回転する渦巻と刻々と変化していく光のパターン。機械的な音楽が不安感をあおり、女性の瞳が赤く染まる。コンピューター・グラフィックを使ったオープニングは一気に観客を画面に引き込んでいく。原作はボワロ=ナルスジャックの「死者の中から」。戦時中のフランスを舞台にした推理小説であるが、映画は現在(1950年代)のサンフランシスコが舞台になっている。
スコッティ(ジェームス・ステュアート)は仕事中のアクシデントが原因で高所恐怖症になり警察を辞めた。大学時代の友人から妻の行動を調べてほしいという依頼を受けたスコッティは、マデリン(キム・ノヴァク)の尾行を始める。マデリンは不遇の死を遂げた曾祖母カルロッタの幻影に取りつかれ、希死念慮を抱いていた。海に飛び込んだマデリンをスコッティが救出し、やがて二人は愛し合うようになる。壊れゆくマデリンを必死で救おうとするスコッティ。憂いを帯びた音楽が素晴らしく、映画の前半はゴシック・ロマンスを想わせるような幻想性と神秘性を漂わせている。マデリンは夢の中で見たスペイン風の村にスコッティを連れていき、修道院の鐘楼の上から身を投げる。高所恐怖症のスコッティは階段を昇ることができず、マデリンの自殺を止めることができなかった。
生きる気力を失ったスコッティはマデリンの影を追うようになる。ある日、街でマデリンに似た女を見つけ、声を掛けると女はジュデイと名乗った。髪形も服装もマデリンとは違うが容姿は瓜二つだ。ヒッチコックはここでスコッティには知らせずに、観客にだけジュデイが死んだマデリンと同一人物であることを明らかにする。トリックの詳細は省略するが(トリック自体はそれほど秀逸ではない)、原作では最後に解明される謎を映画では後半早々に明らかにしている。その理由をサプライズよりサスペンスを重視したからだとヒッチコックは述べているが、むしろこの作品はここから稀有な恋愛映画に変貌したように思える。
原作ではスコッティ(原作の名前は異なるが、あえて映画と同じ名前で統一する)は最初からマデリンに入れあげていて、妄想と言ってよいほど一方的な愛情を傾けている。原作のマデリンには高貴で神秘的な魅力はあまりなく、男性関係もルーズでスコッティを愛しているようにも思えない。スコッティはジュデイとマデリンを同一視し、「おまえがマデリンだろう」と激しく問い詰めて、堪えきれなくなったジュデイが真相を告白する。スコッティは自分を愛してくれないことに逆上し、ついにはジュデイ=マデリンを絞殺するという通俗的な展開になっている。
映画のスコッティも病的なほどマデリンに心を奪われているが、その妄想は純粋で神秘的である。スコッティはジュデイが死んだマデリンと同一人物であることを知らず、ジュデイの服や髪の色、髪形をマデリンと同じものに変えていく。この場面は女性蔑視であるという批判をよく聞くが、着せ替え人形のようにジュデイの外見を変えていくのは支配欲や性的フェティシズムのためではない。自分(スコッティ)を愛している女性に無理難題を押し付けて支配しようとか、自分好みの女にしようという願望ではなく、あくまでもマデリンのイメージを再現するためである。ジュデイにマデリンになって欲しいと思っているわけではなく、ジュデイを通してマデリンを感じたいだけである。スコッティはマデリンしか愛していない、マデリンしか愛せないのだ。ジュデイが寸分違わずマデリンと同じ外見になったとしても、ジュデイはジュデイでありマデリンにはなれない。
トリックが明らかにされジュデイがマデリンを演じていたことを知ったとき、スコッティはマデリンが生きていたことを喜ぶのではなく、マデリンが実在しなかった事実に絶望した。映画の最後でジュデイは自分を愛してくれと懇願するが、スコッティは
「もう遅い、彼女は戻らない」
と言って拒絶する。相思相愛であっても愛は成就せず、虚像を愛し続けることをやめないスコッティ。ここにこの映画の真の悲劇がある。(KOICHI)
