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思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

教育について

2010-12-31 00:24:22 | 思索
そもそも「教育」とは何ぞや?という、原点考察は当然必要ではあるが、まず本主題を検討する前置きとして、現在社会ありきとして想定すれば、非常にシンプルに教育の側面を捉えることができる。ある社会を構成する一個人として、その中で生きていくことを前提とするなら、どうしてもその社会専用のスキルを身に付けなければならない。よって、教育の第一の役目は、子供達にそのスキルを教えることと言える。例えば、読み書き。思考の自由度は情報量に比例する。文字情報をスポイルすることは思考の自由度を大きく狭めることになるだろう。それ以前に、まともに街中を歩くことさえままならない。

以降、原点と本質を睨みつつその周囲を確認しながら検討を進める。
人は人との関わり合いの中で、無意識に教育し教育されることが少なくない。例えば、生まれたばかりの乳児に対する母親のマザリング。つまり母親が赤ん坊を抱いてあやしたりすることであるが、この行為によって、赤ん坊の中に将来必要となる何かがインプットされる。

人を厳密に定義するのは難しいが、「人」というものの一般的概念は、ほぼ共通するものを誰もが持っている。教育という行為の原点は、どんなものにでもなり得る乳幼児を、一般的概念としての人へと作り上げることであろう。さらには異なる文化風土に応じた、また階級社会のその階級に応じた人へと作り上げることであろう。(民百姓は武家のしきたりを学ぶ必要はない)

さて、どんなものでもなり得る幼児としたが、これは「オオカミに育てられた謎の子供たち」のアマラとカマラの話に基づく。しかし、かつては高校の教科書にも載っていたこの話も、昨今では作り話ではないかとも言われるようになり、根幹部の問題ではあるが、実のところ定かではない。とはいえ、成長する子供が親の影響を多かれ少なかれ受けることは確かだろう。人の個性は遺伝の要素と環境の要素の、どちらに強く影響を受けるのか?いまはまだよく分からない。

いま教育の観点から、もっとも関心のあることのひとつはテレビゲームである。特に現在の、先進諸国におけるゲームの充満が人や社会に影響しないはずはない(ように思える)。少なからぬ人が直感的にこれを良からぬものと捉え、ゲームを否定的に見ている。しかし論理的に良からぬものと説明できないのも事実である。これについてはまた別稿にて。

教育という行為が成されるとき、それに伴う本質的リスクを常に意識しておかなければならない。これは教育する方も、教育を受ける方も同様である。前述したが、人の意識や価値観は教育によってどのようにも作ることができる。これに異を唱える方はいないだろう。これは現在を鑑みても、少し歴史を振り返っても即座に納得できる。我々が今こうあるのは、そのほとんどが、今あるように教育されたからだと言っても過言ではない。

今、多くの国民が小沢一郎はきっと悪い奴に違いないと思っているし、尖閣諸島で漁船をぶつけて謝りもしない中国は許し難い悪い国だと思っている。このように、社会で生きる術を身につけている大人でさえ、今なお教育されているのであり、教育によって事実ではないことも事実にしてしまうのは実に簡単なことなのだ。これが教育することの最大の問題点であり、細心の注意を払わなければならないと言えよう。

何が正しくて、何が事実(真実)なのかを定めることは非常に難しい。多くの場合、確認の方法が無いからだ。この点において、伝える内容は正しいことであり事実であるという前提の基に教育は成り立つ。教育を受ける側がすべてを疑えば教育もくそもない。それ故に教育する側の責任は重い。いまマスメディアの報道が大きく信頼を失墜しつつあるのは、市民が報道内容を疑い始めたからである。実はマスメディアは教育者であり、市民は被教育者であると言うことを、互いに十分に自覚しておかなければならない。

このような人と教育の相関関係において、一般論としての教育の目的は大きく2つに分かれる。一つは、問題解決のために、より客観的に事実に迫ろうとする訓練であり、科学の立場がこれに相当する。もう一つは、人あるいは集団を、ある意図に基づいて定型に作り上げようとするものである。軍隊がこれの最たる事例であろう。宗教もまたしかりである。前者には絶対はないが、後者には絶対があり、新兵や入信者はこの絶対を教育されるのである。またそうでなければ軍隊も宗教も成り立たない。またこれは、人を作る基本教育においてもすでに述べた。

世のすべての人は、意識の有無にかかわらず、また割合の比率はそれぞれ異なるにしても、この両方の教育を施された上に現在がある。便宜上、科学の立場に代表させた教育を技能教育、軍隊や宗教に代表させた教育を洗脳教育と呼べば、技能教育は思考(意識下)を作り、洗脳教育は心(無意識下)を作る。この無意識下に作られる心は強靭かつ堅固なため、集団教育が誤って(あるいは計画的に悪意を持って)なされた場合は、非常に恐ろしいことになる。これも現在と少し過去を顧みれば、即座に納得できることである。

社会や国家における秩序のための教育と聞くと、さほど抵抗なく頷いてしまいそうになるが、実はこの「秩序のための教育」こそが洗脳教育であることも多くの人が理解するだろう。日本においても近年、国家主義に向けての洗脳教育が既に始まっている。例えば、国から小中学校に配布されている「心のノート」。両親を敬いましょう。故郷を愛しましょう。国を愛しましょう。国民の意識を統一することは、ある意味国力の増強には繋がるだろうが、これは明らかに人権侵害であり、憲法違反である。また民主主義を破壊するものである。

以上、幼児期から小中学生くらいまでは、技能教育に加えて洗脳教育も旺盛に吸収しうるため、洗脳教育のファクタについては細心の注意を払わなければならない。どのように成人するかは概ねここで決まるだろう。成人してからの洗脳教育はすべてが悪と言える。繰り返しになるが、軍隊や宗教などの思想団体以外において、本質としての教育は、問題解決のために客観的事実(真実)に迫ること以外を目的としてはならない。

関連記事:テレビゲームとは何か 2011-01-04

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