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ダンスとか。

ダンス01 『ジゼル(s)』

2004-03-07 | ダンスとか
西荻WENZスタジオ。
竹屋啓子のグループ「ダンス01」に、室伏鴻が振り付ける。この組合せは一昨年『舟もなく』で見ていたけれども、それにしても今回はなんでまた『ジゼル』なのか。冒頭現われるのは迷彩服にヘルメットの女たちで、ますます『ジゼル』からは遠のいていくし、あまりにストレートな時事ネタに少々鼻白んでいると、そこへ追い討ちをかけるかの如くなぜかドアーズの『ジ・エンド』と、引き続き『地獄の黙示録』のサウンドトラックが流れ出す。時代錯誤な戦争のイメージ。湾岸戦争の頃に比べれば軍事において身体は地位を回復しているとはいえ、争点はもはや空間や身体ではなく経済なのだからして、つまりこの過剰ゆえに嘘臭い演出は、この人たちは一見兵士の格好をしているけれども実は兵士なんかでありはしないのだ、という反語なのだろう。どっから見ても軍隊のくせに、でも軍隊じゃなくて自衛隊なんですよと言い張る二枚舌な身体だ。無責任に(非主体的に)振りかざされる力、という点で去年の『美貌の青空』における若手三人衆を思い出す。室伏とは違って、筋肉に苦悶の表情を浮かべることもなく淡々と真鍮板をぶん投げていたあのスリムな男たち。この冒頭シーンが終わると、あとはずっとロマンティック・チュチュを付けたダンサーたちが踊り続ける。つまり『ジゼル』=ウィリと2004年の軍隊は、ゾンビ(生きている死体)つながりなのだろう。そして明日の室伏ソロ『すべてはユーレイ』へと。作品ノートにはなるほど「ダンスとは生と死の境界に位置しています」とある。思えばフェラ・クティも軍隊をゾンビ呼ばわりした。とはいえダンサーたちは「踊りまくって死ぬ」ほど踊りまくっていたわけではないし、死んでいるのに踊りまくっているというほど「舞踏」的ヴォキャブラリーがこなせるわけでもなく、結局誰が得をしたのかよくわからない公演だったが、二箇所印象に残る部分があった。一つは兵士の格好をしたダンサーたちが、ヘルメットのつばを床や壁にコツンコツンと当ててみるシーン。ヘリの轟音に包まれて気配を消していた身体たちが突然、小さいがとてつもなく雄弁な音によって実体化する。こんな物々しい格好しちゃって、と思ったらそれが他ならぬ自分であった、と我に返るというか。それから何といってもラストの、ダンサーたちがロマンティック・チュチュの布地をかぶって潜り込んだり、頭の上に丸めて立ちすくんだりしてみせる長いシークエンス。バレエの道具で「舞踏」する。写真でしか見たことのない、フランス時代の室伏のスペクタキュラーな演出を髣髴とさせた。
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