原題:Vertigo
監督:アルフレッド・ヒッチコック
脚本:アレック・コペル サミュエル・テイラー
撮影:ロバート・バークス
出演:ジェームス・ステュアート キム・ノヴァク
スコッティ(ジェームス・ステュアート)は仕事中のアクシデントが原因で高所恐怖症になり警察を辞めた。大学時代の友人から妻の行動を調べてほしいという依頼を受けたスコッティは、マデリン(キム・ノヴァク)の尾行を始める。マデリンは不遇の死を遂げた曾祖母カルロッタの幻影に取りつかれ、希死念慮を抱いていた。海に飛び込んだマデリンをスコッティが救出し、やがて二人は愛し合うようになる。壊れゆくマデリンを必死で救おうとするスコッティ。憂いを帯びた音楽が素晴らしく、映画の前半はゴシック・ロマンスを想わせるような幻想性と神秘性を漂わせている。マデリンは夢の中で見たスペイン風の村にスコッティを連れていき、修道院の鐘楼の上から身を投げる。高所恐怖症のスコッティは階段を昇ることができず、マデリンの自殺を止めることができなかった。
生きる気力を失ったスコッティはマデリンの影を追うようになる。ある日、街でマデリンに似た女を見つけ、声を掛けると女はジュデイと名乗った。髪形も服装もマデリンとは違うが容姿は瓜二つだ。ヒッチコックはここでスコッティには知らせずに、観客にだけジュデイが死んだマデリンと同一人物であることを明らかにする。トリックの詳細は省略するが(トリック自体はそれほど秀逸ではない)、原作では最後に解明される謎を映画では後半早々に明らかにしている。その理由をサプライズよりサスペンスを重視したからだとヒッチコックは述べているが、むしろこの作品はここから稀有な恋愛映画に変貌したように思える。
原作ではスコッティ(原作の名前は異なるが、あえて映画と同じ名前で統一する)は最初からマデリンに入れあげていて、妄想と言ってよいほど一方的な愛情を傾けている。原作のマデリンには高貴で神秘的な魅力はあまりなく、男性関係もルーズでスコッティを愛しているようにも思えない。スコッティはジュデイとマデリンを同一視し、「おまえがマデリンだろう」と激しく問い詰めて、堪えきれなくなったジュデイが真相を告白する。スコッティは自分を愛してくれないことに逆上し、ついにはジュデイ=マデリンを絞殺するという通俗的な展開になっている。
映画のスコッティも病的なほどマデリンに心を奪われているが、その妄想は純粋で神秘的である。スコッティはジュデイが死んだマデリンと同一人物であることを知らず、ジュデイの服や髪の色、髪形をマデリンと同じものに変えていく。この場面は女性蔑視であるという批判をよく聞くが、着せ替え人形のようにジュデイの外見を変えていくのは支配欲や性的フェティシズムのためではない。自分(スコッティ)を愛している女性に無理難題を押し付けて支配しようとか、自分好みの女にしようという願望ではなく、あくまでもマデリンのイメージを再現するためである。ジュデイにマデリンになって欲しいと思っているわけではなく、ジュデイを通してマデリンを感じたいだけである。スコッティはマデリンしか愛していない、マデリンしか愛せないのだ。ジュデイが寸分違わずマデリンと同じ外見になったとしても、ジュデイはジュデイでありマデリンにはなれない。
トリックが明らかにされジュデイがマデリンを演じていたことを知ったとき、スコッティはマデリンが生きていたことを喜ぶのではなく、マデリンが実在しなかった事実に絶望した。映画の最後でジュデイは自分を愛してくれと懇願するが、スコッティは
「もう遅い、彼女は戻らない」
と言って拒絶する。相思相愛であっても愛は成就せず、虚像を愛し続けることをやめないスコッティ。ここにこの映画の真の悲劇がある。(KOICHI)
原題:Vertigo
監督:アルフレッド・ヒッチコック
脚本:アレック・コペル サミュエル・テイラー
撮影:ロバート・バークス
出演:ジェームス・ステュアート キム・ノヴァク