戸へと、シルクロードが繋がっているわけだ。門司は明治以降の国策事業としての築港、鉄道、商社の話しは多いが、江戸時代の資料をあまり耳にすることができないので貴重だ。会場で久しぶりに内山さんとお会いする。懐かしくお互い近況など話しを楽しむ。



言霊。

2008-05-10 06:56:50 | 日記・エッセイ・コラム
僕は新聞ページの下段にある出版広告を読むのが好きだ。本文記事の政治、経済、社会、文化、スポーツでマスコミが流す情報は一応ひとつの判断材料として世の中の動きは解る。ただ書き手の記者の考え、デスクの判断で一方的に情報が送られてくるから、受けてのこちらとしては正しい情報かは信用していない。あくまで、情報としてのソースとしている。最近の週刊誌、月刊誌の出版広告の広告見出しを読んでいると、ほとんど政治、経済の貧困を書いている。出版会社の編集や専門のコピーライターが書いているのだろうが、物事をあおりたてるような言葉の羅列ばかりで読者を引き付けるような表現がほとんどだ。広告の言葉だから、言葉の操りで表現されたものだから単純な言葉が面白い。しかし、出版広告に表現される言葉は最近ネガティブな表現が多い。不安をかきたてて本を売ろうとしているのだろうか。最近本屋さんに行くとと客が少ない。併せて出版不況のせいもあるのだろう。インターネットという強力で手軽な情報確認手段もあるから、個人レベルの情報確認が内向きになっているせいかもしれない。そう言えば昨今固定電話での言葉の発信も少なくなってきているような気がする。電子メールで簡単に事をすますようになってきているからだろうか。言葉の交流で活き活きするような場面が欲しいような気がする。