副題「いじくりまわしてとうとうこわしてしまうまでも─1987年~2000年黒沢美香ダンスの変容─」。王子神谷・シアター・バビロンの流れのほとりにて。
▼『クロソフスキー/アクタイオーンの水浴を覗くディアーナ』
▼『ロマンチックナイト』
少し開演が押してから、おもむろに下手側のカーテンがガサガサ動いて、隙間から黒沢美香が入ってくる。真珠や白いレースのバロックかつデカダンな衣装に、顔は黒い布でグルグル巻き。コツコツと音を立ててゆっくり歩くだけでたちまち場の緊張感が上昇し始める。一度この潮の流れのようなものができてしまえばもう大体OKだ。見る側の神経は尖り、活性化した感覚器官が勝手に脳の中枢に大量の情報をどんどん送ってくるようになる。普段より多くのものが見え、多くの音が聞こえ、多くのイメージがわく。芸術作品における情報の総体は作品の側に予め含まれていて、情報量の多い作品ほど観客の経験の密度と濃度は増す、という考え方は一般的だと思うが、ことライヴに関する限りこれは十分妥当ではない。振りや動きを緻密にすることばかりでなく、観客の集中力が高まるよう操作し、見る側がそこに多くを見るように仕向けるというのもアーティストの技術の一部だからだ。いや結局一つのことなのかもしれない。照明とか音響の効果というと、まるで在りもしないものを在るかのように見せる演出=インチキと思われてしまいかねないが、そうではない。そろそろと歩く黒沢の体は、空間全体に広がっている諸々の情報、すなわち光と音と温度と湿度とさらには空調ノイズや床の硬さをも包括的に感知し、処理して、それを再び身体感覚として空間全体に投げ返し放射する。ここにはまずダンサーとスタッフワークのセッションがあり、そしてさらに、環境に対する黒沢の身体のレゾナンスの度合が、観客のそれを左右するということが起きているだろう。黒沢はこの点において最強なのだと思う。『アクタイオーン』は一昨年に一度見ていて、もっとオブジェ的な作品だったように記憶していたのだが、今回は動きまくりだった。ノイズ+弦の音楽にしなやかに反応しながら、きわめて小さな可変域(振り幅)をもつ数個のパラメーターに分解できそうな短い反復パッセージを次々に繰り出していき、時折り唐突にうつ伏せに倒れて流れを切断する。徐々に踊りの熱が高まり、動きが阿修羅の舞のような複雑な線のひしめき合いにまでなってきた。こんな激越な黒沢ダンスを見たのは、ぼくは初めてかもしれない。途中で顔の布をパッと剥ぎ取る。髪が広がって、目が生きてくる。華々しい。眩しすぎる。もはや黒沢はどの瞬間のどの部位からでも、何らかのパッセージを開始することができる状態であり、腰と膝を結んだ線を選ぼうが、目線の先にある指と肘を結んだ線を選ぼうが自由自在に思われた。先月のフォーサイスのガッカリが報われた。ノイズと弦の音量が上がってくる。普通ならテンションは右肩上がりに上昇していきそうなものだが、この日は途中から音がだんだん耳に障るようになってきた。ちょっとうるさすぎる。黒沢はどうだったのかわからないが、こちらの集中力は萎びてしまった。やがて『アクタイオーン』は終わり、下手奥で着替え始める。着替えながらも、ノリがあまり変わらない。それはノリノリで着替えているという意味ではなくて、今日の踊りは最初からこのような脱力具合だったという意味だ。「着替える」という「パフォーマンス」ではなく、あくまでも「ダンス」に見える。髪をアップにして、白いワンピースと黒い手袋、ピンクのマフラーを装着して『ロマンチックナイト』が始まる。同じく一昨年に見たときと印象がかなり違っている。昭和歌謡やラテン音楽を取り混ぜて使うのは同じだが、その1秒もない前のめりな曲間を強引にまたいで過剰な余裕をカマしてみせるふてぶてしさ=暴力性が希薄で、優しいといえば優しいのだが、ぼくにはヌルく感じられた。実際爆笑は誘発されず、音楽を乗りこなし乗り越えるというよりはそれに生真面目に応戦するところで満足しているように思えた。中盤辺りで靴と手袋とマフラーを床に置いて、何かの箱を出してくる。中には長細い箱入りのチョコが入っていて、それをぶっきらぼうに客席へ投げる。桟敷の客の足元にビタン!と叩きつけられるのを笑っていたらぼくの方へも飛んできた。隣の人との間が詰まっているから素早く腕を引っ張り出すこともできず、顔の右の辺りに命中して思わずイテッと言ってしまい、ぼくも黒沢美香も大笑い。その後まだしばらく黒い扇子を持って踊りが続いたのだが、すっかり取り乱してしまいなかなか冷静には見られなかった。それでもやはり物足りない踊りだったような気はする。特に前半のアレを見てしまった後では。
