かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男の歌① レポート

2013年06月13日 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究 ①(2012年12月)     レポーター  鹿取 未放
                    ◆歌の中の( )は、ふりがな

※ 自分の歌は自分よりずっと力量のある人に読んでもらいたいと渡辺松男氏が時評に書いていたことがある。鑑賞される側からすればも   っともである。私自身も同じように思う。だから鎌倉支部で「渡辺松男の歌」の鑑賞を始めるのは、とっても申し訳なく身が縮まる思いが  する。しかし、逆に鑑賞する立場になるとできるだけ優れた歌を鑑賞したいというのも本当のところである。象を撫でる結果になることは  目に見えているが許してもらうほかはない。誤って作者を傷つけることがないよう祈るばかりである。

1 はる 脇窩にほふままなるうつそみのうごけぬはなゐゆるるにまかす
      「かりん」2011年5月号

 春が来てなまなましい人体、腋の下も臭いを放っている。〈私〉は動くことができない病状なので地震の揺れるままに身を任せている。「脇窩」は「キョウカ」と読んで腋の下の意味だろう。「うつそみ」は、「うつせみ」の古い形で、この世の人の意。
 3・11の地震を歌った一連の第一首め。「はる」というひらかな表記の出だしが地震を詠うには何ともやわらかい語感で意表を突かれる。一字空けて句割れとなった「脇窩」以下三句までは人体の生々しさを伝えている。「うつそみ」「うごけぬ」とウ音でリズムをとり、脇窩以外は全てひらがなを用いた字面もやわらかい。実際の地震はやわらかさにはほど遠いものであったが、一首からめまいのようなうねりが伝わってくる。
 
2 看護師は「うごかないで!」とさけべどもうごきうるものはにげようとする

 上の句で入院中の出来事だということが分かる。〈私〉は動けないのでやむなく地震に身を任せているが、他の動ける患者はみな当然の本能として逃げようとする。それを看護師が必死で止めている。疾患を抱えた患者が動くとかえって危ないからである。それでもあわてふためいて逃げようとする患者と看護師との齟齬がユーモアともペーソスとも読める。看護師は職業意識から冷静を保っているのであろうし、患者は本能でやみくもに動くのだ。そして動くに動けない〈私〉はその双方をやや距離を置いて眺めていると言えば言い過ぎか?緊迫感を伝えながら余裕が感じられるのは幾日かおいて作っているからだろう。

3 皺に泥ふちやくせる顔はたすかりし母なれど目に子らはあらざる

 津波の被害者をうたっている。たぶんこの母は津波の時、必死で子供たちを抱えたか、手をつないでいたのだろう。しかし波に呑まれ気を失って(とはどこにも書いていないが、そういう状況だと想像できる。)気がついてみたら我が子はどこにもいなかった。泥まみれになった自分だけが生き残った母親の呆然自失の様子が浮かんで、言葉を失う。「ふちやくせる」のひらがな表記が不気味だ。これは作者の想像であろうか。

4 まぼろしのわがたなごころとびてゆき生きのこり哭くひとの背をなづ

 「たなごころ」は「てのひら」の古語。ふりがなはないが「慟哭」の「哭」の文字を使って「哭く」(なく)と読ませている。〈私〉は動けないので、身内を喪って慟哭している人のそばに行ってやることができない。そこで幻の掌が飛んで行って慟哭する人の背を撫でるのである。
 あまたの震災詠が詠まれたが、渡辺松男のこの一連はその中でも最高の歌だと思う。これほどの思いの深さをうたった歌をほかに知らない。

5 わが掌ひやくにひやくさんびやくあらばともおもふ慟(な)く背をさするまぼろし

 前歌の続きで、生き残って泣く人は一人ではない。自分の一対のてのひらだけではとても足りない。だからてのひらが100も200も300もあればよいと思う。作者は偉そうに自分を高みに置いているわけでは全くないが、衆生を救うため千本もの手をさしのべる千手観音のようだ。そして、作者はこのとき確かに千手観音の心持ちになっていたのだろう。この歌を読むと読み手のこころも洗われて、作者と同じよう背中を撫でる手が欲しくなる。

6 あなたの目がみてしまひたるぜつばうをわかるよとなでてあげたしそつと

 これは一人に寄り添っている歌。もっともその「あなた」は千人の、またそれ以上の被災した全ての一人一人である。身内を喪い、家や田畑を失い、自分の命以外すべてを失った人の絶望に対して「わかるよ」の言葉以外にいう言葉はない。万感を込めて撫でてあげるほかに術がない。ALSの宣告を受け闘病中の作者の言葉であるだけに、「わかるよ」という言葉に無限の重みがある。

7 したうけのそのしたうけのしたうけのさげふゐんぬるッぬるッと被爆す

 原発事故が起きた時、いちばん危険な現場には最下層の下請けの作業員が遣られた。そして恐ろしい被爆をした。(ふつう原子炉等によるヒバクは「被曝」の文字を当てるが、辞書では「被爆」の文字でも同様の意味があがっている。)ひらがな、かたかな混交の「ぬるッぬるッ」の文字遣いが被爆の薄気味悪さと残酷さを視覚的に言い当てている。三句半までのひらがな表記ももちろんその痛ましさを言って余りがある。ある意味な、内容は報道されたことでみんなよく知っている事柄だが、言葉を自己の身体をくぐらせて使っているのだ。この歌は告発であろうか?東京電力に対する?政府に対する?いや、生命に対するもっと根源的な問いかけのような気がする。

8 木のやうに目をあけてをり目をあけてゐることはたれのじやまにもならず
      『蝶』(2011年8月発行)

 歌集『蝶』から一首のみここに加えた。この大震災をうたった一連に流れている〈こころ〉に根本的に通うところのある歌だと思うからである。「たれのじやまにもならず」というのがこの作者の基本的な姿勢である。目をあけてこの世を見ること、ただ目をあけていることは誰のじゃまにもならないという。
 ただこの歌の上の句は一般的には分かりにくいだろう。「目をあける」という日常的な行為に「木のやうに」という形容がついたとたん、論理では理解できなくなるからだ。でも、とりあえず自分の心を脱力して書かれたとおりに読んでみるのがよいと思う。木は目をあけて何かを(この世に起こる全てを、だろうか)見ているのだ。それを真似て〈私〉も目をあけてみる。何かを命令したり、懇願したり、泣いたりするのではない、ただ誰のじゃまにもならないように目をあけているだけだ。それにも関わらずこの歌からは無限の優しさが伝わってくる。飛躍するが、こういう詩人が同時代にいてくれて、ほんとうに嬉しいと私は常々思っているのだ。
 関連する歌は膨大にあるが、初期作品から二首だけ挙げておく。

恍惚と樹が目を閉じてゆく月夜樹に目があると誰に告げまし
『寒気氾濫』
 一本の樹が瞑想を開始して倒さるるまで立ちておりたり


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1 コメント

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めぐみさん、コメントありがとう。 (鹿取 未放)
2013-07-02 21:49:07
ブログ、読んでくださり、ありがとうございます。
ぜひ、ご意見などお寄せくださいね。
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