かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男『寒気氾濫』の鑑賞② 記録

2013年06月11日 | 短歌の鑑賞
○歌の作者や引用している方々に極力失礼のないよう発言しているつもりですが、
 もし失礼がありましたらご指摘下さい。

 ○記録者である私とは違う意見も載せています。また会員の意見が常に一致する
  訳ではないので、各論を並列して載せています。

 ○お読み下さった方の忌憚のない御批評をお待ちしています。 



 渡辺松男研究 2(13年2月) 『寒気氾濫』(1997年)地下に還せり
        参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
   司会と記録  鹿取 未放

9 八月をふつふつと黴毒のフリードリヒ・ニーチェひげ濃かりけり

 ★第一歌集の冒頭にニーチェを置いているのはそれだけ思い入れが強いからだろう。(ニーチェの
  髭の濃い写真の本を示して)渡辺さんは哲学科だから、ニーチェは身体にしみこんでいるのだろ
  う。私は高校時代にこの本(高橋健二・秋山英夫訳『こうツァラツストラは語った』……以後『ツ
  ァラツストラ』と略記)を読んでいるが、最初は詩として読んで陶酔したり、永劫回帰をリアル
  に怖がって震え上がったりしながら読んだ。それ以後もただ読み流してきただけなので身に付い
  ていない。渡辺さんの歌を読んでいると、今に至るまで、ああこれはニーチェだと思われる歌が
  たくさんある。(鹿取)
 ★渡辺さんが小さいときから考えてきたことと、ニーチェの言っていることが符合したのだろう。影
  響を受けたというよりも、自分の考えたことを歌にしていたら、ああニーチェも同じようなことを
  言っていると発見したのではないか。だから、ニーチェとは別な視点がある。(鈴木)
 ★もちろん渡辺さん自身の思索もすごい。またニーチェからだけ影響を受けた訳ではなく様々な思想
  家や作家から影響を受けている。それらみんなひっくるめてオリジナルなものになっている。
   (鹿取)
 ★鈴木さんのお話を伺っていると、渡辺さんはゆとりをもって詠んでいらっしゃると思える。ちゃん
  とニーチェを咀嚼している。(崎尾)
 ★「ふつふつと」というところが渡辺さん独特のとらえ方。生々しくとらえている。(鈴木)
 ★ニーチェが爆発して狂気に至る内面を「ふつふつと」で表現している。ニーチェの圧倒的な力と
  いうものを表している。(鹿取)
 ★ニーチェをうたったどの歌も渡辺さんはニーチェに呑み込まれていない。乗り越えている感じが
  する。(鈴木)
 ★そうですね、同感です。渡辺さんはいちいちニーチェを念頭に置いて作っている訳ではなく、歌は
  彼独特の生活とか思考から導き出されている。(鹿取)
 ★ニーチェにかなり自分を重ねているのだろう。精神を病んだところもニーチェと渡辺さんは共通し
  ている。(鈴木)
 ★大井学さんの評論に「ニーチェとの対話―渡辺松男」(「かりん」一九九八年八月号)があります。
  鈴木さん同様渡辺さんの歌とニーチェを関連させて読んでいます。また、坂井修一さんの第一歌集
  『ラビュリントスの日々』の冒頭歌は「雪でみがく窓 その部屋のみどりからイエスは離りニーチェ
  は離る」です。同じニーチェをうたって渡辺さんのニーチェは生々しく自己に迫っていて、坂井さん
  は意志的にニーチェを遠ざけている感じがします。ふたりの生の姿勢かな、違いが分かって面白い
  と思いました。(鹿取)
  

10 筋肉の時代が消えたわけでなくジャッキを上げる弟の腕
11 トラックを多汗実行型と笑みなみなみと給油なしたる男
12 おみなには吃る弟がトラックの巨きさとなりきりて飛ばすよ
13 嬬恋のキャベツを運ぶトラックが光芒のなかを過ぎてゆきたり

 ★鈴木さんにこうして並べて論じていただくと一首一首の歌が力強く感じられる。道元禅師は自己と
  他己という言葉を言っていらっしゃるらしい。身体というのは自分でどうすることもできない他己
  であると聞いた。(崎尾)
 ★私はあれこれ考えるより行動しろとよく親に言われた。確かにやってみると心が体に従うことがあ
  る。この歌はそういう感じかなあと思う。(慧子)
 ★現実の家族とか現実に起こったことがらとかと対応させて鑑賞する必要はな   い。ここでは、
  ガソリンを消費する車を「多汗実行型」といってみる面白さとか、トラックの大きさになりきった
  万能感とかよく分かって興味深い。同じ歌集にある歌で、作業着の弟が宇宙図を見せろと言ってや
  ってくるとか、トラックを降りた女性がフーコーを持っているとか知的な面を付与された労働者の
  キャラクターを私はとても新鮮に感じた。(鹿取)
 ★髭と同じように弟の輪郭がはっきり出ている。(鈴木)
 ★肉体労働を蔑するのではなく躍動感をもってとらえているところが好きだし、生活を大事にしよう
  とする作者の感じ方に信頼が置ける。頭脳を使うのが偉くて筋肉を使うのは下等というような見方
  もあるが、ここでは全くニュートラルに見ている。(鹿取)


