西麻布・Super Deluxe。
前作『Parachute Woman』があちこちで話題になっていたので見てみた。タイトルは違うが、これも前作の発展形ということらしい。演出・美術/藤田康城、音楽・演奏/猿山修、出演/安藤朋子。あの『反写真論』の倉石信乃がテクストを担当している。コの字型の客席に細長い台が突き出し、正面にはミシン台が置かれ、それを囲むようにイントレが組まれて巨大なパラシュートが吊り下がる。「縫う」とか「アイロンをかける」といったような機械的な作業・労働をモティーフにしつつ、そこから小さく、時に大きく逸脱する安藤のアクションと、テクスト、映像、猿山のコントラバスが組み合わされる。行為の具象的な再現と抽象的なイメージへの飛躍が独特のバランスを保っていて、主題も簡単に噛み砕けない曖昧さというか難解さをもっているので、おいそれと「面白かった」とか「つまらなかった」とかいいにくいが、とにかく造形的な完成度に関しては、これほどワケわからないものをよくもここまでと唸らせる仕上がりではある。ミシン台の周囲にハサミとか霧吹きとか水とか、作業に必要な道具がゴムでぶら下がっていて、自らもゴムベルトで台につながれている安藤が車輪つきの椅子で行ったり来たりしながら、大きく広げられたパラシュートの布にシュシュッと霧吹きをやっては離し、反対側の霧吹きをつかんでシュシュッとやっては離し、すると、ちょうど手から離れた霧吹きがスッ飛んでいく先にトタンの板が作りつけてあって、そこにガーンとあたって音を立てるというシーンなど、労働を効率化する種類の合理性を遊戯的に拡張することでポエジーのようなものを立ち上げているのが面白い。ガーンという耳障りな音が鳴った瞬間に、トタン板の存在感と、そこにそれが設置されていることの周到さとがグッと迫り出す。合理的だが無意味、無意味だが合理的。アイロンをかけるとか、スイッチを入れるとか、アクションはどれも仮の目的によって動機付けられているのだが、その目的性を宙吊りにし、ズラすことでもっと抽象的なテーマを紡ぎ出そうとしているようだ。このとき、目的が前に出すぎると手段(動きのプロセス)が見えなくなってしまうし、逆に手段(プロセス)が強調されすぎると今度は目的が邪魔になるだろう。ちなみにダンスでモノを使う場合、しばしば道具の道具性(使用目的)がダンスを死なせてしまうことがある。例えば、何でもいいが、天野由起子『蝶調のマツリ』('02)にはトイピアノが出てくる。天野はその鍵盤を押して音を出すのだが、その指のストロークは「音を出す」という目的、いいかえれば鍵盤という「目的地」に束縛されることで、純粋で自由な手段そのものとしてのストローク=ダンスではなくなってしまう。ならば優れたピアニストにおいては手段と目的が一致しているというべきなのかどうか、それも難問だが、少なくともここでは同じジレンマがどうも安藤の芝居臭さ(動きの月並みな様式化)によって解決されていて、そこに一抹の安易さが漂っているようにも思われた。腕を振り上げる動きとか、体のひねり方とか、小さな声とか、アクの強い予備動作が無防備に頻出するのだ。もちろん安藤のアクションにダンス的な滑らかさを与えてしまうのもやはり安易な解決だろうが、おそらく舞台としての説得力の要だろうし、このいささか生硬な想像力の帰趨を左右するのではないか。もうちょっと観察を続けてみたい気がする。
前作『Parachute Woman』があちこちで話題になっていたので見てみた。タイトルは違うが、これも前作の発展形ということらしい。演出・美術/藤田康城、音楽・演奏/猿山修、出演/安藤朋子。あの『反写真論』の倉石信乃がテクストを担当している。コの字型の客席に細長い台が突き出し、正面にはミシン台が置かれ、それを囲むようにイントレが組まれて巨大なパラシュートが吊り下がる。「縫う」とか「アイロンをかける」といったような機械的な作業・労働をモティーフにしつつ、そこから小さく、時に大きく逸脱する安藤のアクションと、テクスト、映像、猿山のコントラバスが組み合わされる。行為の具象的な再現と抽象的なイメージへの飛躍が独特のバランスを保っていて、主題も簡単に噛み砕けない曖昧さというか難解さをもっているので、おいそれと「面白かった」とか「つまらなかった」とかいいにくいが、とにかく造形的な完成度に関しては、これほどワケわからないものをよくもここまでと唸らせる仕上がりではある。ミシン台の周囲にハサミとか霧吹きとか水とか、作業に必要な道具がゴムでぶら下がっていて、自らもゴムベルトで台につながれている安藤が車輪つきの椅子で行ったり来たりしながら、大きく広げられたパラシュートの布にシュシュッと霧吹きをやっては離し、反対側の霧吹きをつかんでシュシュッとやっては離し、すると、ちょうど手から離れた霧吹きがスッ飛んでいく先にトタンの板が作りつけてあって、そこにガーンとあたって音を立てるというシーンなど、労働を効率化する種類の合理性を遊戯的に拡張することでポエジーのようなものを立ち上げているのが面白い。ガーンという耳障りな音が鳴った瞬間に、トタン板の存在感と、そこにそれが設置されていることの周到さとがグッと迫り出す。合理的だが無意味、無意味だが合理的。アイロンをかけるとか、スイッチを入れるとか、アクションはどれも仮の目的によって動機付けられているのだが、その目的性を宙吊りにし、ズラすことでもっと抽象的なテーマを紡ぎ出そうとしているようだ。このとき、目的が前に出すぎると手段(動きのプロセス)が見えなくなってしまうし、逆に手段(プロセス)が強調されすぎると今度は目的が邪魔になるだろう。ちなみにダンスでモノを使う場合、しばしば道具の道具性(使用目的)がダンスを死なせてしまうことがある。例えば、何でもいいが、天野由起子『蝶調のマツリ』('02)にはトイピアノが出てくる。天野はその鍵盤を押して音を出すのだが、その指のストロークは「音を出す」という目的、いいかえれば鍵盤という「目的地」に束縛されることで、純粋で自由な手段そのものとしてのストローク=ダンスではなくなってしまう。ならば優れたピアニストにおいては手段と目的が一致しているというべきなのかどうか、それも難問だが、少なくともここでは同じジレンマがどうも安藤の芝居臭さ(動きの月並みな様式化)によって解決されていて、そこに一抹の安易さが漂っているようにも思われた。腕を振り上げる動きとか、体のひねり方とか、小さな声とか、アクの強い予備動作が無防備に頻出するのだ。もちろん安藤のアクションにダンス的な滑らかさを与えてしまうのもやはり安易な解決だろうが、おそらく舞台としての説得力の要だろうし、このいささか生硬な想像力の帰趨を左右するのではないか。もうちょっと観察を続けてみたい気がする。