
ブラームス:ピアノ三重奏第1番~第2番
ピアノ:エドウィン・フィッシャー
ヴァイオリン:ヴォルフガング・シュナイダーハン
チェロ:エンリコ・マイナルディ
CD:Music & Arts PROGRAMS CD‐739
ブラームスは、全部で3曲のピアノ三重奏曲を作曲しているが、このうちこのCDには第1番と第2番の2曲が収録されている。第1番ロ長調作品8は、ブラームスが1854年(21歳)に作曲したものだが、作曲者自身により改訂版が1891年(58歳)に出版されている。ブラームスは、よく一度作曲したものを熟考し再度作曲することも少なくなかったが、そのほとんどが最初に作曲したものは破棄された。ところが、どういうことだか知らないが、ピアノ三重奏曲第1番だけは、原曲も残っているという。このCDに録音されているのは、改訂版の方で、最初の曲に比べ三分の二に短縮されてるそうである。作曲技法がより長けた晩年に手が入れられ、コンパクトにまとめられた改訂版があれば充分な気もする。この第1番は、21歳のときに作曲されただけに、何ものも恐れない若さ溢れる意欲的な、曲想の大きさにに思わず引き寄せられる思いがする。第2番のピアノトリオは、1880年(47歳)―1882年(50歳)に作曲されたもので、ブラームス円熟期の作品。全体は牧歌的な雰囲気を持った、爽やかさが目立つ曲。ブラームスのピアノ三重奏曲は、いかにもブラームスらしくとっつき難い面も有するが、同時にブラームスの真髄に直接触れることの出来る、貴重な室内楽曲ともいえる。
第1番の第1楽章は、実に堂々としていて、若きブラームスがこれから作曲の道を歩みを始めようとして、その意欲がもろに現れた力の入った曲想を有しており、聴き応えが充分にある。ブラームスの室内楽作品の中でピアノ三重奏曲はあまりポピュラーではなく、広くは知れわたってはいないが、この第1楽章を聴くともっと聴かれてもいいのではないかという気がしてくる。第2楽章は、スケルツォの楽章で、ピアノ、ヴァイオリン、チェロがもつれ合うようにして始まり、中間部では何か懐かしい歌でも奏でているような穏やかな雰囲気がなかなかいい。第3楽章は、心に染みわたるようなアダージョの楽章で、何か奥深い森の中で一人ブラームスが物思いにふけっているような感じがする。ブラームス特有の重苦しさも持ち合わせるが、やはり初期の作品だけに、何か将来への夢のような思いも立ち込めており、意外に聴きやすいのだ。最後の第4楽章は、出だしは室内楽的だがそのうちに、中間部ではスケールの大きな、うねるような曲想が顔を出し、これで若きブラームスの意欲作だということが頷ける。
第2番の第1楽章はアレグロで、牧歌的な伸び伸びとしたメロディーが聴いていて気持ちいい。何となく有名なブラームスの弦楽六重奏曲を聴いているような気もしてくる。ただ、ブラームス特有の晦渋さも含まれ、大衆性という面では弦楽六重奏曲には一歩及ばないのかもしれない。この意味では、本当のブラームス好き向きの楽章といえよう。第2楽章は、エレジジーの雰囲気がいっぱいに詰まった、全体がゆっくりと進行する楽章だ。ピアノ、ヴァイオリン、チェロが互いに語り合うようにして演奏される様は、これぞ室内楽と感じることができる。中間部では3つの楽器が力強く一つにまとまり、ヤマをつくり聴くものを飽きさせない。第3楽章はスケルツォの楽章だが、
中間部には、ゆっくりと3つの楽器が重なり合うようにして奏でる部分も出てくる。第4楽章は、颯爽としてテンポの速い楽章に仕上がっている。この楽章の印象が、このピアノトリオ第2番の全体の雰囲気を支配していると言ってもいいほど、説得力に富んでいる。
ところで、このCDで演奏している3人、ピアノのエドウィン・フィッシャー、ヴァイオリンのウォルフガング・シュナイダーハン、チェロのエンリコ・マイナルディは、年配のリスナーにとっては、懐かしい存在であろう。エドウィン・フィッシャー(1886年―1960年)はドイツで活躍したスイス出身の名ピアニストでバッハ弾きの第一人者として名高かった。当初ヴァイオリニストのゲオルク・クーレンカンプとチェリストのエンリコ・マイナルディとピアノトリオを結成、クーレンカンプ没後はヴォルフガング・シュナイダーハンが加わり、今回のCDは、この新メンバーにより行われたもの。ヴァイオリンのヴォルフガング・シュナイダーハン(1915年―2002年)は、オーストリアの名ヴァイオリニスト。1937年からウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターを務めたことでも知られる。チェロのエンリコ・マイナルディ(1897年―1976年)は、イタリアのチェロ奏者、作曲者、指揮者。ベルリン国立歌劇場のチェロ奏者などで活躍した。このCDでの3人の演奏は、3人の個性と調和がうまく合わさり、リスナーがブラームスの室内楽の真髄を存分に味わうことに充分な、貴重な歴史的録音の1枚ということができる。(蔵 志津久)