かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

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渡部松男の歌⑦(レポート)

2013年07月13日 | 短歌の鑑賞


 渡辺松男研究 ⑦(レポート)(13年7月)『寒気氾濫』(1997年)
                【八月十五日うつそみ、パーフェクト・エッグ】
               参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部慧子
               ◆歌と文中の( )内は、ふりがな


※今回、私(鹿取)のミスで、研究会を録音したものが再生できませんでした。活発な意見
   がかわされたのに残念でなりません。何よりも発言してくださった会員の皆さまにお詫びい
   たします。今回は渡部慧子さんの手書きレポートを打ち直したものを掲載します。


59 トイレットペーパー白く垂れ下がり閻浮(えんぶ)に謎のなきような朝

 「閻浮」とは現世やこの世をさすのでトイレットペーパーとの組み合わせは意外な感じはない。だが使用するまで巻かれているものが「垂れ下がり」とは、違和感を、「白く」とは未知なる感じ、そんなものが匂ってくる。また、私たちのもろさ、あやうさを思えば「閻浮」という梵語の音写の語を、3句に据えていることも効果的だ。さらに「謎のなきような朝」とは微妙に逆説的である。「ような」は(…に似ている。…と想像される。)の意味だが、判断・想像の及ばない部分を秘めている時は、私たちはこれを使う。「ような」によって実は「謎」に繋がっている朝かもしれない。
 
 ★この世は謎にみちているけれども、トイレットペーパーが白く垂れ下がっているのを見ている
  この朝は、まるでこの世に謎なんかないように思われる、というのだろう。トイレットペーパ
  ーが白く垂れ下がっていることが日常のありふれたこととして提示されているが、一方ではこ
  のトイレットペーパーこそが謎の入り口のようにも思われる。作者の手品の迷宮に引き込まれ
  る感じもする。(鹿取)


60 ふりむけば死者恒河沙(ごうがしゃ)の目のひかりうつそみは静止しておれぬなり

 「ふりむけば」「死者」の「目のひかり」があった。「死者恒河沙」という畳みかけるような言葉の勢いの「者」「沙」に押され、「目のひかり」に射られ、「うつそみは静止しておれぬなり」とまず読んだ。
 思えば「死者」と「目のひかり」とは、小林秀雄氏の言われたように、生老病を抜け出た者として死者は実に確かである。そのようなものとしての「目のひかり」を作者は言っていよう。一方うつそみの煩悩ある生者は、実にあいまいな右往左往する存在で「静止」すら「しておれぬなり」と作者は言っていないか。
 あるいは「死者恒河沙の目のひかり」の累々たる死者の縁に生者は「うつそみ」として漂っており、やがてまちがいなく死者の方へ引っ張られるものとして「静止しておれぬなり」と言うのだろうか。(40番歌、鈴木良明氏のレポート、沈黙が生の力となって充満し、というところを参考にさせていただきました。)
 いずれにせよ死者が圧倒的な力をもって迫る、そんな内容の一首。

 ★題に「八月十五日うつそみ」とあるので、もう少し八月十五日の意味を考えて読むべきかもし
  れない。先の歌も、トイレットペーパーが白く垂れ下がっている朝は日本が敗戦を迎えたその
  記念の日だったのだ。そうするとこの60番歌の無数の死者は戦死者、あるいは戦争の犠牲に
  なって死んだ人々で、そういう死者の無数の目に見られていたたまれない思いをうたっている
  のだろう。(鹿取)


61 耳鳴りを空気の音とおもうときうつそみはああ穴だらけなり

 この自分の「うつそみ」というものがある。「耳鳴り」を覚えて、外界の空気が耳へ入り込んで動くゆえであろうと「音」を思うに至った。皮膚にすっかりおおわれて、内臓組織をつぶさには知らないが、神秘的に機能し、生かされていると考えていたはず。ある種の驚きがあって「うつそみはああ穴だらけなり」ともらす。みどり児がものにおどろいたような感じだったか。

 ★戦争と結びつけて考えると、穴だらけのうつしみという把握はおそろしいものがある。
(鹿取)