14 土屋文明さえも知らざる大方のひとりなる父鉄工に生く
15 もはや死語となりておれども税吏への父の口癖「われわれ庶民」

 ★群れをなして甘んじる心というのが確かに庶民にはある。(崎尾)
 ★第一歌集の出版記念会の折り、「父に対して『土屋文明さえも知らざる』などということは言っちゃ
  あいけないと言った人があった。でも、そんなことはない。(鈴木)
 ★15の歌は、庶民のしたたかさが出ていると思う。相手を立てて自分たちをへりくだりながら実を取
  ろうとしている態度。何かをかわしたりすり抜けようとするときのしたたかさ。確かに『ツァラツス
  トラ』では、群れるな一人になれとしばしば言っている。私も一人で行くから、君たちもそれぞれ一
  人で犀の角のように孤独に行けって。(鹿取)
 ★今の時代とニーチェの時代は違っていて、ニーチェの時代は形式的な平等主義だったのではない
  か。今は実質的平等を与えるという考え。だから必ずしもニーチェが弱者をさげすむのとはちょっと
  違う。民主主義を批判するためにニーチェが利用されている面もある。(鈴木)
 ★「力への意志」というのも利用されましたよね。(鹿取)
 ★ナチスから利用されやすい考え方ではある。作者の視点は鹿取さんが「かりん」2月号の評論にも
  書いていたように、あらゆるものに平等。そこがニーチェと違う点だと思う。(鈴木)
 ★ニーチェは思考における高みを言っているわけで、超人にしても政治的意図でいっている訳では
  全然ない。それを選民思想として利用されただけ。渡辺さんには、日常を生きることと、精神の
  高みを目指すこととの葛藤が常にあるように思われる。(鹿取)


16 そうだそのように怒りて上げてみよ見てみたかった象の足裏

 ★『ツァラツストラ』に鈴木さんのいうような骨折するゾウって箇所があるって気がつかなかった。
   (鹿取)
 ★ニーチェにはこういう視点がある。(鈴木)
 ★渡辺さんの歌には一首一首にいい意味での驚きがある。(崎尾)

 ※動物園に行くたび思い深まれる鶴は怒りているにあらずや   伊藤一彦
『月語抄』(一九七七年)


17 十月のまぶしきなかへひとすじのああ気持ちよき犀の放尿

 ★ニーチェも東洋的なものに関心を持ち、仏教もかじっているようだ。(鈴木)
 ★渡辺さんが自分の評論《後述》の中で、鯨のような大きなものが悩んでいたり孤独だったりする
  ところが絵になるので、ダニが耐えていたら人は笑うだろう、というような意味のことを言っていて、
  ひっくりかえって笑ったことがある。だからここも大きな犀が登場するのだろう。前歌も大きな象だ
  し。(鹿取)
 ★ごまめの歯ぎしりというのもある。私は渡辺さんのように実感的になかなかうたえない。(鈴木)
 ★自然ですよね。哲学やってるけど、何か頭でこねくりまわしているのとは全く違って。(鹿取)
 ★渡辺さんの感覚が哲学的なんでしょうね。(鈴木)
 ★自分の持っているアクが全くない。(崎尾)
 
 ※正確には「鯨のようにスケールの大きいものが、言葉なくその存在に耐えながら泳ぐからその淋し
  さもいいのであって、――中略――もっと小さければどうだろう。そもそも感情移入などしきれな
  い。ダニが耐えていたら人は笑うだろう。」(「かりん」一九九七年二月号「日常宇宙」)
   右記は丁田隆「ざっぷりとプランクトンを食みながら淋しさを言うことばを持たず」についての
  コメント。渡辺さん自身「大洋にはてなきこともアンニュイで抹香鯨射精せよ」(『寒気氾濫』)
  と鯨を歌っている。


18 重力をあざ笑いつつ大股でツァラトゥストラは深山に消えた

 ★『ツァラツストラ』は四部構成の作品。最後の第四部は88部だかしか印刷せず、身内だけにしか
  配布していない。評判はよくなかったらしい。(鈴木)
 ★すごく実感をもって書いている。『ツァラツストラ』には一部の終わりにも二部の終わりにも深山
  に消える場面があるが、たとえばこんな部分かな。(鹿取)

   今やわたしはひとりで行く、弟子たちよ!きみたちも去って、ひとり行け!わたしはそれを欲
   する。/まことに、わたしはきみたちにすすめる。わたしから去って、ツァラツストラにさから
   え!さらによりよくは、ツァラツストラを恥じよ!かれはきみたちをあざむいたかもしれぬ。
          『ツァラツストラ』 第一部「与える徳について」

 ★深山に消えたのは具体でないので、どの部分かはっきりしない。(鈴木)
 ★空海も最澄も山に入ったが、ニーチェも山に入ったのですね。机上の空論ではなく、身体を使って
  山に行ったところに身体性を感じますね。(慧子)
 ★思索を深めるためには独りにならないといけないから、みんな山に入っていますよね。お釈迦様
  だってそうだし、キリストはまあ荒野だけど独りになっているし。(鹿取)
★夜とかに呑み込まれそうになった時に何かひらめくのかしらねえ。へやの中だとそういうことは
  起こらないからね。(慧子)
 ★でも、山と里を行ったり来たりして分かるんじゃないか。里に出てきて世間とのギャップからま
  た何か考える。(鈴木)
 ★ギリシャ哲学もそうですけど、ツァラツストラも対話していますよね、山から下りてきてはいろ
  んな人と。そこで考えを修正し、また山に入って思索を深める。(鹿取)
 ★達磨の面壁とは違うんですね。(慧子)


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