▼『クロソフスキー/アクタイオーンの水浴を覗くディアーナ』
▼『ロマンチックナイト』
少し開演が押してから、おもむろに下手側のカーテンがガサガサ動いて、隙間から黒沢美香が入ってくる。真珠や白いレースのバロックかつデカダンな衣装に、顔は黒い布でグルグル巻き。コツコツと音を立ててゆっくり歩くだけでたちまち場の緊張感が上昇し始める。一度この潮の流れのようなものができてしまえばもう大体OKだ。見る側の神経は尖り、活性化した感覚器官が勝手に脳の中枢に大量の情報をどんどん送ってくるようになる。普段より多くのものが見え、多くの音が聞こえ、多くのイメージがわく。芸術作品における情報の総体は作品の側に予め含まれていて、情報量の多い作品ほど観客の経験の密度と濃度は増す、という考え方は一般的だと思うが、ことライヴに関する限りこれは十分妥当ではない。振りや動きを緻密にすることばかりでなく、観客の集中力が高まるよう操作し、見る側がそこに多くを見るように仕向けるというのもアーティストの技術の一部だからだ。いや結局一つのことなのかもしれない。照明とか音響の効果というと、まるで在りもしないものを在るかのように見せる演出=インチキと思われてしまいかねないが、そうではない。そろそろと歩く黒沢の体は、空間全体に広がっている諸々の情報、すなわち光と音と温度と湿度とさらには空調ノイズや床の硬さをも包括的に感知し、処理して、それを再び身体感覚として空間全体に投げ返し放射する。ここにはまずダンサーとスタッフワークのセッションがあり、そしてさらに、環境に対する黒沢の身体のレゾナンスの度合が、観客のそれを左右するということが起きているだろう。黒沢はこの点において最強なのだと思う。『アクタイオーン』は一昨年に一度見ていて、もっとオブジェ的な作品だったように記憶していたのだが、今回は動きまくりだった。ノイズ+弦の音楽にしなやかに反応しながら、きわめて小さな可変域(振り幅)をもつ数個のパラメーターに分解できそうな短い反復パッセージを次々に繰り出していき、時折り唐突にうつ伏せに倒れて流れを切断する。徐々に踊りの熱が高まり、動きが阿修羅の舞のような複雑な線のひしめき合いにまでなってきた。こんな激越な黒沢ダンスを見たのは、ぼくは初めてかもしれない。途中で顔の布をパッと剥ぎ取る。髪が広がって、目が生きてくる。華々しい。眩しすぎる。もはや黒沢はどの瞬間のどの部位からでも、何らかのパッセージを開始することができる状態であり、腰と膝を結んだ線を選ぼうが、目線の先にある指と肘を結んだ線を選ぼうが自由自在に思われた。先月のフォーサイスのガッカリが報われた。ノイズと弦の音量が上がってくる。普通ならテンションは右肩上がりに上昇していきそうなものだが、この日は途中から音がだんだん耳に障るようになってきた。ちょっとうるさすぎる。黒沢はどうだったのかわからないが、こちらの集中力は萎びてしまった。やがて『アクタイオーン』は終わり、下手奥で着替え始める。着替えながらも、ノリがあまり変わらない。それはノリノリで着替えているという意味ではなくて、今日の踊りは最初からこのような脱力具合だったという意味だ。「着替える」という「パフォーマンス」ではなく、あくまでも「ダンス」に見える。髪をアップにして、白いワンピースと黒い手袋、ピンクのマフラーを装着して『ロマンチックナイト』が始まる。同じく一昨年に見たときと印象がかなり違っている。昭和歌謡やラテン音楽を取り混ぜて使うのは同じだが、その1秒もない前のめりな曲間を強引にまたいで過剰な余裕をカマしてみせるふてぶてしさ=暴力性が希薄で、優しいといえば優しいのだが、ぼくにはヌルく感じられた。実際爆笑は誘発されず、音楽を乗りこなし乗り越えるというよりはそれに生真面目に応戦するところで満足しているように思えた。中盤辺りで靴と手袋とマフラーを床に置いて、何かの箱を出してくる。中には長細い箱入りのチョコが入っていて、それをぶっきらぼうに客席へ投げる。桟敷の客の足元にビタン!と叩きつけられるのを笑っていたらぼくの方へも飛んできた。隣の人との間が詰まっているから素早く腕を引っ張り出すこともできず、顔の右の辺りに命中して思わずイテッと言ってしまい、ぼくも黒沢美香も大笑い。その後まだしばらく黒い扇子を持って踊りが続いたのだが、すっかり取り乱してしまいなかなか冷静には見られなかった。それでもやはり物足りない踊りだったような気はする。特に前半のアレを見てしまった後では。