62 乳白色の湯船に首を浮かばせて首はただよいゆくにもあらず

 たっぷりの乳白色の湯船につかっているので、身体は作者自身に見えない。首だけを、まるで「浮かばせて」いるような状態。これは旅の宿りかもしれない。いかほどか漂泊の思いなどあって、
「浮かばせて」いるようにみえる「首」だが、心のように「ただよいゆくにもあらず」だなあと詠ったのであろう。
 
 ★「浮かばせて」の連想で「海にお船を浮かばせて行ってみたいなよその国」という歌を思い出
  した。船ならよその国に行けるが、湯船に首を浮かばせてみてもどこにもゆけないということ
  か。それとも、ただ珍しい湯に浸かって浮かれている歌なのだろうか。しかし、もし胴体から
  切り離されて首だけが漂うことがあったら恐ろしい。戦国時代の敵の首をかくなどという情景
  も思い出させる。(鹿取)


63 木のうちへうちへとそそぐ月の光(かげ) 木の内界も穢土にやあらん

 「穢土」とは、煩悩に従わされて悟りに入らないもののいる国土。木があり月の光があるのを
「木のうちへうちへとそそぐ月の光」と捉え、しみ入るように差す月の光と内省的な作者像の浮かぶ名詞句であり、その木への作者の心情の見える一首。一字空けに続く下の句「木の内界も穢土にやあらん」の「も」によって作者自身の内界の認識内容が明らかだ。が、そこに穏やかな諦念があり、それゆえにこそ、眼前の木を作者と同じ地平に立つものとみている。先に内省的な作者像と漠然と記したが、月の光による内界浄化のこと、厭離などは脳裡にあったであろうが、ここにさだかにはみえない。いずれにせよ、上の句下の句の関係はあるような、ないような、絶妙なバランスにより、しみじみとした静けさを感じる。

 ★こういう下の句を見ていると思念を呼び覚まされる。また、伝統から切れている潔さも感じる。
  「無といわず無無ともいわず黒き樹よ樹内にゾシマ長老ぞ病む」(45頁)とも関連がある歌
  と思う。(鹿取) 

      
64 つくづくとメタフィジカルな寒卵閻浮提(えんぶだい)容れ卓上に澄む

 閻浮提は、古代仏教の世界観で人間界のこと、この世。「メタフィジカル」「閻浮提」これらによって東西の思想、宗教に読者の想像がおよび、トリックのような「寒卵閻浮提容れ」に理屈を超えた説得力が備わる。「メタフィジカルな寒卵」だから世界を容れ、さらにそこに秩序だった思考を用いて卵自身混沌としていないのだ。そのような寒卵はその場でつまり「卓上」に澄むことになる。この「澄む」とは卵の外からは見えないので、内側の感覚だと思う。作者と寒卵は一体であると読み取った。

 ★歌集をいただいた時、この歌が扉に書かれていたので、作者も好きな歌なのだと思う。小さい
  もにに大きなものが入っているというのは私にはとても自然に受け入れられる。割ってお皿に
  入れた卵という意見もあったが、卵の楕円形の形がメタフィジカルという形容に一役買ってい
  て大切なので、生の卵が一つ卓上に置かれている状態だと思う。また卵が先か鶏が先かの論争
  もあるように、卵というのはものの創めの形だから、大根とか人参では代用できないアイテム
  だろう。この卵はこの世一切を容れた状態で卓上に澄んでいる。レポーターの「作者と寒卵は
  一体」という意見には私は反対で、〈われ〉は卵を眺めていて、その澄んだ状態を確認してい
  るのだと思う。この歌も本歌集の自選5首に入っていて、作者が自歌自注しているので引用し
  ておきます。(鹿取)

【自歌自注】
メタフィジカルという語と卵とは矛盾するものです。それを一旦矛盾させておいて結句「澄む」
 で解消させるのが味噌でした。そのためにはただの卵ではだめで、寒卵でなければなりませんで
 した。卵の中→黄身→浮という連想が働くことから、全世界や宇宙という言葉ではだめで、閻浮
 提という語でなければなりませんでした。小に大を包含させる、極小に極大を見る、というのが
 わたしの好きな発想のパターンのひとつでした。(「かりん」2010年11月号)
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